苦難を恐れない

ヨハネの黙示録2章8~11節

澤田 武師

主題聖句 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」 ヨハネの黙示録2章10節a
 スミルナの町は、小アジアとエーゲ海地域にあるローマ領の中で、陸路と良き港の恩恵によって繁栄し、最も商業が盛んな中心地の一つでした。 また、偶像礼拝が盛んで、キリスト教徒とユダヤ人との対立も激しかったようです。スルミナの教会に送られた手紙には、この町で信仰者として生きる者たちへの、神様からの励ましと約束のお言葉が記されています。
 「最初の者にして、最後の者である方」イエス様は唯一絶対のお方であり、何者もこのお方を超えることはできません。イエス様を抜きにしての繁栄は見せかけです。信仰者にとって、この世は栄枯盛衰の儚さを繰り返すだけの場です。しかし「一度死んだが、また生きた方」と、イエス様の十字架と復活にこそ、死をも乗り越える神様の永遠の命と栄光があることを示しています。
 「あなたの苦難や貧しさを知っている。」信仰は世と対立します。信仰を持つが故の苦難や貧しさを知ります。特にユダヤ人が多く住んでいたスミルナでは、ユダヤ人からの迫害が激しくなってきていました。おそらく「ローマ皇帝は主である」と告白すれば、この弾圧からは解放されるでしょう。しかし、それでも信仰を守っていく信仰者の全てをイエス様は知っておられる。何と慰めに満ちた、神様の約束のお言葉でしょうか。
 「本当はあなたは豊かなのだ。」迫害による苦難や貧しさは、神様の恵みが既に豊かに与えられていることを、改めて知る時となります。私たちは、どんなことでも祈ることができるのです。そして、私たちも知らずにたくさんの方々から祈られています。自分だけで生きているのではないのです。神様に生かされているのです。何と励ましに満ちたお言葉でしょうか。
 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」イエス様の約束です。イエス様は私たちの悩みも苦しみも全て知っていてくださる。私たちは独りではありません。いつもイエス様は共に居られます。私たちの信仰生活を励ましてくださいます。神様に生かされているという確信をもって信仰者として歩み続けることが叶いますよう、祈り求めて行きましょう。
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初めに立ち戻れ

ヨハネの黙示録2章1~7節

澤田 武師

主題聖句 「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」 ヨハネの黙示録2章5節a
 イエス様は「あなたの見ていることを巻物に書き、七つの教会へ送れ。今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」とヨハネに命じます。
 偶像礼拝の中心地に建てられたエフェソの教会へは、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」と、異端への対応が完璧になされたことをイエス様は褒められました。しかし、言うべきことがあると手紙は続きます。
 イエス様は「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」と、神様の愛、見返りを求めず、自己犠牲の愛、ἀγάπηの愛を見失っていると指摘します。既にエフェソの教会には神様の愛が無いのです。
 ヨハネは福音書の中で、イエス様のご命令として、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と、兄弟愛に生きることを記しています。
 ἀγάπηの愛はキリストへの愛でもあります。また、同胞への愛でもあります。この二つの愛は一体であって、これを分けて行うことはできません。
 エフェソ宣教、その初めには熱心さや、喜び、共に集う者への兄弟愛がありました。しかし今、愛は変質して同胞の信仰を裁く言葉となっています。
 「思い出し、初めのころの行いに立ち戻れ。」愛は、悔い改めから再び起こされます。それは神様に委ねる信仰生活へと変えられ、証として表されます。
 「耳ある者は聞くがよい」エフェソの教会には、「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」との言葉がおくられます。
 命の木の実を食べることは、キリストの国で正義の祝福を受けることです。キリストの支配が確立された時、主に忠実に生きて勝利した者は、すべての喜びに預かります。人は人から聞く愛の言葉によって、心が豊かにされます。御言葉を心で聞き、愛の言葉を実践する教会として歩み続けましょう。
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あなたの信仰

マルコによる福音書5章24~34節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」 マルコによる福音書5章34節
 イエス様はご自分から「力が出て行った」ことを感じられました。そして振り返り「わたしの服に触れたのはだれか」と、この群衆の中に居る癒しの救いを求めた “誰か”を探そうとされます。
 イエス様の服に触れさえすれば病は癒される。この迷信的癒しの奇跡を信じて、密かに群衆に紛れ込み、後ろからイエス様に近づき服に触れた女性は、この時、病の癒しを実感しました。願いは叶えられました。
 この女性の病は、律法の規定によれば社会との断絶を強いるものでした。日常生活の喪失の原因ともなり、苦しい闘病生活は人間不信を招き、女性を苦しめてきました。病と律法がこの女性を責めます。しかし、この時迷信的な信仰にさえすがった者が、今、本当の信仰を得るためイエス様と出会います。
 イエス様は“誰か”を探し続けられます。女性はまだ、群衆の中の一人として、その姿をイエス様にはさらしていません。
 女性は戸惑います。イエス様が探されているのは私である。「女性は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり」と、震えながら進み出て、すべてをありのままに話します。イエス様の前に姿を現しひれ伏します。
 『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。…元気に暮らしなさい。』イエス様は、この女性の信仰を褒められます。しかし、ただイエス様に触れさえすれば癒されることが病の癒しの信仰では無い。女性ははっきりと知ることになりました。イエス様から流れ出た力は、女性の全てを癒しました。
 イエス様は求める者、一人一人を探し続けてくださいます。将来へと向かう一歩となるように励まし力づけてくださいます。この女性の目に映ったのは、群衆でも律法でもなく、目の前に居られるイエス様のお姿だけです。
 イエス様が褒めてくださる信仰とは、イエス様に委ねきる信仰ではないでしょうか。すべてを託した時、イエス様からの励ましの言葉、信仰の勝利宣言は聞こえてきます。それは私たちの信仰への励ましの言葉となります。
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苦しみも恵み

フィリピの信徒への手紙1章21~30節

澤田直子師

主題聖句 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」 フィリピの信徒への手紙1章21節
 元律法学者のパウロにとって、「キリスト」とは人を指し示す言葉というよりも、宗教的な信仰的な意味を持っていたと思います。そしてパウロはおそらく人間としてのイエス様に会ったことはなかったでしょう。ですから、ユダヤ人にとって希望の言葉である「キリスト」がイエスであった、という意味合いで「キリスト・イエス」と呼び、自分の生涯の最初から最後までが、キリストの働きの一部として捧げられることを望んでいます。それが「生きるとはキリスト」の意味でしょう。
 それでは「死ぬことは利益なのです」この言葉をどうとらえれば良いでしょうか。わたしたちは、年齢性別にかかわらず、自分も他者も「死ぬことは利益」とは考えません。パウロは過去に天に上げられる、いわゆる臨死体験のような経験をしています。(コリント二 12章参照)この時、パウロが感動したのは、そこでは神様の御旨がはっきりと示された、理解できたということでした。(コリント一 13章)ですからパウロにとっては、死はキリストのために働きを捧げることがもっと容易になり、もっと喜びが増す、そのために扉を開けて階段に踏み出すようなものだったのだろうと思います。
 病後、多くの方が「無理をしないで」と気遣ってくださいますが、よく考えると、ただの人間が福音伝道のために召されること自体が大いなる無理です。コリント一 1:21「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」から、教会は伝道者を一人にしてはなりません。パウロはフィリピの信徒に「共に戦っている」と書き送りました。そして「キリストのために苦しむことも恵み」と言いました。クリスチャンでなければ共に苦しむことはなかったかもしれないが、それでも、キリストを知らないよりも知って共に苦しむ方がずっと良いのです。祈りは聞かれます。主は共におられます。恵みとして与えられる苦しみを避けることなく、主を信じて歩んで行きましょう。
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神様の栄光のために

コリントの信徒への手紙一10章23~31節

澤田 武師

主題聖句 「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」 コリントの信徒への手紙一10章31節
 コリントでは、「偶像に供えられた肉」を食べて良いのかいけないのかが重大な問題となっていました。当時、市場では他の神々に献げられた肉も売られていたので、ユダヤ教祭儀律法は市場で肉を買うこと自体を禁じていました。
 イエス様の十字架の贖いを、信仰の自由を与えてくださったと信じる者たちは、神様が供えてくださったものを食べることに支障は無いと主張します。
 しかし、彼らの言動から躓きを覚え、神学的に対立する者たちが起こされました。避けては通ることができない教会の課題の一つとなりました。
 パウロは「市場で売っているものは、なんでも食べなさい。」と宣言しますが、「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」と、躓きを覚える者たちへの配慮は忘れません。
 パウロ自身はその宣教活動において、新たな信徒を得るためにそれまでの方法にこだわらず、戦略的に伝道を進めています。パウロはイエス様から与えられた信仰者の自由は決して変わらないとの確信を抱いています。それが神様の栄光を現わすものとなるために、パウロは相手によって方法論を変え、自分を規制してまでも、相手の良心に寄り添っていきます。
 私たち信仰者はイエス様を中心として生きています。イエス様はご自分の罪のために十字架に掛かられたのではありません。それは他者(私たち)の罪の贖いのためです。私たちが十字架を仰ぎ見る時、他者のために死んでくださったイエス様のお姿がそこに見えてきます。
 食べること飲むことも含まれる日常の中で、パウロは私たちにも「何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」と語ります。
 神様はあなたを用いて、あなたの弱さの中にも、不足の中にも、神様の栄光を現わそうとされています。今あなたの日常は、あなたが神様の栄光を現わすために備えられた時であることを覚えて、歩み続けましょう。
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平和を語る

詩編120編

澤田 武師

主題聖句 「平和こそ、わたしは語るのに 彼らはただ、戦いを語る。」 詩編120編7節
 詩編120編1節には「都に上る歌」と記されています。続く134編までの詩編も「都に上る歌」と記されています。これらの15編の詩編はユダヤの大祭の時、エルサレムを目指して上って行く巡礼者が歌ったものとして、まとめて記されたものと思われます。
 作者は、「苦難の中から主を呼ぶと主はわたしに答えてくださった。」と告白します。作者が経験した苦難がどのような状況であったのかは分かりませんが、「主はわたしに答えてくださった。」その時神様が共に居られて、作者の祈りに答えてくださった。神様は作者に御心を示しておられました。
 6節、作者は今「平和を憎む者と共に」住んでいるようです。心が神様から隔てられている者たち、偽りの言葉、欺きの言葉を語る者たちと、久しく共に住まなければならない現実を作者は嘆きます。神様からの乖離は不幸であると嘆きます。ここには作者の求める神様の平和はありません。
 しかし、この状況の中でも作者は再び神様を呼び求めます。2節「主よ、わたしの魂を助け出してください。」作者は神様への祈りの言葉は忘れません。平和は神様のもとにこそあります。
 作者は、神様の平和を語ります。例え神様から遠くはなれていても、作者の声をかき消すような、戦いを語る者たちに囲まれていても作者は語ります。
 イエス様が「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と山上の説教で語られた時も、ローマの力は支配地域を偽りと欺きの言葉となって覆っていました。そこにイエス様は遣わされ、十字架の贖いと永遠の命を信じることから与えられる、神様の平和を示されました。
 私たちの日々の祈りは、この現実が変えられ、すべての者たちが平和に生きる世界を求めていきます。私たちは既に平和を祈る者とされています。平和を語る者として生かされたいものです。世に神様の平和を伝えて行く使命に生きましょう。マザーテレサは「平和は微笑から始まる。」との言葉を残しました。愛する人々と共に、神様の愛を語りましょう。
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生きるにも死ぬにも

フィリピの信徒への手紙1章12~21節

澤田直子師

主題聖句 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」 フィリピの信徒への手紙1章21節
 再び講壇に立ち、御言葉の取次ぎをさせていただく恵みに感謝します。聖書のこの箇所は、入院中に何度も示された御言葉でした。
 フィリピは人工的な町で、ローマの職業軍人が退役して集まっていました。階級としては百人隊長以上、中産階級と年配者が多い落ち着いた雰囲気の町であったようです。パウロがここを訪れた時のことは使徒言行録16章に短く書かれていますが、フィリピの信徒の多くはローマにルーツを持つ異邦人でした。しかしフィリピの教会とパウロは信頼関係と祈りで結ばれ、自活にこだわったパウロもフィリピからの援助は喜んでいます。
 フィリピの信徒への手紙は「獄中書簡」ですが、パウロは何度も獄につながれましたから、いつの、どこの、という点では多くの説があります。おそらくは紀元60年代、ローマで二度目に投獄された時と思われます。この時は殉教につながる投獄でした。
 そのような中で12節「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしい」とパウロは書き送ります。18節には「とにかくキリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。」とあります。この手紙には「喜ぶ」という言葉がたくさん出てくるので、別名「喜びの手紙」と呼ばれています。殉教を目の前にして獄中で書かれた手紙が「喜びの手紙」なのです。パウロは自分の命はともかく、神様のご計画は、全体として良い方向へ進んでいるのだから、心配はいらないと語りかけているのです。
 生きるにも死ぬにも、わたしたちは神様のご計画の中にあり、主のものとして取り扱われます。わたしたちがいることが、あるいはいたことが、神を証します。わたしたちは生きるにも死ぬにも神の相続者であり証者です。
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ダビデに続く

ルツ記4章11~22節

澤田 武師

主題聖句 『近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。』 ルツ記4章17節
 旧約聖書では、豊かに益し加えられて、与えられることは神様からの“祝福”と考えられます。ルツとボアズの結婚はまさに神様の“祝福”となりました。
 11節「わたしたちは証人です。」ナオミの嗣業の土地の、買い戻しの交渉に立ち会った長老たち、また広場に居合わせた民衆は、この結婚が神様からの“祝福”であることを喜び、証人となることを承諾します。
 神様の祝福はかつてヤコブの妻たち「ラケルとレア」、(正式には、側女ビルハと、側女ジルパの2人も含む)に授けられ、12部族連合の基となる12人の子どもが与えられました。神様は彼女たちを通して、イスラエル建国の礎となる祝福をお与えになったのです。更にその中の一人、ユダの子どもを宿したタマルは、イエス様に続くユダ族の礎となったのです。
 ルツがボアズと作る新しい家庭に、イスラエルの族長たちに与えられたと同じ“祝福”があるようにと、証は祈りへと変わります。
 14節「主をたたえよ」と、女性たちは喜びます。「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」と、ルツの日常に神様が働かれていたことが証しされています。モアブの地で孤独と失望に覆われて帰国したナオミは今、腕の中に子ども(オベド・仕える者)を抱いています。この子はナオミの今後の生活を支え、将来の祝福となる、神様が与えられた約束です。
 マタイ福音書の系図はイエス様に至って終わります。ナオミもルツも、自分たちの子孫からユダヤの王が出ること、救い主がお生まれになる事実を知ることはありませんでした。人間が知ることの出来る時間は、限られています。
 神様が備えてくださる“私たちの日常”は、やがて示される神様の栄光のためにあるのです。だから私たちの今がどのようなものであろうとも、私たちはここで神様を待ち望みましょう。私たちは今日、私たちの日常の中にある、神様の永遠のご計画を見ましょう。
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六杯の麦の証

ルツ記3章10~18節

澤田 武師

主題聖句 「ルツがしっかりとつかんだ肩掛けの中に大麦を六杯量ってルツに背負わせると、ボアズは町へ戻って行った。」 ルツ記3章15節c
 ルツ記は各章に“時”を記しています。1章22節「大麦の刈り入れが始まるころ」、そして2章23節「大麦と小麦の刈り入れが終わるまで」。ルツは神様の導きにより、ボアズの畑で落穂を拾います。そして3章2節「今晩、麦打ち場で大麦をふるい分ける」、と大麦の刈り入れの終わりを告げます。それは、ボアズの好意によって養われる時の終わりが近いことを意味しています。
 ナオミはボアズが抱いているルツへの好意、さらに、エレメレクの嗣業の土地の買戻しの義務と権利を持つ親戚でもあることから、ルツの幸せのため、嗣業の地を残すために、ボアズをルツとの結婚に導こうとし、ルツに言葉を託します。「このはしためを覆ってください。」ルツはボアズへ迫ります。そしてボアズにすべてを託します。ルツのボアズへの証の言葉です。
 「その後すべきことは、あの人が教えてくださるでしょう。」この言葉は、ボアズへの信頼、ルツに託したナオミの証の言葉です。
 15節「ルツがしっかりとつかんだ肩掛けの中に大麦を六杯量ってルツに背負わせると、ボアズは町へ戻って行った。」かつて、手ぶらでモアブから帰って来たナオミにとって、ボアズが詰め込んだ大麦は神様の恵みです。ルツが背負う大麦は、ボアズが一切を引き受ける決断を表す、ボアズのナオミへの証の言葉です。「なり行きがはっきりするまでじっとしていなさい」と、ナオミは今後を神様に委ねます。ナオミの神様への証の言葉です。
 彼らは神様のご計画と信じて歩む者たちです。ご計画を実行する原動力は信仰です。そして神様は、それをそれぞれの人生の中である人には“時”をもって、ある人には“出会い”をもって、また、ある人には“失うこと”をもって迫られます。今あなたに神様が迫っているなら、神様のお言葉を恐れず実行してみてください。今は私たちには分からなくても、神様のご計画は進んでいるのです。その舞台として私たちにも日常が備えられています。その日常に私たちは信仰者として生かされています。私たちはそれぞれの日常の中で、神様のご計画を証する者として、神様の豊な恵みの証人となりましょう。
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贖いの落穂

ルツ記2章17~23節

澤田 武師

主題聖句 「ナオミは嫁に言った。『どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。』」 ルツ記2章20節
 聖書は貧しい者や寡婦たちの生活を支えるために、“落穂を拾う権利”を認
めています。(レビ23:22他)そして富める者に対して、収穫の時には、畑の隅まで刈り尽くさないこと、集められずにこぼれた落穂は必ずそのまま残すようにと命じられています。(レビ19:9他)
 “落穂拾い”は命の糧を守るための律法で、「主はあなたを祝福される」と神様が備えられ、神様が養ってくださるための掟であると言えます。そこが現在の人が支える社会福祉の考え方とは異なる点です。
 ナオミとルツのベツレヘムでの生活は、他人の落穂を拾わせてもらう厚意によってのみ支えられています。ルツは必要に迫られて、落穂を拾いに出掛けて行きますが、頼れる者はここにはいません。送り出したナオミも不安であったでしょう。
 既にルツの行動には、神様の備えが示されていました。17節「ルツは…日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。…取れた大麦は一エファほどにもなった。」1エファは約23リットル。一人の女性が落穂拾いをして集められる量ではありません。ルツはボアズの畑に導かれ、そこで落穂拾いの範囲を超えた、特別な待遇を与えられます。神様はボアズを通して、彼女たちに命を与えます。
 ナオミはルツが落穂拾いで拾ってきた大量の麦と、食べきれずに持って帰ってきた炒り麦を目の前にして、戸惑います。
 そしてこの恵みが、ボアズの計らいと知った時、目の前の落穂は、自分たちに命を与えただけでなく、神様が落穂として拾い集めてくださったことをナオミは知りました。ボアズの背後に居られて働いてくださる神様の御手が、落穂を備えてくださったと、神様が落ち穂のような私を顧みてくださったと、ナオミの信仰をも回復させました。
 神様は生活を支え、そして用いてくださる。私たちも神様が御手をもって贖い拾われた落穂です。神様が用いてくださるために。この日常を歩みましょう。
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