まことの光、世に来る

ヨハネによる福音書1章9~14節

澤田 武師

主題聖句 『その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。』 ヨハネによる福音書1章9節
 イエス様が、寝静まったベツレヘムの村の家畜小屋でお生まれになった時、闇夜の家畜小屋の中に新しい命が誕生したことを誰一人知ろうとはしませんでした。ヨセフとマリアは、世の無関心という暗闇の中で子どもを生みました。
 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と、ヨハネの福音書では、この「暗闇」に「まことの光」として幼子イエス様が与えられたと記しています。
 神様は「まことの光」を全ての者の救い主として、ヨセフとマリアの初めての子どもの姿で、彼らに希望の光として与えられました。また、軽蔑されていた羊飼いたちには、救い主誕生の知らせと共に、夜空一面に輝く神様の栄光、祝福の光として、そして、占星術の学者たちには、砂漠を越えて異国の地ベツレヘムの救い主へと導く星の光、不安を乗り越える勇気の光として与えられました。「まことの光」は新たな命となって、信じる者に歩み続ける力を与えます。
 一方「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」ヘロデ王は恐れを感じました。ヘロデは王という地位に固執します。彼はイエス様を排除するために同い年の幼子をも殺そうとたくらみます。ヘロデ王の心の暗闇は深く重大です。「まことの光」はヘロデ王も照らしましたが、彼は光を探し求めることはしませんでした。彼は彼の宮殿に、暗闇に留まり続けます。
 聖書は「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と記しています。信仰を告白する。洗礼を受ける決断をされた方々は、それぞれの困難を乗り越えて来られた方々です。既に自分の心の中に、イエス様の光があることを探し当てられた方々です。信仰を告白し神様の子となる資格を得た者たちであり、新たに生まれ変わった神の子です。
 イエス様の光は変わることがありません。イエス様が私たちの間に宿ってくださったクリスマスの喜びが、新しい命となって神様の恵みへと導きます。暗闇の中で輝く光。一人一人の苦難の中で輝く光。変わることのない希望を与えてくださる光。喜びと祝福の光。クリスマスを感謝いたします。
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まことの光、世に来る

ヨハネによる福音書1章9~14節

澤田 武師

主題聖句 『その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。』 ヨハネによる福音書1章9節
 イエス様が、寝静まったベツレヘムの村の家畜小屋でお生まれになった時、闇夜の家畜小屋の中に新しい命が誕生したことを誰一人知ろうとはしませんでした。ヨセフとマリアは、世の無関心という暗闇の中で子どもを生みました。
 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と、ヨハネの福音書では、この「暗闇」に「まことの光」として幼子イエス様が与えられたと記しています。
神様は「まことの光」を全ての者の救い主として、ヨセフとマリアの初めての子どもの姿で、彼らに希望の光として与えられました。また、軽蔑されていた羊飼いたちには、救い主誕生の知らせと共に、夜空一面に輝く神様の栄光、祝福の光として、そして、占星術の学者たちには、砂漠を越えて異国の地ベツレヘムの救い主へと導く星の光、不安を乗り越える勇気の光として与えられました。「まことの光」は新たな命となって、信じる者に歩み続ける力を与えます。
 一方「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」ヘロデ王は恐れを感じました。ヘロデは王という地位に固執します。彼はイエス様を排除するために同い年の幼子をも殺そうとたくらみます。ヘロデ王の心の暗闇は深く重大です。「まことの光」はヘロデ王も照らしましたが、彼は光を探し求めることはしませんでした。彼は彼の宮殿に、暗闇に留まり続けます。
 聖書は「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と記しています。信仰を告白する。洗礼を受ける決断をされた方々は、それぞれの困難を乗り越えて来られた方々です。既に自分の心の中に、イエス様の光があることを探し当てられた方々です。信仰を告白し神様の子となる資格を得た者たちであり、新たに生まれ変わった神の子です。
 イエス様の光は変わることがありません。イエス様が私たちの間に宿ってくださったクリスマスの喜びが、新しい命となって神様の恵みへと導きます。暗闇の中で輝く光。一人一人の苦難の中で輝く光。変わることのない希望を与えてくださる光。喜びと祝福の光。クリスマスを感謝いたします。
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彼こそ、まさしく平和

ミカ書5章1~5節

澤田直子師

主題聖句 「彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。」 ミカ書5章3節a
 ミカはイザヤと同時代に働いた預言者です。専従の預言者ではなかったためか、イザヤのスケールの大きな預言と比べると、民衆を代表しているような印象があります。4章が終末の預言ですので、5章は単にクリスマスを預言しているだけではなく、ここが神の国の始まりとなることを表します。イエス様もバプテスマのヨハネも、福音伝道の始まりには「悔い改めよ。神の国は近づいた」と言われました。
 エフラタとは「穀物の地」ベツレヘムは「パンの家」という意味ですから、穀物が豊かに実る土地であったことを示していますが、ベツレヘムは旧約時代を通して、千人組になったことがない(成人男性が千人以下)小さな町でした。
 しかしここからメシアが生まれます。「彼の出生は古く…」この言葉は、ヨハネ1章「この言は、初めに神と共にあった」に通じます。
 東の占星術の博士がヘロデの宮殿を訪ね、そこでヘロデに仕える学者が調べたのは、このミカ書の預言でした。しかし誰も出かけては行かなかった。ベツレヘムを目指したのは、ユダヤ人が、異邦人だ、汚れている、と蔑む東方の博士たちでした。
 3,4節は、救い主が来られ、正しく統治される時には、世界はこうなるという預言です。「彼らは安らかに住まう」彼らとは、ヨハネ3:16「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とある、独り子を信じる者たちです。わたしたちもここに入ります。
 ミカの預言は「彼こそまさしく平和である」と教えます。イエス様が平和そのものである。平和、シャロームとは、神との完全な和解が成立していて、外にも内にも恐れや不安がない状態を指します。イエス様はその通りの方でしたが、では、その救い主はどんなところに、どんなふうにお生まれになったのでしょうか。それは誰のためだったでしょうか。平和を実現する者とされることを追い求め、イエス様を待ち望みましょう。
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なんと幸いでしょう

ルカによる福音書1章39~45節

澤田 武師

主題聖句 『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』 ルカによる福音書1章45節
 主のご降誕に際しては、ごく普通に生きて来た者たちに、突然神様から御言葉が与えられ、彼らはそれを信じ受け入れました。その場から立ち上がり、それぞれが行動を起こし、御心に従う者と変えられたことを聖書は記します。
 神様は天地創造の時から、神様のご計画を担う者として、私たちを創造されました。そして、神様の働きを担う者同志が出会うことをも備えてくださいます。マリアとエリサベトは神様の御心により出会うことになります。
 なぜマリアが訪ねてきたのか、エリサベトには分からなかったでしょう。しかし、後に洗礼者ヨハネとなるエリサベトの胎の子は、救い主の母となるマリアと救い主イエス様とに出会った喜びを、エリサベトの胎内で表します。その時エリサベトはわが身に起こったことすべてが「神様の祝福」であると確信します。そして声高らかにマリアを祝福します。「あなたは女の中で祝福された方です。」エリサベトの言葉に、マリアは信仰の確信を得ました。
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」エリサベトの言葉です。幸いは誰でも求め続けるものです。彼女の言葉は信仰者にとって最も大切な幸いを示しています。それは、主の御言葉を聞く幸いです。そして、御言葉は必ず成就すると信じて従う幸いです。ここに信仰者が求める幸いがあります。
 エリサベトは、マリアに声高らかに言いました。あなたは祝福された者であり、わたしは今喜びの中にいる。今主のご計画を信じた方と出会った。自らも祝福に満たされ、幸いな者として歩むことを喜ぶエリサベトの姿が見えます。
 私たちも「神様、祝福してください」と祈ります。祝福を求める祈りは、神様にすべてを託します、すべてを委ねますという祈りです。神様、私を顧みてくださいとの祈りです。先にイエス様の十字架の贖いと永遠の命を知った者として、私たちも今日言いましょう。声高らかに。私たちに神様の祝福が与えられた。イエス様がお生まれになった、クリスマスの祝福を伝えましょう。
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神は共におられる

マタイによる福音書1章18~23節

澤田 武師

主題聖句 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 マタイによる福音書1章23節
 「母マリアはヨセフと婚約していたが、2人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」とマタイは、イエス様がマリアの胎に宿られた次第を記しています。ユダヤでは婚約中のある期間、それぞれの親元に生活をしていても結婚しているとみなされます。その時マリアの妊娠が分かりました。この事実の前に「夫ヨセフ」の苦悩は始まります。
 ヨセフは「正しい人」として生きてきました。「正しい」という言葉には憐み」という意味もあります。身重のマリアを妻として迎え入れることは、ユダヤの結婚の慣習を犯した者として、軽蔑され社会から相手にされなくなる可能性もあります。だからヨセフは恐ろしいのです。ヨセフの憐みは、マリアのことを表ざたにせず「ひそかに」縁を切ることです。マリアへの精一杯の愛からの決心だったのでしょう。人間ヨセフの愛の限界が見えます。
 「ダビデの子ヨセフ」と夢の中で主の天使はヨセフに呼びかけます。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」そして、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共に居られる」という意味である。」すべての事は聖霊の働きによるもの、神様がこの世に介入されたことを現しています。それは人間の心配や思案を越えた、圧倒的な恵みの力に他なりません。その前に、ヨセフの正しさや、憐みは無用のものとなります。
 ヨセフは神様の愛を受け入れ、マリアを妻として受け入れます。ヨセフが全てを神様の愛に委ねた時に、イエス様の十字架の贖いによるすべての人の罪からの救いの道が開かれたのです。
 クリスマスはある日突然に、ヨセフとマリアに与えられたように見えますが、それは神様がイエ様の十字架への道を示された最初の出来事として、彼らに託された使命であったと言えます。ヨセフこそ「神は我々と共におられる」お言葉を信じ、生涯をかけてクリスマスを証し続けた人物です。
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マリア、恐れるな

ルカによる福音書1章26~38節

澤田 武師

主題聖句 「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。』」 ルカによる福音書1章30節
 神様が人となり、幼子イエスとしてお生まれになる。人類を罪から救う神様のご計画が成就するためには、クリスマスは唯一にして絶対に必要な時でした。私たちにはクリスマスの出来事、その全てを理解することは到底できません。それは神様の御心によって備えられた出来事だからです。
 実際にクリスマスを担った者たちは、人知を超えた神様の摂理に戸惑い、驚き、悩み苦しみます。それでも精一杯、自分の「恐れ」を超えて御心に応答しようとします。ルカは、そんな彼らの姿をクリスマスの一連の出来事として福音書に記しています。
 天使はマリアに神様の子の母になることを告げます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」天使の言葉は、マリアとヨセフの将来を大きく変えました。やがて夫婦となる喜びは、ユダヤ社会の日常を生きて行くことへの「恐れ」となりました。自分の思いではどうしても理解できません。受け入れることができません。ここにマリアの「恐れ」があります。
 「恐れることはない。」神様の働きを担う者たちに必ず与えられる、神様の約束です。神様はあなたと共に生きてくださるという恵みを伝えています。
 後、母となったマリアは、その生涯を通してイエス様と一緒に生きました。エルサレムでの過越しの祭りの出来事、伝道者としてのイエス様の歩み、十字架刑の罪人(ざいにん)なった我が子の姿。母マリアほど、イエス様の苦難と一緒に生きた人物は他にはいないでしょう。
 「恐れる」ことはない。マリアに「すべてを心に納め」る力を与えた御言葉です。「この身になりますように」マリアは神様の約束を生涯にわたって証し続けて行ったのです。
 ハッキリ言えることがあります。クリスマスを担った者たちの内にはそれぞれ「恐れ」がありました。しかし神様を信じて従おうと決心した時、恐れは神様の恵みへと変えられました。クリスマスを待ち望みましょう。
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恵みのあふれる家

詩編65編

澤田直子師

主題聖句 『恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって わたしたちが満ち足りますように。』  詩編65編5節b
 詩編65編は、ユダヤの三大祭りの一つ「仮庵祭」で朗誦されたと言われます。豊かな収穫は神に祝福されている証でした。3つの祈りが記されます。2~5節は、神の憐れみによって罪赦される喜びです。6~9節は神の偉大さを賛美する祈りです。10~14節は、神の祝福の豊かさへの感謝です。
 この詩に描かれる豊かさは、神の家・神の庭のものであり、わたしたちの所有物ではありません。信仰者は、神と子羊の玉座から流れ出る豊かな水を受けて、それがどこから来るのかを知っていますが、その庭に行くことはできません。時が満ちていないからです。
 この世で苦難や試練に遭う時、わたしたちの自己中心の心は、神様なぜですか、と問いたくなります。神様が愛の神なら、なぜわたしには、わたしの家には、わたしの教会には、恵みが溢れていないのか。おかしいではないか、何が悪いのか、誰のせいなのか、と言いたくなる。
 聖書には、神は高ぶる者を引き下げ、へりくだる者を高く上げる、と繰り返し書かれています。これは真実です。自分の力が及ばない苦難の中で、なぜですか、と問いながらも、自分の内側に「なぜ」の答えがあるのかもしれない、と恐れをいだく時、たとえそうであっても、神は砕かれた魂を受け入れてくださるお方、罪びとを招き食卓を共にしてくださるお方です。
 わたしたちは、その約束を知っています。そこから溢れて流れてくる清らかな水が、わたしたちに届き、渇きを癒して、神の家がどんなに豊かで明るいところかを教えてくれます。わたしたち、という、小さく欠けのある収穫物を、神様は「聖なる生ける捧げもの」として喜んで受けてくださいます。
 コヘレトの言葉3:11「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与える。」この地上でも神の恵みを見る目が養われ、喜び感謝する心が開かれますように。
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弱さの中に現れる

マタイによる福音書18章1~5節

澤田直子師

主題聖句 「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 マタイによる福音書18章5節
 子供祝福式のある礼拝です。マタイなら19章13節がよく読まれますが、ここでは、その少し前のイエス様のお言葉を読んでいきます。ここで、弟子たちが気にしているのは「誰が一番偉いか」ということです。弟子たちの思いは、本能的な、いかにも人間らしいものです。
 イエス様は、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われました。天の国に入るには子供の素直さ、無邪気さが必要だと考える人もいます。しかしこの世を生きるわたしたちは、あまりにも素直で無邪気だと、容易に騙されるおそれがあります。
 また、当時のユダヤ社会では子供の価値が低かったので、神の前に身を低くすることが大切だと言う人もいます。しかし、教会に集う方々のほとんどは、自分を大した人間だ、ひとかどの人間だとは思っていないのではないでしょうか。だからといって、いちいち「いえいえ、わたしなど…」と言っていたら、物事が進まなくてどうにもなりません。
 子供は、謙遜にならざるを得ません。できない、知らないというのが子供の姿です。子供が成長するというのは、日々、自分の足りなさを知り、それを埋めようとする姿に他なりません。また子供は、その足りなさのゆえに、誰かを頼らざるを得ません。教えられ、見守られ、がんばりを認めてもらわなければ、生きて行けません。そして、頼る相手を信頼しなければなりません。わたしたちは、誰かを信頼する時、信頼に足る相手かどうかを無意識に品定めしますが、子供にはそういう知恵も余裕もありません。信頼しなければ生きられないから信頼するのです。
 イエス様が教えようとしておられる「子供のように」とは、神の御前に足りない不十分な者であることを知り、それゆえに教えを求め、養いを求め、そして、神の何たるかを理解できないままに意志を持って信頼する姿です。神様の御手の中では「子供のように」弱いことさえも、未来への希望になるのです。感謝して祝福の祈りに加わりましょう。
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永遠を想う

コリントの信徒への手紙二4章16~18節

澤田 武師

主題聖句 『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」  コリントの信徒への手紙二4章18節
 私たちが生きているこの世界は見える物質で覆われています。それはつまり、過ぎ去るものがこの世界を支配しているということです。私たちの肉体も物質ですから、私たちの「外なる人」も、衰えてゆきやがて死を迎えます。
 キリスト教では、この、人の死をも神様に委ねます。神様がお創りになったこの世界の被造物は全て、その働きに終わりがある有限な存在です。
 しかし聖書は、人の死は「外なる人」の死ですべてが終わるのではない、と教えます。「命」を人の目では見ることはできませんが、神様は人の死を通して、人の命とは何かをはっきりと示されます。わたしたちに永遠の命を信じる心「内なる人」を与えてくださっています。
 私たちの「内なる人」は、永遠の神様を求めます。『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
 キリスト教信仰の最も重要な教義である「復活の永遠の命に共に生きる。」この信仰をよく表したのが「聖徒の日」記念礼拝ではないかと思います。私たちはこの世の時間に生きています。このことをはっきりと自覚するのは、人が死ぬ時ではないでしょうか。私たちは誰でも必ず天に帰る時がきます。また天に帰る人々を見送る者となる時があります。その時がいつ来るのかは神様のみがご存じです。
 かつて共に礼拝に集うことが許され方々、そして今は「聖徒」となられた方々と、今日再び共に礼拝をお捧げします。地上に生かされている私たちと、神様の御許に生かされている「聖徒」の方々と、席のある所は違っても、共に神様を礼拝する者としての歩みは変わりません。そのことを信じ感謝して私たちは共に礼拝を守っていきます。教会が世にある限り、聖徒の方々は、信仰者として永遠に存在しておられます。人の死は永遠を想う心を私たちに与えます。思いを巡らし、感謝をもって神様に委ねてゆきましょう。
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御名をたたえる実

ヘブライ人への手紙13章7~16節

澤田 武師

主題聖句 『だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。』  ヘブライ人への手紙13章15節
 手紙の著者は信仰に生きる者のために、新たな視点を示します。7節「あなたがたに神の言葉を語った“指導者”たちのことを、思い出しなさい。」“指導者”とは、手紙の読者の身近に生きた兄姉で、読者を信仰へと導いた人々のことです。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰の生涯を見倣いなさい。」生涯、信仰者として歩み続けた兄姉。既に天に帰られたが、あなたがたの信仰は彼らの生きざまから必ず影響を受けている。目指すべき信仰者の姿として“思い出しなさい”そして“求めなさい”との勧めです。
 イエス様の十字架は、私たちを罪から救い出してくださった、ただ一度の出来事です。イエス様ご自身が犠牲となられて、神様との間の隔たりを取り除いてくださいました。「だから」と著者は応答の歩みを選び取ることを勧めます。
 「だから、宿営の外へ出て、みもとに赴こうではありませんか。」イエス様が歩まれた道、居られる場所、そこは辱めと苦難を経験された所です。私たちはそこでイエス様と生きることになります。十字架にかけられる強盗にさえも、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われました。
 「だから、御名をたたえる唇の実を神様に献げましょう。」礼拝での賛美は全て「イエス様を通して」神様にお献げするものです。賛美をお献げすることは、歌う私たちの内に、神様からの福音が祝福の実となって結ばれることです。
 著者はヘブライ人への手紙を通して、唯一無二のイエス様を繰り返し私たちに示します。それは「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。」という戒めから離れないためです。あなたに信仰を伝えてくださったのはどなたですか。正しい信仰を伝えられ、信じたので、私の信仰生活は守られ、今も続いています。
 私たちも祈ります。私たちの唇が絶えずイエス様を崇め、賛美を捧げ、友を励ます言葉を語る唇でありますように。神様の豊かな祝福を語る唇でありますように。イエス様の居られる所で、御名をたたえる実を結ぶ者としてください。
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