ナザレの人イエス

マタイによる福音書2章19~23節

澤田 武師

主題聖句 「ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」 マタイによる福音書2章23節
 ヨセフは迷わず天使の命令の「神様が示された目的地」を信じて、夜の闇の中へと歩み出しました。ヨセフにはヘロデ大王に抵抗する力は到底ありません。当時のユダヤでは誰も彼には歯向かえなかったでしょう。救い主誕生の大きな喜びのすぐ後に、他国に避難しなければならない事態となるとは。神様の御心と知りながらも、混乱と不安をヨセフは感じていたはずです。
 旧約聖書「創世記」では、「生まれ故郷を父の家を離れて…行きなさい」との神様の御言葉により、アブラハムは旅立ちます。また、モーセは「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると…あなたたちを導き入れ」との神様の約束に従い通しました。彼らに示されたのは、それぞれの最終目的地です。その「点」を目指して歩む、御心と信じた者たちの姿を、聖書は記しています。
 クリスマスを託された者たちは、神様の御心を信じて、それぞれに示された「点」に向かいました。そして神様は、私たちをも幾つかの「点」に導いてくださいます。信仰の「原点」。洗礼を受けた日、信仰者としての歩みはこの「点」から始まりました。そして、次に進むべき「点」、いつ与えられるか、どこへ導かれるか分かりませんが、お一人お一人異なる目的地が備えられています。
 信仰者に与えられた「点」と「点」が結ばれ、繋がって「線」となります。「線」が交差する処に、兄弟姉妹の交わりが生まれ、教会と成ります。
 「ナザレの人イエス」とは、イエス様に敵対する者たちが蔑んで付けた呼び名です。しかし、この方だけが、真の救い主として私たちに与えられました。イエス様の歩みは「十字架の死」に向かっての歩みです。ヨセフとマリアの旅の終わりに示されたナザレの町は、苦難の僕としての、イエス様の公生涯がスタートした町、十字架へ向かわれる「点」となりました。
 ヨセフがつないだ「線」、足跡は、どのような時代であっても信仰者が神様の御言葉に従って行く姿と重なります。イエス様の十字架を目指して進む、イエス様を人生の主役とする生き方を、表しています。
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朽ちない冠を得る

コリントの信徒への手紙一9章19~27節

澤田直子師

主題聖句 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」 コリントの信徒への手紙一 9章23節
 これは2020年の小松川教会の標語聖句でした。一年が終わろうとする今、もう一度この御言葉を分かち合いたいと思います。この一年、わたしは今まで全く縁のなかったスカイプやズームでの交わりを覚えました。若い人たちがユーチューブを駆使するのを「すごいなあ」と見ていたのが、自分がユーチューブデビューです。「どんなことでもします」とは、こういうことだったのか?と、神様のご計画には驚かされるばかりです。
 さて、パウロは古代オリンピックの競技を例に挙げて、信仰者も賞を得るように走りなさい、節制しなさい、と勧めます。しかしパウロが聖書に基づいて説くのは「信仰義認」、神が信仰者に求めるのは、ただ信仰のみのはずです。
 どのような競技であれルールがあり、ルールを知らず、守らないのでは、どんなに速くても強くても勝利は得られません。信仰者の守るべきルールは二つ、「全てを尽くして神を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」です。パウロが自分の体を打ちたたいて服従させる、と言うのは、イエス様の「互いに愛し合いなさい」という教えに服従しなければ、失格者になってしまうと思い定めているのです。パウロは弱みを隠そうとせずに、自分は普通にしていたら主の教えに服従できないと証しています。
 パウロは、全ての信仰者に、自分を知り、走るように定められたコースをよく見て外れないように、と勧めます。ゴールに誰が待っているかよく見て、そのお方から冠を授けられることを信じて、真っすぐに走りなさい、と勧めます。ゴールの向こうには光と希望があるのですから、そちらを向いて走る信仰者の顔は光り輝いているでしょう。だからこそ、わたしたちは福音に共にあずかる者となれるのです。
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まことの光、世に来る

ヨハネによる福音書1章9~14節

澤田 武師

主題聖句 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」 ヨハネによる福音書1章9節
 福音書はその冒頭に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と記しています。ヨハネはイエス様のお姿を示すために、言(ロゴス)、という言葉を選んで記しています。神様は「言」によってこの世界を創造されました。神様が言われたことは形をとり、被造物となり命が与えられました。
 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」イエス様は、「まことの光」としてこの世に来られました。
 「まことの光」は、他に頼るものの無いヨセフとマリアには、飼い葉桶の中に眠っている幼子の姿となって、平安を与える光として来られました。
 律法を守ることができない、神様の祝福から漏れた者と思っていた羊飼いたちには、ベツレヘム郊外の夜空一面に輝く神様の栄光となって、天使の賛美と共に、祝福の光として示されました。
 高価な宝物を携えて、遥か東の国から砂漠を越えて来た博士たちには、ベツレヘムへと導く輝く星、困難を超える勇気の光として与えられました。
 神様を信じなければ、決して知ることのない真実です。イエス様のお姿を通して現わされる、計り知れない神様の私たちへの愛はこうして示されます。
 イエス様はその公生涯において、弟子たちと共に、ありとあらゆる苦難を経験されました。十字架に向かわれる時のイエス様は、前夜からの長い裁判、そして鞭打たれた傷の痛みで、十字架を担いで歩くだけで精いっぱいでした。弟子たちは逃げ去り、十字架刑に付けた者たちは、全てが終わると思っていました。無力なイエス様のお姿。その時には何も起こらなかった事実があります。
 しかし、三日目に神様はイエス様を復活させられました。復活を信じた者たちには、イエス様が闇の中に輝く光となりました。
 暗闇の中で輝く光。闇を開く光。一人一人の苦難の中で輝く光。変わることのない希望を与えてくださる光。「まことの光」は、信じる者にはそれぞれの心の中で、平安の光、祝福の光、勇気の光となります。わたしたちにも「まことの光」は与えられています。導かれて歩み行く者となりましょう。
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聖き御名を聞く

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 フィリピの信徒への手紙2章8節
 「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい他人…注意を払いなさい。」と、パウロは兄弟姉妹が互いに愛し合うことを勧めています。そして、その思いを阻んでいるのが「自分の利益を求め、己の姿を大きく見せる」利己心であり虚栄心であるとも記しています。私たちにとって「へりくだる」ことを、率直に受入れ、続けてゆくことはとても難しい生き方です。
 クリスマスは、神様がこの世に「へりくだられた」ことから始まります。ヨセフは自分の判断を捨てて神様のご意思を受け入れ、御心に一切を託して、マリアを迎え入れます。クリスマスを受け入れます。ヨセフは神様の前に「へりくだった」のです。
 人類は歴史の中で、神と名の付くものをたくさん作ってきました。拝む対象は、天体・自然現象、強い獣・先祖等、あらゆるものを神とまつり上げました。
 「神の身分に固執せず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。」唯一の神様は、これほどまでに、この世の低きに降ってこられました。イエス様は全き人として、全き神として、被造物と共にこの世の困難を歩んでくださいます。パウロはそれを「へりくだり」と記します。
 そして「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と、イエス様は十字架まで「へりくだられた」のです。
 私たちは信仰を告白します。教団信仰告白では、「十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりたまえり」、「十字架に付けられ、三日目によみがえり」と十字架の贖いと復活のイエス様を告白します。
 天使はヨセフにそして、マリアに「この子をイエスと名付けなさい」と告げました。その時から、「イエス・キリスト」聖なる御名は私たちに与えられました。私たちはイエス・キリストの御名によって祈ることが許されました。
 イエス・キリストの御名を呼ぶことを妨げるもの一切を捨て去りましょう。イエス様が歩まれた道を、その足跡をたどる者として歩んで参りましょう。
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神の愛を見る

ヨハネの手紙一4章7~15節

澤田 武師

主題聖句 『神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。』 ヨハネの手紙一4章9節
 ヨハネが呼びかける「愛する者たち」とは誰のことでしょうか。それはイエス様のお誕生を待ち望むすべての者たちです。ヨハネが勧める「愛」は、アガペーの愛です。この愛は、神様と人間の間の最も深い、究極的な関係を現わしています。意志の愛、見返りを求めない愛です。相手に向けられる愛です。
 マザー・テレサは愛について「愛の反対は憎しみではなく、無関心です。」という言葉を残しています。無関心は決して愛を育てません。無関心は愛を葬ります。神様はすべての者に、関心を持たれています。今神様を信じていない者にも、無関心ではおられないのです。
 私たちは、アガペーの愛は持っていません。律法的な行いから愛は生まれません。愛は神様と私たちの関係の中にあります。「独り子を世にお遣わしになりました。」神様は徹底的に私たちとの新しい関係を創られました。ここに神様の愛が、クリスマスとして私たちに与えられたのです。
 クリスマスの出来事は、婚約中の若者に、年老いた祭司に、野宿をしていた羊飼に、異国の博士たちに、神様の御心が示され、それを信じて精一杯の働きをした者たちの姿でもあります。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」、とても重要なお言葉です。私たちの信仰の起点は、神様が私たちを愛してくださった時にあります。そこから全てが始まりました。「光あれ」です。
 「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」私たちはイエス様のお誕生を待ち望んでいます。私たちがしっかりと見なければならないのは、飼い葉桶に眠っておられる幼子と、十字架に向かわれるイエス様のお姿です。無力な者として、神様の愛によってイエス様はこの世にお生まれになったのです。そして、私たちと共に居られ、私たちの罪を贖ってくださる。私たちはイエス様のお姿を通して神の愛を知りました。世に現わされた神様の愛をしっかり見つめて行きましょう。
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目覚ましが鳴っています

マタイによる福音書24章36~44節

 佐々木 馨神学生

主題聖句「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたは分からないからである。」 マタイによる福音書24章42節
 キリスト教の暦ではこの日から新しい主の年となるアドベントを迎えました。すでに降誕された救い主イエス・キリストを喜びお迎えする思いに、次に再び来られる主との再会を強く待ち望む思いを重ね合わせていく二重の待望の大事な時なのです。イースターを待ち望む受難節と対をなし、共に深い悔い改めと大いなる神様の出来事を待望する時期でもあります。
 イエス様の再臨される日を私たちはどのように過ごし待てばいいのでしょうか?イエス様は端的に明瞭に「目を覚ましていなさい」と教えてくださいました。
 オリーブ山でイエス様は弟子達に終末の日の話をされました。その日その時はいつかわからないが普段の生活の只中に突然に来るとおっしゃる。だからこそ目を覚ましている必要がある。そのことにつながるジョン・ウェスレーの重要な教え「恵みの手段」があります。その中の3つを特に取り上げます。まず「聖書」。聖書こそ神様が私たちに神様とイエス様の真実を理解させるために与えてくださった御言葉です。その御言葉の神の声に魂が目を覚まし、聖霊の光によりより覚醒し、心から打ち震える衝動が与えられ神様とイエス様のために何かをしたいとの思いを与えられるのです。そして「聖餐」によりイエス様とつながり続け確信をいただき、「祈り」によって神様に近づいていく。そして私たちはその「手段」を通していかに神様が私たちを愛してくださっているのかを知るのです。その愛に応え、私たちも神様を愛し、隣人を愛していく。そのことが「目を覚まし」て歩んでいくことにつながるのではないでしょうか。しかし私たちは罪の中にあり、心弱い者です。イエス様を見失いがちです。悔い改めにより常にイエス様の元へ立ち帰り、そして改めて前進していくのです。兄弟姉妹、目を覚まし合いながら主との再会を待望し歩み続けましょう。
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喜びの歌が響く

詩編65編

澤田直子師

主題聖句『恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって わたしたちが満ち足りますように。』 詩編65編5節b
 詩編65編は、ユダヤの三大祭りの一つ「仮庵祭」で朗誦されたと言われます。豊かな収穫は神に祝福されている証でもありました。4節には「罪の数々がわたしを圧倒します」とあります。自分の罪を示され、深く悔い改めて、願をかけて祈ったのでしょう。そのような自分を神は贖い、豊かに赦してくださり、神の庭に宿ることを許されました。何と慈愛に満ち憐れみ深いお方であることか。
 この詩に描かれる豊かさは、神の家・神の庭のものです。わたしたちのものではありません。信仰者は、神と子羊の玉座から流れ出る豊かな水を受けて、それがどこから来るのかを知ることはできますが、時が満ちていない今、まだその庭に行くことはできないのです。
 わたしたちは、この世で苦難や試練に遭う時、神様なぜですか、と問いながら、首をかしげてしまうことがあります。神様が愛の神なら、なぜわたしには、わたしの家には、わたしの教会には、恵みが溢れていないのか。これはおかしい、何が悪いのか、誰のせいなのか、と言いたくなる。
 神は高ぶる者を引き下げ、へりくだる者を高く上げる、と聖書には繰り返し書かれていますが、これは真実です。自分の力が及ばない苦難の中で、なぜですか、と問いながら、もしや自分の内側に「なぜ」の答えがあるのではないか、と恐れをいだく時、たとえそうであっても、神は豊かに赦してくださるお方です。罪びとを招き、食卓を共にしてくださるお方です。
 わたしたちは、その約束を知っています。そこから溢れて流れてくる清らかな水が、わたしたちに届き、渇きを癒して、神の家がどんなに豊かで明るいところかを教えてくれます。わたしたち、という、小さく欠けのある収穫物を、神様は「聖なる生ける捧げもの」として喜んで受けてくださいます。わたしたちも、耳を澄ませ、心を澄ませて、神の庭から聞こえてくる喜びの歌の響きを聞きましょう。
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心は喜び躍った

エレミヤ書15章16節

澤田直子師

主題聖句 「あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。」 エレミヤ書15章16節b
 預言者エレミヤの生涯をたどる時、この世的には恵まれることの少なかった、苦難と悲劇の預言者であったことを思います。
 15章は、神とエレミヤとの対話です。神は「もはやユダヤ人を憐れまない」と言われ、エレミヤは、敵対する者のために執り成しの祈りをしたのに、と嘆きます。エレミヤが預言者として立った最初の頃は、神の御言葉に従って宗教改革をしようとしたヨシヤ王がいたのですが、ヨシヤ王がエジプトとの戦いで死ぬと、次の2代の王は、世の権威に頼り、神の言葉を軽んじました。
 その中でも神の御言葉を取り次ごうとするエレミヤは迫害を受け、一方で、神から離れ、世の権威におもねって偽りの預言をする者たちは、王に厚遇され安楽な暮らしをしています。エレミヤは、なおも彼らのために祈りながらも、神の御言葉に対して激しい飢え渇きを覚えています。
 わたしたちは、これほどの飢え渇きをもって御言葉をむさぼるでしょうか。人間は、満ち足りた生活の中では、たとえ心の底が荒れ野になっていても気づかないものです。表面的な豊かさでごまかされるのです。しかし、与えられたものがそぎ落とされ、もうどうにもならなくなって祈る時、今更のように神の愛に気づき、その豊かな御言葉の力に奮い立たされるのではないでしょうか。エレミヤは、をむさぼり食べた「あなたの御言葉はわたしのものとなり」と言います。主イエスが囚われる前の夜「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」と祈られたように、学んだ知識ではなく、エレミヤの血肉となったのです。その時エレミヤは気づきます。そうだ、自分は「主の御名をもって呼ばれる者」であった、と。わたしたちもまた、「主の御名をもって呼ばれる者」クリスチャンです。御言葉を求め、むさぼり食べるようにわがものとして、心が喜び躍る歩みをしていきましょう。
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幼子を腕に抱き

ルカによる福音書2章22~35節

澤田 武師

主題聖句 『わたしはこの目であなたの救いを見たからです。』 ルカによる福音書2章30節
 子ども祝福式のメッセージです。イエス様のお誕生は、ベツレヘムの家畜小屋での出来事でした。そこにはヨセフとマリア以外誰もいません。父と母は生まれたばかりの幼子を「飼い葉桶」に寝かせます。赤ちゃんにふさわしい揺りかごではなくても、ひと時の「安心」が与えられました。
 そして今、シメオンは神殿の境内で、マリアに抱かれている幼子と出会いました。彼は幼子を救い主と信じ、自分の腕に抱きました。その時彼は「喜び」で満たされました。
 私たち自身も、親の愛により安心なところに「寝かされて」、喜びをもって「腕に抱かれて」成長してきました。また、私たちは親になっても同じことを思います。どの時代でも変わらない、子どもの成長を願う親の姿です。神様はマリアを選ばれて、イエス様の母とし、ヨセフを選ばれてイエス様の肉の父とされました。
 シメオンは幼子が救い主と気付くと、この出会いこそが聖霊の導きであり約束の成就であることを確信します。シメオンは思わず幼子を抱き上げたのでしょう。理屈ではない、肌の感覚をもって神様の約束の成就を見ることができたのです。この腕に抱き上げた幼子を見ただけでシメオンは満足でした。長い信仰生活を感謝の内に終わる事ができる喜びで溢れました。シメオンの死は、メシア誕生の証詞となります。シメオンが歩んできた全てを今、引き受けてくださる方と出会えた喜びになりました。「抱き上げる信仰」それは体感です。
 信仰は頭で理解した事だけでは躓きます。確かにイエス様に触れた体験。この感覚が信仰を強めます。何時の時代でも、子どもの成長と幸いは親の願いです。この日、子どもたちがイエス様と出会うために、私たちは礼拝へ招かれました。子どもたちがイエス様の十字架と復活が示す神様の愛を、神様の子どもとして、その生涯に、神様が関り続けてくださることを一番の希望とするようにと。変わらぬ成長と祝福を神様に委ねるために、信仰の継承のために、私たちは子どもたちを連れて来たのです。
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イエスの命が現れる

コリントの信徒への手紙二4章7~14節

澤田 武師

主題聖句 『主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。』 コリントの信徒への手紙二4章14節
 「聖徒の日」には特に思います。イエス・キリストを信じ、そして天に帰った聖徒の誰お一人として、同じ信仰生活を歩まれた方はおられない。年齢、性別、受洗の時期、導かれ方、神様はお一人お一人と出会ってくださり、お一人お一人にオーダーメイドの信仰を備えてくださっています。
 パウロは、「土の器」を信仰者の生き方の譬えとして用います。「土の器」その中には、陶芸家が丹精込めて創りあげる高価な芸術作品としての「器」もあります。しかし、ほとんどの「器」は日常生活で使うために、おのずと形も大きさも決まってきます。「器」の価値は用いられ方で決まります。
 神様は、特別ではない「土の器」である私たちに「宝」を納めてくださいました。パウロは、あなたが神様によって生かされていると分かった時、そこに神様の並外れて偉大な力が発揮され、「イエス・キリストの命が現れる」。私たちが神様の栄光を知るために、私たちを用いてくださると言います。
 パウロは、すでにイエス様の御力をいただいています。だから行き詰まらない、失望しない、見捨てられない、滅ぼされない。並外れて偉大な力が与えられ、伝道者として歩み続けられる力となった。パウロは神様の栄光が自分に与えられていることを、生き方によって表しています。
 「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉3:11)神様は最もふさわしい時に、私たちをイエス様と出会わせてくださいます。それは「永遠を思う心」を納めた、器としての歩みが始まることです。宝を納める器としての歩みです。
 信仰者の生活は、イエス様の十字架と共にあります。信仰者にとっては、苦しみや死そのものが何か価値を持っているわけではありません。それがイエス様のためである時にのみ、そこに意味を見出します。「土の器」として生かされているからこそ知ることのできる真理です。
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