希望は魂の錨

ヘブライ人への手紙6章13~20節

澤田直子師

主題聖句 「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくものなのです。」 ヘブライ人への手紙 6章19節
 神様の約束がどのように示され、実現したのか、一つの良い例として、創世記12章からのアブラハム物語があります。この後もヘブライ人への手紙にはアブラハムが出てきますので、ぜひ読んでいただきたいと思います。
 「約束されたものを受け継ぐ人々」聖書に出てくる人々はもちろんですが、
ヨハネ3:16「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を受け継ぐためである」とあるように、全ての信仰者、わたしたちも含まれます。
 18節には重要な言葉が3つ出てきます。1「目指す希望」希望とは、わたしたちのための神の約束の全てが実現するという期待のことです。2「世を逃れて来た」とは、世に捕らえられないで、神様に捕らえられることです。創世記のエヴァが、蛇の言葉を聞いて知恵の木の実を見たら「いかにもおいしそうで、目を引き付け…」そういう誘惑に背を向ける意思です。3「二つの不変の事柄」とは神様の約束と誓いのことです。約束は神の誠実を表し、誓いはその約束に対する保証をあらわします。わたしたちに対して、こうまでしてくださるとは、神様のご愛の何と深いことでしょうか。
 神は人間に対して三つの重要な約束をされました。一つ目はイエス様の十字架の贖いです。二つ目は聖霊降臨です。これらは既に実現しています。三つめが、イエス様の再臨、最後の審判と神の国の到来です。三つある約束の内、二つまでが実現しているなら、普通は三つめも実現すると信じることができるはずです。しかし、この三つ目の約束はあまりにもスケールが大きくて、人間の理解を超えています。それで神様は、約束が成就することを誓ってくださるのです。このことが、わたしたちの魂の錨、神の御元にとどまる力となります。
 かつて、クリスチャンは迫害下でも信仰者であることを示すためにシンボルマークを用いました。錨は、棺に彫られることが多かったそうです。わたしたちも、魂の錨を主におろして、希望の内に世を歩んで行きましょう。
📢音声

神の名のために

ヘブライ人への手紙6章4~12節

澤田直子師

主題聖句 「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。」 ヘブライ人への手紙6章11節
 ヘブライ人の信仰は先祖代々受け継がれた律法によって作り上げられた生活を守ることでした。そこに、福音が伝えられ、十字架の贖いを信じてキリスト者となった、とはいえ、今まで守ってきた生活を変えるには抵抗があったでしょう。手紙を読むヘブライ人たちに迷いがあったように感じられます。
 「一度光に照らされ」とは洗礼を受けたことを示します。6節の「その後に堕落した者」堕落と聞くと、悪い道に迷い込んだように感じますが、ここは「怠惰であることを選ぶ」というような意味です。イエス様の十字架は、わたしたちの罪の身代わりです。そのことを知れば、信仰者が物事を判断し行動する基準は自然に変わってきます。しかしわたしたちは古い自分に戻ろうとする性質を持っているので、葛藤が生まれます。考えずに習慣に従うのは楽なことです。
 この葛藤が苦しいので、「今まで通り」に戻る、自分の内側に目をつぶって、
外側に向って、これは正しい、それは誤りだ、と決めつける律法学者になることを選ぶ、主を再び自分の手で十字架につけることになるのです。これが、怠惰であることを選ぶということです。
 しかし、9節「愛する人たち」愛はすべての罪を覆います。この手紙を読む人たちに迷いがあって、楽な道を選んで古い自分に戻ろうとする力に負けそうだとしても、同じ信仰に立って祈る者がいるので、「もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。」なぜなら、神は不義な方ではないからです。ヘブライ人たちが、エルサレムの教会を思い、祈り、捧げたのは「神の名のため」でした。使徒4:12「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」イエス・キリストの名にかけて、ヘブライ人たちは愛を表したのです。神様はその行いを喜び、祝福されました。
 わたしたちの業は小さなものですが、神の名のために、何かを誰かに表して行けますように、祈りつつ歩み出しましょう。
📢音声

成熟を目指して

ヘブライ人への手紙5章11~6章3節

澤田 武師

主題 「だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」 ヘブライ人への手紙6章1-2節
 著者は、手紙の主題の一つであります「大祭司キリスト」からいったん離れて、手紙を読む者たちの霊的な心の状態へと目を向けます。
 神学者カール・バルトは人間の犯す罪を3つに分けて、その一つに「怠惰」を挙げています。「怠惰」とは、神様の愛に鈍感になる、応答しない、怠けているということです。
 著者は「話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」と、読者たちに、あなたがたはみ言葉に聞くことに怠惰な信仰者であると厳しく糾弾します。信仰は絶えずみ言葉を聞くことです。み言葉を聞くことを怠けてしまっては信仰の成長はありません。
 著者は、信仰を「固い食物」に例えます。誰でも最初は「乳」を飲んで育ちますが、やがて歯が生えてかみ砕くことができるようになり、「固い食物」を飲み込むことができるようになります。一人前の信仰者となるためには、信仰者として経験を積み、神様からの訓練(固い食物)に養われ、より確かな信仰に生きる者となるように成長することが求められます。
 パウロはエフェソの信徒への手紙の中で「あなたがたが…、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」と、キリストに触れなければ分からないと示し、体験して初めて分かる信仰の豊かさを教えます。イエス様も、例えを用いて語られた後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と、皆に言われました。私たちはみ言葉をどのように聞いてきたのでしょうか。今、自分の心には何が残っているでしょうか。固いが確かな食物をかみ砕いて消化し、自分の栄養としてきたでしょうか。イエス・キリストを求め続ける時、私たちは信仰の成熟に向って前進しています。心の底から新たにされて、キリストに似た者に造り変えていただけるよう、すべてを明け渡して神様の言葉を聴きたいと願います。神様は私たちの耳を開き、歩みを導いてくださいます。
📢音声

私の弱さの中に

ヘブライ人への手紙5章1~10節

澤田 武師

主題聖句 「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」 ヘブライ人への手紙5章2節
 ヘブライ人への手紙のキーワードの一つが、「大祭司キリスト」です。イエス様こそが真に唯一の「大祭司」であるということを知らしめるために、律法に定められた、人が担う「大祭司」と、神様のご計画によって召された「大祭司キリスト」との違いを記しています。
 人が担う「大祭司」は「人間の中から選ばれた者。」「罪のための供え物やいけにえを献げる働きを担う者。」「人々の罪を救うために神様の前に人々を代表する者。」「神様によって任命された者。」であると記されています。
 大祭司の最も重要な働きは、年に一度すべての民の罪の贖いのために、聖所で動物を捧げる儀式でした。しかし「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっている」ので、最初に自分自身の罪の贖いために動物の犠牲を献げねばなりませんでした。大祭司も罪を犯す、有限で弱い者として、認識されていたのです。
 そこを踏まえて、大祭司には「無知な人、迷いの中にある」ために神様から離れ罪を犯してしまう弱い者たちが、罪から離れ、神に立ち帰るために、忍耐を持って神様の前に導く「思いやり」が求められています。
 神様に召された「大祭司キリスト」の地上でのご生涯は、「思いやり」の歩みそのものでした。イエス様は何の苦しみもなく、何の問題もなく、たやすく救い主の働きをしたわけではありません。人間の弱さを持って叫び、涙を流されて、完全なる従順を学ばれました。イエス様は、ただ一度自らが十字架に掛けられて、すべての罪人の贖いと救いの御業を示されました。「御心に適うことが行われますように」。イエス様の祈りは聞き入れられました。
 受難節の時、改めて私たちは弱い存在であることを思います。罪を犯し続けてしまう者です。その弱さの中に、イエス様は今日も明日も、共に居られることにを感謝いたしましょう。イエス様の御名が崇められますようにと祈りましょう。神様の救いを私たちの人生の中心において、そこから離れない信仰生活を歩み続けられますようにと、祈りましょう。
📢音声

神の御前に立つ

ヘブライ人への手紙4章12~16節

澤田直子師

主題聖句 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」 ヘブライ人への手紙4章16節
 ここから9章まで、ヘブライ人への手紙の主題は「祭司とは何か」ということになります。宗教改革以降、「万人祭司」という教理が生まれ、教会はそこに立って歩んできました。旧約聖書の時代、祭司は世襲職でしたが、今はそうではなく、現在の職が何であれ神に遣わされてそこにいるのであり、その仕事をもって神と人に仕える以信仰者は等しく祭司職なのです。
 13節『この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。』生ける神の御前に立ってその御言葉によって聖別されるのであれば、どれほど多くの罪や汚れ、不要のものを切り分けていただかなければならないことでしょうか。わたしたちは神様を信じお委ねしているとは言え、いざその時が来たら安心して御前に出て行こう、という気持ちにはなかなかなれないのではないかと思います。
 旧約聖書では、祭司が神の御前に立つ際の服装が細かく定められています。材質や重さ、形、今でも作れると思うくらい細かく記されています。神の御前に立つには、特別な服装が求められたのです。使徒言行録以降は、目に見える服装ではなく目に見えないものを着るように勧められます。
 コロサイ3:9~10『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。』もともと人間は、神の似姿として誕生しました。しかし知恵の木の実を食べて罪を呼び込んで以来、自己中心の罪から離れられず、古い人を着続けることにこだわってきました。身に馴染んだ古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けるには、少しばかり勇気が必要で、馴染むまでの忍耐も必要です。
 信仰者が身に着ける「新しい人」とは、もちろん、イエス・キリストです。この大祭司は、古い人を脱ぐことの困難を知っていてくださり、憐れんでくださるお方です。この大祭司に依り頼んで、主の御前に進み出ましょう。
📢音声

神の安息にあずかる

ヘブライ人への手紙4章1~11節

澤田直子師

主題聖句 「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」 ヘブライ人への手紙4章9節
 「神の安息」という言葉が出てきます。創世記の天地創造では、神様は6日間で世界を創造され、「極めて良かった」と満足されて、7日目をご自身の安息の日に定められました。創世記2章2節『神は御自分の仕事を離れ、安息なさった』それで、第七の日を祝福し聖別されたとあります。神の安息とは祝福と聖別の時です。心を留めたいのは、第一から第六の日までは、それぞれの最後に「夕べがあり、朝があった」という言葉があるのですが、第七日だけはそれがないということです。これは、神の安息の日、祝福と聖別の時は今に至るまで続いているということを表します。「安息日」とは、仕事をしてはいけない日ではなく、神の祝福と聖別の日です。
 しかし多くの人は、この世界にある貧困や争いを見て、あるいは自分の心の内にある悩みや苦しみを見て、どこに祝福や安息があるのか、と思うでしょう。聖書はそれを「かたくなな心」と言い表します。神の安息は揺らぎませんが、わたしたちの心は揺らぎます。安息から離れていくのは世がそうさせるのではなく、わたしたち自身が神の御手から迷い出ることを選んでいるのです。
 「安息」は神に属するもので、かつて神殿の至聖所で香を焚いた祭司は、外で待つ民衆に祝福の祈りをしました。「あずかる」を漢字では「与」という字を使います。与えることと与かることは同じ祝福なのです。ペトロの手紙Ⅰの3:9『祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。』
 13節には「神の言葉は生きている」とあります。生きているとは、動くこと、変化することです。そして、この鋭さは、信仰者を導き、心の思いや考えを見分けます。「分ける」とは聖別です。人間は自分で自分を聖別することができません。しかし神の御言葉が、信仰者を祝福し聖別して、迎え入れ、遣わしてくださる、このことを信じて委ねることが信仰です。そして、この信仰が整えられ養われるために、わたしたちは礼拝に招かれているのです。
📢音声

今日神の声を聞く

ヘブライ人への手紙3章7~19節

澤田 武師

主題聖句 「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」 ヘブライ人への手紙3章13節
 ヘブライ人への手紙の特徴の一つは、旧約聖書を多数引用していることです。3章で著者が引用するのは、本来は新年を祝う時に歌われたといわれる詩編95編の7節~11節です。ここをイエス様のみ言葉への証詞として解釈し、用いています。
        
 「かたくな」とは神のみ言葉に対して、「聞く事を拒否する、注意を払わない、鈍感である」、などの意味を持つ言葉です。聖書の中には多く使われます。
 著者は、かつてユダヤの民は神様に不平不満を叫び続け、神様の約束を信じなかった、『かたくなな民』であったことを明らかにします。改めて「兄弟たち」と呼びかけるのは、この出来事は過去のことではなく、今既にイエス様の十字架の救いを知っている者、信仰者として生きている者に向けられたメッセージであることを示します。「かたくなな心」を放置していると、「信仰のない悪い心」神様の約束を疑う心、試みる心が生まれます。生きた神様との解離を気づかせず、神様からの招きに背を向けてしまう心です。それは信仰生活を脅かす重大な罪となります。
 13節「…『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」。イエス様の約束を信じた者が、その恵みを、救われた喜びを分かち合い、時として「かたくな」になりそうな心を、共に励まし合い、さらにみ言葉に応答する者として歩む。それが「今日」信仰に生きるということです。パウロは「今日」とは『今や恵みの時 今こそ救いの日』を、実感することであると言っています。
 「主の日」はイエス様が復活された「日曜日」だけではありません。信仰者の毎日は、イエス様とお会いする「今日」であるはずです。「今日」はみ言葉への応答を先に延ばしてはいけない日です。神様は「あなたたちは今日を生きよ」と励ましのお言葉をかけてくださっています。かたくなな心を捨て、「今日」もう一度神様の御声を聞きましょう。
📢音声

私たちこそ神の家

ヘブライ人への手紙3章1~6節

澤田 武師

主題聖句 『キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。』 ヘブライ人への手紙3章6節
 著者は「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と、ユダヤ人クリスチャンに呼びかけます。神様は彼らを知っていてくださり、彼らは既に、神様の壮大なご計画の内にあり、「神の家の一員」として招かれています。
 しかし現実は、ふたたび試練と艱難が彼らを捉えようとしています。彼らの信仰は危機的状況にあります。
 「イエスのことを考えなさい」と著者は迫ります。注意を集中して、全精力を傾けて、イエス様の、その真理を探究する、本質を見極める、心を研ぎ澄ましてイエス様に迫っていく。改めてイエス様と対面しなさいと命じます。それは全てのクリスチャンに語られた言葉なのです。
 「イエス様のことを考えなさい」という薦めは、「あなたはイエス様のことをどう思っているのか」との問いに変わらざるを得ません。イエス様ならどうされたか、イエス様ならどう思われたかを、自分に問い続けるのです。この世を歩む信仰者として、自分の心がどこへ向かっているかを絶えず確認し続けるということです。私たちもまた「神の家の一員」に招かれている者として、ふさわしい者であり続けたい。この祈りから全てが始まります。
 「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」信仰者の歩みは、イエス様の希望と喜びに満たされ続ける生涯です。そこに神様によって生かされている者、神様を第一とする者の姿があります。この者たちこそ、神の家と呼ばれる者にふさわしいのです。
 大祭司イエス様は、私たちと神様との間を引き離そうとするあらゆる力から解放するために、ご自分を犠牲として捧げてくださいました。このイエス様を信じることによって、私たちは神様に大胆に近づくことができるのです。
 神様が特別な思いで創られた神の家。それが地上に建てられた教会です。その教会に招かれた一人一人が、神の家なる教会を形成する者たちです。私たちこそ神の家なのですと、証し続ける信仰者となりましょう。
📢音声

試練を知る神

ヘブライ人への手紙2章10~18節

澤田 武師

主題聖句 「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」 ヘブライ人への手紙2章18節
 私たちが生きていくことは、「試練と共に歩む」ことであると言えます。試練は人間の誰にでも訪れます。しかし神様は全てを創られ、支配され、命を吹き込まれる方です。永遠に居られる神様に試練はありません。ところがイエス様は、神と等しいお方でありながら、人間として世に来られ、肉体を持つ者たちと同じように数々の苦しみを通られ、共に試練を歩んでくださいました。
 「死」が、私たちが経験する最大の試練でしょう。愛する者の死、かけがえのない者の死、自分自身の死、できれば避けて通りたいと誰もが考えます。
 聖書が記す「死」の第一は身体の死です。しかし信仰的には、死とは身体の死だけではなく、被造物なる人間が、命の根源である神様から離れることです。ここには神様に対する人間の反逆があります。パウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」(ローマ5:12)と記しています。罪による死の恐怖から、生涯奴隷の状態にある者を解放するため、イエス様はご自分の死によって罪を滅ぼし、私たちの救い主となってくださいました。
 マーガレット・F・パワーズ作「足跡」という詩があります。夢の中で、主と歩いていた砂浜、そこには今までの人生が映し出されました。一緒に歩いてくださっていた神様の足跡が消えているところがあります。作者は神様に訴えます。何故、あの苦難の時、困難な時、一緒に居てくださらなかったのか。神様は答えてくださいます。「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡がひとつだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた。』
 イエス様は、今も、私たちの試練を私たちごと背負ってくださっています。ご自身も痛みを知っておられるからこそ「試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」主にお委ねして平安に歩みましょう。
📢音声

人間とは何者なのか

ヘブライ人への手紙2章1~9節

澤田直子師

主題聖句 「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」 ヘブライ人への手紙 2章3a節
 2節の「天使たちを通して語られた言葉」とは律法を指します。モーセがシナイ山で十戒を授けられた時、天使たちが神に仕えていたという言い伝えがユダヤ教にあったのです。その律法をはるかにしのいで、完全なものである福音にむとんちゃくであるならば、罰を逃れる術はもう一つもない、ここで言う「罰」とは神との永遠の断絶です。
 律法は神様からの命令です。多くの人が共に暮らす時に必要なルールです。また、ユダヤ人が神の選びの民として、神に守られ続けるためにも必要でした。命令違反は処罰の対象になる、これはわかりやすいことです。
 福音は命令ではありません。福音は、招きです。全ての人に届けられる神様からの招待状です。洗礼は、この招待状に「はい、わたしはまいります」と返事をすることです。招待状の封を切っていない、中身を見たが返事をどうしようか考えあぐねている、そういう人もいます。そのために教会があり、集う者たちが証をするのです。それが4節に書かれていることです。
 聖書には「人間とは何者でしょう」という問いが何度も出てきます。「救われる」ということは、神様との確固たる絆ができる、決して切れることのない関係が保証される、ということです。しかし信仰が深まるにつれ、ある疑問が生じてきます。それは「このわたしが、なぜ?」大伝道者パウロも、望んでいる善ではなく望まない悪を行っている自分を「なんと惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。洗礼を受けたら何の苦も迷いもなく善い人になれるということはなく、むしろ葛藤が増えるかもしれません。
 ふさわしくない者をふさわしくするために、神は独り子を十字架につけて死なせました。これが、神が示される福音です。それほどまでに愛されたわたしたちは、この愛に依り頼み神の御許に留まろうとします。これが、信仰者が神に応える福音です。福音を味わい尽くし、養われて、遣わされて行きましょう。
📢音声