救い主イエス・キリスト

ヘブライ人への手紙1章5~14節

澤田直子師

主題聖句 「一方、御子に向かっては、こう言われました。『神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。」 ヘブライ人への手紙1章8節
 ヘブライ人への手紙には、旧約聖書からの引用が多くあります。紀元前300年ごろに、ギリシャ語に翻訳した旧約聖書が作られ、それによって、離散して何世代も経てもはやヘブライ語を理解しないユダヤ人も、民族のよりどころである旧約聖書を読むことができるようになりました。このことを前提として、旧約聖書を引用してイエス・キリストを証ししようとしたのです。
 何度も「天使」が出てきます。天使は救い主にはなりえない、と証明します。
偶像崇拝の地に何世代も住むうちに、天使信仰が生まれたことを伺わせます。もちろん、唯一の全知全能の神を信じているのですが、直接に神様に祈ることは、畏れ多くてとてもできない。離散の原因が不信仰にあるという負い目もあったでしょう。神様のお使いである天使に祈り、取り次いでもらおうとしたのです。わたしたちは、より身近な存在に頼りたい思いがある。人間の陥りやすい過ちの一つだと思います。
 救い主はイエス・キリストただお一人です。それはキリスト教会の基本中の基本です。わたしたちは、世を歩む中で、どこにいても、何をしていても、この基本に帰れるくせをつけておきたいのです。
 ヘブライ人への手紙では、「天使」をガブリエルのような神に仕える特別な存在とはとらえていません。その名の通りの天の使い、天から来る使いではなく、天の父の使いです。天の父のお使いをするのに、輝く衣や羽は要りません。むしろ遣わされて行く先の人々と同じ姿、同じ言葉が必要なのです。ちょうどイエス様が人間の姿となってわたしたちのところに来てくださったように。天の父は「独り子を信じる者が一人も滅びない」ことを望んでおられます。
 救い主はただお一人、イエス・キリストです。この喜びの知らせを携えて、世に遣わされて行きましょう。
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神は語られた

ヘブライ人への手紙1章1~4節

澤田 武師

主題聖句 「神は、かつて『預言』たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に『語られた』が、この終りの時代には、『御子』によって『わたしたち』に語られました。」 ヘブライ人への手紙1章1~2a節
 手紙本文中には、この手紙の著者名、執筆時代、受取人名がはっきりとわかる言葉はありません。しかし、手紙の冒頭で著者は、神様は私たちに語ってくださり、そして、私たちの信仰が神様の御言葉を聞くことから始まった、と記します。著者はこの事実を、確信をもって手紙全体の序文としました。
 かつて、神様の「語りかけ」に旧約の民は聞き従いませんでした。神様から離れて自分たちの造った神、偶像に心を向け、神様を忘れてしまいました。
 それでも、神様は変わらずに人類に「語ってくださる」お方です。それは、全ての人類の「救い」が、神様からの一方的な働きかけから始まっていることを示しています。その証しとして神様は御子イエス・キリストを送ってくださいました。それほどに私たちを愛し、私たちが生き方を変えて、永遠の命に生きる者となるように導いてくださいます。
 終わりの時代とは私たちが生きている今この時です。私たちは「御子イエス・キリストが語ってくださったお言葉」を聞きます。そして、私たちの信仰は、このお言葉を土台として建ち、造り上げられていきます。
 この手紙には、何度も試練の前に立たされ、信仰に対する喜びが薄れ、ユダヤ教に戻ろうとする誘惑に覆われている、キリスト者の姿が記されています。手紙の著者は、誘惑に揺れる者に、福音の真理をしっかりと心に留めて、押し流されないようにと励ましたかったのです。「励ましの思い」を込めて、ヘブライ人への手紙は書かれました。
 私たちにも信仰が弱る時があります。その時に励ましを与えてくれる手紙として、ヘブライ人の手紙を読んで行きましょう。
 今も、イエス様は私に語りかけてくださっています。静まって、耳と心を開いて、主のお言葉を聞きましょう。そして、私たちもサムエルのように応答しましょう。「どうぞお話ください。僕は聞いております。」
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新しい道を歩む

マタイによる福音書2章1~12節

澤田 武師

主題聖句 「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」 マタイによる福音書2章12節
 マタイは、メシア誕生を告げる「占星術の学者を導いた星の光」と、メシア誕生を知った「ヘロデ王の心の闇」とが交差した時を記します。「公現日」イエス様が異邦人に伝えられた時です。イエス様がお生まれになったという一つの事実から、クリスマスを知った者は、それぞれが自分の真実を作り出します。その真実が一人一人の行動として表わされていきます。
 神様のご計画は、ユダヤでは禁じられていた占星術でさえもキリストを示す道具として用い、学者たちを、神様に大胆に近づく者へと変えられました。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」学者たちの問いは、ヘロデ王には「不安」となりました。彼は聖書を調べさせます。聖書の預言は、彼に不安が現実になったと確信させました。彼の不安は、後にまったく関わりの無い者の命を奪う行動となります。彼は神様の光を見ることなく、自らの深い闇に覆われて生き続ける道を選びます。
 学者たちが持参した宝は、彼らが占いの道具をすべて売り払って得たお金でそろえた宝物である、との説があります。学者たちは、旅立つ前から、持てるすべてをイエス様にお捧げする宝物に替えて、用意したのでしょう、もう星に真理を探す生活には戻らない、救い主のお誕生を事実として確信した者の行動です。私たちが礼拝、諸集会へ集うことは、万事を整えて臨むことです。聖書が語る神様を求める時、真理はある人をその場に留まらせ、ある人は真理に力を得て困難をも乗り越えて行きます。
 「イエスは、ヘロデ王の時代に…。」と聖書は記しますが、どの時代であれ暗き時こそが私たち一人一人とイエス様との出会いの時です。イエス様を信じることによって大胆に真理を語り、罪の中に戻らない生活を日常の中に告白する。クリスマスの福音は人を大胆にさせ、真理を語らせ、新しい道を歩み始める者とします。真のクリスマスの祝福です。
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水を汲む者は知る

ヨハネによる福音書2章1~10節

澤田直子師

主題聖句 「イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」 ヨハネによる福音書2章7節
 イエス様が初めて行われた奇跡は、婚宴に出すぶどう酒が足りなくなったために、水をぶどう酒に変えるというものでした。清めのための水がめと書かれています。ユダヤ人は外出先から帰ったら、どこかで汚れが移ったかもしれないと考えて必ず手を洗いましたから、律法を守るための水が必要でした。
 イエス様は、最後の晩餐の席でぶどう酒の杯を回しながら『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』と言われました。水がぶどう酒に変わる奇跡は、イエス様が来られたことによって律法が福音に変えられる時が始まった、というしるしです。
 『このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていた』召し使いは主人の命令に従うほか生きる術はありません。しかし、仕方ない思いを持って働いたことをも、神様は用いられます。イエス様は『人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』(マルコ10:45)と言われました。そして、信仰者は、『あなたがたは、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。』(エフェソ5:1)と命じられています。できそうにない「神に倣う」ことを命じられる理由は、神に愛されているからです。
 2021年の最後の礼拝説教として思いを巡らしている時に、「あなたはこの年水を汲んだのか?」と問われました。全く汲まなかったということはないと思いますが、文句を言い、この意味は、この利益は、と余計なことを考えながらの働きだったかもしれません。
 この1年、コロナウィルス感染防止対策をしながら、どうやって福音伝道をしていくかを模索し続けたように思います。小松川教会の働きがどんなふうに発展するのか、あるいは後退するのか、今はまだわかりません。しかし少なくとも一つ、顔を上げて言えることがあります。わたしたちは水を汲むことをあきらめませんでした。疲れがあっても、満杯にならなかったとしても。来る年も、水を汲む僕となりましょう!
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主イエスは生まれた

ルカによる福音書2章8~20節

澤田 武師

主題聖句 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 ルカによる福音書2章14節
 時のローマ皇帝アウグストゥスからの住民登録の勅令は、聖書で預言されていた「救い主はベツレヘムでお生まれになる」イエス様のご降誕へと、ヨセフとマリアを導きました。
 この夜、ヨセフとマリアは理不尽な現実の中に居ました。彼らに与えられたものは、人の住むところではない家畜小屋と、家畜用の道具、飼い葉桶だけでした。しかし、二人は神様の導きと信じ、乳飲み子イエス様を布でくるみ、ゆりかごの代わりの飼い葉桶に寝かせます。それは今ヨセフとマリアができる、神様の恵みへの精一杯の応答です。
 人はすべて裸で生まれてきます。今、お金持ちであっても、貧しい者であっても、皆同じです。人間の赤ちゃんは大変弱い存在です。乳飲み子は親の愛、子どもを育てる愛の中に居なければ、到底生き続けることはできないのです。私たちが今ここにいるのも、この子の命を守りたいという「愛に包まれて」いたから、生きてこられたのです。神様はヨセフとマリアの愛にイエス様を託され、イエス様の地上での歩みがここから始まりました。
 野宿をしていた羊飼いたちは、天使から救い主誕生の知らせを聞きます。彼らはただちに出発し、真夜中、すでに眠りについているベツレヘムの村中の家々を探し回り、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を探し出しました。そして喜びに満たされて、賛美しながら羊飼いの仕事に戻って行きました。彼らの心は、恐れから喜びへと変えられました。
 今日、救い主イエス・キリストが私のためにお生まれになったことを知った方々が、福音の祝福と喜びの中に新たに歩み始められますようにと祈ります。
 神様が人となって、飼い葉桶の中に生まれ、さらに十字架で死なれ、三日目に復活された。簡単には信じられない出来事でしょう。
 私たちを罪から救うために、神様がただ一度、備えてくださったのがクリスマス、イエス様のご降誕です。この地上に、私のところにイエス様はおいでくださった。全人類に与えられた救い「主イエスは生まれた」この喜ばしい知らせが、永遠に伝えられますように祈りましょう。
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イエス様を信じますか

ヨハネによる福音書3章16~21節

澤田 武師

主題聖句 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』 ヨハネによる福音書3章16節
 神様は、“この世”を創造され、そこで被造物を支配するために人を創られました。しかし、罪が人の心に入り込み、罪は人を支配し、人を死ぬ者としました。その時から人は有限な存在として、この世に生きています。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。…。」神様は愛そのものであることの証が、イエス様です。神様の愛は、罪からの救いとして現され、独り子イエス様をこの世に遣わしてまでも成し遂げられます。
 イエス様は、“この世”に私たちと同じ人としてお生まれになりました。そして、神様はその独り子を、唯一無二の贖いと和解の犠牲とされ、この世に生きる者たちの救いのために、イエス様を十字架へと歩ませてくださいました。それほど“この世”を神様は“愛されました”。
 降誕劇には、この世に生きる者たちの代表として、神様から救い主イエス様のお誕生を知らされたマリアとヨセフが出てきます。さらに、イエス様のお誕生の良き知らせを伝えられた羊飼いたち、東の博士たちもいます。
 羊飼いたちの言葉を不思議に思った人々もいます。彼らは、神様からの知らせを信じなかった者たちです。また、東の博士が伝える救い主誕生の知らせに、ヘロデ王は恐怖を感じます。彼は聖書の預言を確かめ、最後には、関係の無い子どもたちの命さえも、奪い取る者となりました。彼らもまた、この世に在りました。
 附属白百合保育園の降誕劇では、イエス様のお誕生に関わった者たち皆が、神様をほめたたえ、イエス様のお誕生を賛美して終わります。敵対するローマの兵隊たちも一緒です。イエス様のお誕生の知らせは、この世に生きる者たちを一つにしてイエス様に向かわせます。アドベントの時、この世に住む私の信仰を、自問自答してみてください。私たちも降誕劇の一員として、この世に生かされ、証する者とされています。答えは「私はイエス様を信じています。」と。
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私たちに与えられた

イザヤ書9章1~5節

澤田 武師

主題聖句 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」 イザヤ書9章5節
 イザヤ預言の背景には、アッシリアに占領された人々が、強制移住や他民族との混血によって、ユダヤ人の独自性と誇りを失いかけている現実がありました。彼らはまさに「信仰のない闇の中に生きる者、希望のない死の陰の地に住む者」たちでした。神様は彼らに、イザヤを通してメッセージを与えられました。神様から与えられる光は深い喜びとなり、多いなる楽しみとなる。それはイスラエルの民の重荷をとりさり、すべての束縛から民を解き放ち、神様を信じる者たちが解放されるという、救いの預言でした。
 イザヤに託された神様からの希望は「ひとりのみどりごが、ひとりの男の子がすべての人を救う為に私たちに与えられた」という預言です。「わたしたちのために生まれた」「わたしたちに与えられた」「彼の肩にある」「唱えられる」。預言の言葉は、これらは既に完了したことを表しています。神様からの預言は必ず成就する、神様の約束は確実であることを示します。そしてこの預言は、約700年後にイエス様のお誕生によって成就します。
 イザヤは、託された預言の本当の意味を知ることはなかったでしょう。預言者の多くは、自らの預言の成就を見ないでこの世の働きを終えています。
 しかし、彼らは、神様から託されたお言葉は必ず成就すると信じました。イザヤも、「与えられた」神様のお言葉は必ず成就する、この一点に賭けて、預言者としての働きを成し遂げていったのではないでしょうか。
 私たちは信仰者であっても待つことが苦手です。今の時代は、待ち時間が少ないほど、結果がすぐに分かるほど、良いことと思われています。しかし預言の成就の時は神様にしかわかりません。それでも必ず成就する。だから信仰において、神様のお言葉を信じて待ち続ける時は、祝福の時なのです。私たちは今日、アドベントのメッセージとしてイザヤの預言を聞いています。この時代にも闇があります。そこに生きる私たちにも、イエス様は与えられました。
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平和の王を迎える

イザヤ書11章1~5節

澤田直子師

主題聖句 「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」  イザヤ書11章2節
 旧約聖書には数多くの救い主預言がありますが、質量とも圧倒的なのはイザヤ書です。イザヤは7章14節、9章5節でも救い主の到来を預言しています。エッサイの株とは、ダビデの血筋を意味します。当時の超大国アッシリアが倒れ、何もなくなった荒れ野に小さな芽が出る。誰も気づかないところで、新しい事が始まっている、そういうイメージです。
 知恵と識別とは、豊富な知識とそれを正しく使う力、思慮と勇気とは、政治的な駆け引きに長け、軍事的なリーダーシップを発揮することです。その上で「主の霊が留まる」。これはイスラエルの王の必須条件です。真のメシアであるイエス様は、『主を知り、畏れ敬う霊に満たされる』満たされているのですから、他のものが入り込む余地はありません。
 『真実をその身に帯びる』ウェスレアン神学事典には、「真実とは、真理に対する態度が誠実であること」とあります。イエス様はご自身を「道であり、真理であり、命である」と言われました。真理であるご自分の姿から逃げることがなかったのです。贖いの神の小羊。癒し主。世の光。十字架の死。そういう、御自分に求められた姿から一歩も引かず、神様の御計画を全うされました。
 イエス様のお誕生からして、当事者であるマリアとヨセフにとっては、いっそ災難と言ってもいいような出来事でした。そういう事どもを全て引き受けて、イエス様は、一方的な、無条件の愛をもってこの世に来てくださったのです。それは、わたしたちが、自分が作る平和ではなく神の平和をいただくためでした。
 クリスマスは、神の平和の始まりです。イエス様がこの世に来られた時、喜んで迎える部屋はありませんでしたが、今、わたしたちの心の内はどうでしょうか。黙示録3:20『見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入って・・・以下略』戸口に手をかけて、イエス様をお待ちしましょう。
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霊の実を求めよ

ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節

澤田直子師

主題聖句 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」 ガラテヤの信徒への手紙 5章22~23節
 ガラテヤ書5章の主題は、信仰者はキリストの愛により、十字架の贖いによって自由である、ということです。それは物事が自分の思い通りに運ぶ自由ではなく、どのような中にあっても希望を失わないことを選ぶ自由です。
 16節から、肉の導きと霊の導きとを対比させて、信仰者が目指す道を示します。ガラテヤの信徒は真面目に善い実を結ぶ方法を求めていました。そこに律法主義のユダヤ人が来ると、その教えを真に受けて福音から律法へと逆進してしまいます。ここでパウロが言う「肉の欲求に負けてはいけない」というのは、人間の知恵と力に頼ろうとする過ちを指していると思われます。
 19節から並べられる悪の数々は、人間が陥りやすい4種類の誘惑です。性的誘惑、偶像崇拝の誘惑、兄弟愛を壊す誘惑、不摂生。旧約聖書にも、これらの誘惑に負けた人々の話がたくさん記されています。人間の知恵と力でこれらの誘惑に打ち勝つことは大変に難しいのです。
 22節からの霊の結ぶ実は、9つ並列ではなく1対8です。最初の「霊の結ぶ実は愛」によって、後の8つの実が現れます。神は愛ですから、神の霊が内に住むことによって、わたしたちもまた愛の実を結ぶ者となり得ます。しかし神様の愛を自分という肉を通して表すことは難しいのです。そのために、十字架が掲げられています。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」罪の根が十字架で死んでしまった後に残るものは、神の愛と、わたしたちの弱く貧しい体です。
 第二コリント12:9「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」この御言葉に依り頼んで、主にしっかりとつながりましょう。わたしたちは、内なる神の霊により、善い実を結ぶ意志と力を与えられています。神様は、わたしたちを通してどのような実を実らせてくださるでしょうか。主の導きに希望を持ち、霊の導きに従って前進していきましょう。
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祝福に招かれる

マルコによる福音書10章13~16節

澤田 武師

主題聖句 『命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。』 詩編104編33節
 10章には3種類の人々が出てきます。ファリサイ派の人々はイエス様を試すために、そして金持ちの男は、永遠の命の存在をイエス様に問うために、イエス様に近づきます。イエス様は彼らの訪問を拒まず、祝福へ迎え入れようとされますが、彼らはイエス様のお招きを断って帰って行きました。
 もう一組、有名なラビであるイエス様から、祝福を祈っていただくために、子どもたちを連れてきた人々がいました。しかし弟子たちは、彼らを叱り、イエス様に近づくことを阻みます。ユダヤでは、子どもは“律法に関しては無知であり、それゆえ、律法に照らして神の前に功績を持ち得ない者”と考え、祝福を受けることから除外された者と見られていました。そこに加えて、忙しいイエス様を煩わせたくないという、弟子の心配りがあったかもしれません。
 マルコは、その時イエス様が“憤られた”と記しています。子どもを思う親の気持ち、祝福を願う親の気持ちをイエス様は十分に察しておられました。それゆえに、イエス様に近づくことを拒んだ弟子たちの行いに対して、激しい怒りを覚えられたのです。
 それが、弟子たちが思うイエス様への労りの心からの行動であっても、祝福に近づくことを妨げる理由にはならないことを、イエス様は示されました。
 そして、イエス様は、“神の国”は“子どものような者たちのものである”とも言われます。ただ神様の愛にすがる者、自らの努力に期待するほどのものはなく、神様の愛により頼むほか生きてゆく術を持たない、幼い無力な者たち。そのような者たちこそが神の国に招かれている、と示されます。
 イエス様は子どもたちを、招き入れ、抱き上げ、手を置いて、祝福を祈られました。その時、子どもたちへの祝福は、連れて来た大人たちに対しても祝福となったでしょう。イエス様はすべての者を祝福に招いてくださっています。私たちもイエス様の祝福によって、神の国へと招かれている者です。
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