彼が担ったのは

イザヤ書53章1~6節

澤田直子師

主題聖句 『彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』イザヤ書53章5節b
イザヤ書53章は十字架の預言ですが、実際は52章13節から始まっています。「はるかに高く上げられ」という御言葉から、ヨハネ3:14のイエス様のお言葉「人の子も上げられねばならない」が思い起こされます。
「誰が信じ得ようか」救い主は、誰が見てもとても救い主には見えない、ということです。これという家柄も血筋もない、取りえのない姿です。「軽蔑され人々に見捨てられ」は直訳すると「頭数に入らない」という意味です。イエス様はその誕生の時から、受け入れる部屋はなく数に入らない扱いを受けられました。今もって、イエス様の十字架の贖いを自分の人生の数には入れない人々がたくさんいます。
それでも神様は独り子を十字架につけられました。イエス様と3年の月日を共にした弟子たちは、イエス様の口から十字架と復活の予告を3回聞いています。しかし理解するにはほど遠かったのです。その弟子たちのために、神様が600年以上も前に十字架の意味をイザヤに命じて書き残させておられた、その愛に心を打たれます。
病、という言葉が何度か出てきます。具体的な病名ではなく、病気のために人が弱った状態を表す言葉です。心の状態にも使われます。わたしたちは、しばしば道に迷い、誤った方向へ進み、間違いを認めないために正しい道に戻ることができません。痛みや苦しみに騒ぎながら、傷を見せて手当を受ける痛みを恐れて、まことの癒し主のところへ行くことができません。知恵の木の実を食べて神様から隠れたアダムとエヴァの姿です。
イザヤ書53章は十字架預言であると同時に、わたしたちの病の処方箋のような働きがあります。病、弱さ、苦しみ、わたしたちが背を向けて関係ないと思いたい部分を、イエス様は背負ってくださいました。イエス様の痛みと引き換えに与えられている平安を思いつつ、レントの時を歩みましょう。
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畏れ敬い、仕えよう

ヘブライ人への手紙12章25~29節

澤田直子師

主題聖句 「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えて行こう。」  ヘブライ人への手紙12章28節
「地上で神の御旨を告げる人」とは、モーセのような伝達者です。対して「天から御旨を告げる人」はイエス様を表し、イエス様ご自身が神の声そのものであることを示します。律法を与えた神様は完全なお方ですが、運用する人間の方は全く不完全でした。律法の核となる二つの重要な掟、「全てを尽くして神を愛する」と「隣人を自分のように愛する」これをイエス様が完全に遂行したことによって、律法は完全な力を持つ福音へと変えられました。この真理を拒む者には、神の裁きは厳しいものとなります。
律法が与えられた時、シナイ山の頂は全山煙に包まれ山全体が激しく震えました。律法でさえ地が震えるなら、福音はどうでしょうか。「地だけではなく天をも揺り動かそう」とはハガイ書の預言の言葉です。紀元前520年の4か月間という短い期間の預言書で、17年間中断していたエルサレム神殿の再建について書かれています。ハガイはイエス様を知りませんが、目に見える神殿を建て上げることは、目に見えない霊的な心の内の主の神殿を建てることだと信じました。パウロはコリントⅡの17章に、「わたしたちは生ける神の神殿なのです。」と書いています。
揺り動かされない御国は、信仰者に既に用意されています。イエス様は「あなたがたのために場所を用意しに行く。用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える」と約束されました。
28節の「神に喜ばれるように仕えて行こう」仕えるは奉仕ではなく礼拝を表します。礼拝は信仰者が共に捧げるものですが、同時に神様と一対一で対峙する場でもあります。「焼き尽くす火」には二つの意味が含まれます。一つは、第二の死、神との断絶。もう一つは、神の火によっていらないものが焼き尽くされ、信仰の不純物が取り去られる。信仰者にとっては、神の裁きさえもが希望になるのです。揺り動かされないものを見上げましょう。
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罪をすてて離れる

ヘブライ人への手紙11章23~31節

澤田 武師

主題聖句 『信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。』 ヘブライ人への手紙11章27節
 ヘブライ人への手紙の著者は、ユダヤ人なら誰でも、その生涯をよく知っている信仰者たちの名前を挙げて、それぞれが「信仰によって」どう生かされ、何を選びとっていったかを具体的に記します。信仰に生きた人々の傍らにも、目に見える恐れはありました。
 「モーセ」の生涯は、彼の両親の信仰によって始まりました。エジプトにおける唯一絶対の存在、自らを神と名乗るファラオが支配する世界にモーセは生まれました。人が作る絶対は「恐れ」と姿を変え、「恐れ」が世界を覆います。
 彼の両親は我が子の中に「美しさ」を見つけます。モーセの美しさは、両親を「神様に委ねる」信仰を選ぶ者へと変えました。神様はモーセの両親の信仰に応えて、エジプトの王女にモーセを託します。
 「信仰によって」モーセは出エジプトの困難な道を歩み続けます。出エジプトの出来事は、モーセが求めてやまないエジプトという罪からの解放を、それを拒むファラオの姿は、罪との戦いの激しさ、執拗さを表しています。
 私たちも初めて聖書を読んだ時、教会に来た時、洗礼を決意した時、既に「信仰によって」その後の歩みを選んでいます。
 招きの言葉、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」どれほど神様はモーセを愛されたか。モーセと共に居られることをどれほど望まれたかが分かるお言葉です。
 そして今手紙を読んでいる私たちも、現実の中に恐れを見ます。この手紙は、再び福音によって「信仰に生きる者」となることの勧めです。如何なる時代、如何なる恐れも超えて、信仰に生きるための励ましの言葉です。聖霊によって、私たち一人一人の心に、神様は語りかけてくださいます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」イエス様を十字架にかけてまでも、私たちを「信仰に生きる者」に変えてくださっています。「罪をすてて離れる」信仰者として歩んでまいりましょう。
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故郷を探し求めよ

ヘブライ人への手紙11章13~22節

澤田直子師

主題聖句 「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」 ヘブライ人への手紙11章16節a
 ヘブライ書11章には旧約の信仰者が続々と書き表されるので、「信仰者列伝」と言われます。しかしここに出てくる人たちは、信仰を抱いて死んだ、地上では約束されたものを手に入れなかった人々なのです。聖書では、わたしたちはこの世に仮住まいをしていると考えます。仮住まいですから戸惑いや不自由があります。気が許せない、くつろげないこともあるでしょう。
 アブラハムは直線距離でも1000キロ以上ある旅をして、全く知らないカナンの地に移ってきました。アブラハムもイサクもヤコブも天幕暮らしでした。彼らが神様に従ったのは、天に帰ることが本当の故郷に帰ることだと信じていたからでしょう。故郷という言葉は、普通は出身地や長く暮らした場所、自分の体や心の一部を作り上げている場所を表すと思います。帰って行く所であり、探す所ではありません。けれどもアブラハムたちにとっての故郷は、熱心に探し求めて、生きるという旅が終わって最後に帰るところでした。
 この手紙の宛先のヘブライ人たちも同じでした。エルサレムは遠く、正統な祭司もおらず、知っている範囲で律法を守り、それで神の国に入れるのかと不安を抱いていたでしょう。そこに福音が告げ知らされ、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る」と教えられたのです。
 地上からは、神の国の門を見ることも入ることもできません。けれども信仰者は、門があることを知っていますし、イエス・キリストの十字架の贖いという鍵を持っています。わたしたちには、どんな故郷よりも優れた、本当に懐かしい故郷があります。探し求めましょう。イエス様は「探しなさい。そうすれば、見つかる」と教えてくださいました。天の故郷を仰ぎ見て地上の生活を誠実に歩み、故郷を探し求める旅路に、主がいつも共にいてくださいますように祈りましょう。
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約束は真実である

ヘブライ人への手紙11章1~12節

澤田直子師

主題聖句 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」 ヘブライ人への手紙11章1節
 ヘブライ書11章は、旧約聖書の人物とその生き方を次々に示して、信仰者の姿を思い起こさせます。11章の最初に出てくる「信仰」という言葉は、世で使われる意味と教会で使われる意味とはかなり違います。有名な神社やお寺で神妙に手を合わせることを「信仰」とは言いません。クリスチャンにとって、祈ること、賛美することは、誰に向ってするのかがとても重要なのです。祈りの初めは必ず、唯一のまことの神様への呼びかけです。
 1節はわかるようでわからない御言葉です。「望んでいる事柄」とは何でしょうか?わたしたちは、神様に祈る時、もちろん自分の願いを聞き入れてほしいと思いますけれども、自分の力の及ばない事柄に関しては、どこかで覚悟を決めて「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのではないでしょうか。そこに確たる信仰があって、神に信頼するからこそ、先が見えない時も試練の時も委ねて祈ることができます。それが「望んでいる事柄を確信」するということです。
 「見えない事実を確認する」これは矛盾をはらんだ言葉です。これを説明するために、著者は創世記の天地創造を取り上げます。「光あれ」から始めて、神様はその力ある言葉で世界を創造されました。ここで最も心を留めたいのは、創世記1:31「見よ、それは極めて良かった」という御言葉です。神様が完璧に造られた、これ以上ないほど素晴らしい世界が一度はあったのです。
 イエス様は、ルカ17章で「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と教えられました。神の国はあり、わたしたちは十字架の贖いによって神の国の住人となる約束が既になされている。これは事実です。約束とは、まだ現実にならない時になされるものです。そして、約束が守られるという確信は、約束をした相手への信頼にかかっています。神様の約束は真実です。心を安らかに信頼しきって、世を歩んでいきましょう。
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神の約束に従って

ヘブライ人への手紙10章26~39節

澤田 武師

主題聖句 『だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。』 ヘブライ人への手紙10章35~36節
 ヘブライ人への手紙は、迫害から逃れるためにユダヤ教に戻ろうとする誘惑を受けている信仰者たちに宛てた手紙です。著者は、既に「故意」に礼拝から、信仰者の交わりから、イエス様から離れている者たちに、「警告」を与えます。
 「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。」イエス様の弟子であったペトロとユダ。ペトロは三度イエス様を「否認」しましたが、彼はイエス様から離れませんでした。弱さ故の罪。彼の罪は赦されました。後、使徒として用いられました。ユダは、イエス様をこの世に「指し示し」ましたが、自らをイエス様に委ねることはしませんでした。彼は故意に罪を犯しました。彼の罪は赦されることなく、自ら命を絶ちました。
 私たちにも、信仰の戦いはあります。信仰をもったからと言って、毎日が順調で、全てが願った通りになることなどありません。また、自分自身を振り返れば、決して完全な信仰者であるなどとは言えないことをよく知っています。
 「あなたは罪赦されていると確信していますか。」信仰をもつ者に迫る声です。著者は、罪赦された者として生きる「励まし」を与えます。
 「確信」を捨ててはいけません。「確信」とは「信仰」とも「大胆」とも訳すことができる言葉です。「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」それは、全き信頼をもってイエス様を信じて行くことです。神様はイエス様の十字架を通して、罪赦された者との確信を私たちに与えてくださいました。
 どんな困難があろうとも、神様に委ね歩む。忍耐は信仰を成長させます。罪赦された者の確信です。どうか、イエス様が開いてくださった神様への道を、確信をもって大胆に歩んで行けますように。讃美歌448「みことばにしたがいて、われらも今はつよし」
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わが民は平和に住む

イザヤ書32章15~20節

澤田 武師

主題聖句 『わが民は平和の住みか、安らかな宿 憂いなき休息の場所に住まう。』 イザヤ書32章18節
 イザヤの目には、混沌とした世界が見えます。私たち人間は争い、破壊し、混乱を引き起こします。また、知らずに他のものの命を脅かし、その心身に傷を与え、差別をしてしまいます。「愚かな者は愚かなことを語り その心は災いをたくらむ。神を無視し、主について迷わすことを語り 飢えている者をむなしく去らせ 渇いている者の水を奪う。ならず者の手管は災いをもたらす。彼は謀をめぐらし 貧しい者が正当な申し立てをしても 乏しい者を偽りの言葉で破滅に落とす。」(イザヤ32:6~7)イザヤはそのような混沌の現実の中で、預言者の使命を与えられて、神に生かされています。
 『平和聖日』は、世界平和のため、核兵器止の禁止のために祈る日です。日本は唯一の被爆国として、平和憲法を定め、戦争の酷さを伝えてきました。
 今年の「平和聖日」を迎えることは、特別な思いがあります。超大国の指導者が、世界に向けて核兵器の力を見せつけました。ウクライナでの戦争は、核戦争の脅威を感じさせます。世界の滅亡、これから世界がどのようになるのか、今、世界は不安の中にあります。私たちの祈りは、争いが終わりすべての者が「平和」に生きることを求める「祈り」となっていきます。
 イザヤの預言を改めて読み直しますと、今も同じであることに気づきます。愚かな者が支配し、虐げられた者たちは、虚しく今までの生活を捨て、安全な場所へと逃げて行きます。何時の時代でも現実は変わりません。
 イザヤはこの中で、神様から「平和」の預言を与えられました。それは今、私たちにも与えられた神様の御心です。しかし今、世界は、神様の霊ではなく、怯え、逃げ惑う人々の姿、恐怖と怒りで覆われています。昨日までの日常は、あっというまに消え去ります。
 「わが民は平和の住みか、安らかな宿 憂いなき休息の場所に住まう。」神様は私たちに、「平和の住みか」を与えてくださっています。どうか、住民として末永く住むことが適いますように。世界が平和の住みかとなりますように。
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神に近づこう

ヘブライ人への手紙10章19~25節

澤田 武師

主題聖句 『心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』 ヘブライ人への手紙10章22節
 信仰者として生きるとは、「何故、私はイエス様を信じるのか。」と、自分自身に問い続けることであると思います。私たち信仰者は、この世の煩いに動かされ、神様の元を離れていないか、絶えず確認しなくてはなりません。生涯、神様との交わりを求めて行く、その生きざまが、信仰者、クリスチャンである証となります。
 作者は、神様から私たちへの勧めを語ります。イエス様が流された血によって、主を信じる者が誰でも神様に近づくことが許された。主の十字架は、神様と私たちの間にある全ての隔たりを取り除いてくだり、死をも乗り越える永遠の生命の道を開いてくださった。私たちは自分自身では、心も体も清くすることはできませんが、そんな私たちを、神様の御元に導き、執り成してくださる主イエス様が居られます。作者は全ての信仰者に「真心から神に近づこうではありませんか。」と勧めます。
 罪を知ったアダムは、神様から見つからないように隠れました。罪は神様とアダムの間に、決して近づくことの出来ない隔たりを作りました。
 「この時のためにこそ。」エステルは、神様を信頼して、神様から与えられた美貌と王妃としての地位とユダヤ人の命を救う使命を、王妃の衣装に身を包んで王の前に進み出ます。御心と信じて王の前に進み出るエステル。何か凛としたものを感じます。彼女の内にある神様への信頼がそうさせているのです。ユダヤ人の救いのためにその一命を賭ける、信仰者としての美しさがエステルには在ります。エステルは神様を信じ、神様に近づいたのです。
 イエス様は、私たちの罪を贖い、神様を信じる心、神様への道を開いてくださいました。そして今も執り成してくださいます。私たちの心を満たしてくださいます。神様から離れる理由はありません。神様に近づこうではありませんか。大胆に確信を持って。その姿こそ信仰者の美しい生き様です。
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わたしは来ました

ヘブライ人への手紙10章1~10節

澤田直子師

主題聖句 「そこで、わたしは言いました。『ご覧ください、わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」 ヘブライ人への手紙10章7節
 1節では、律法には影があるばかりで実体がない、と言い切っています。この「影」は写真のようなもので、料理の写真がいくら美味しそうに撮れていても食べて栄養にすることはできないのと同じことです。旧約の時代から、神は形式だけの捧げ物をお求めにはならない、という考え方がありました。詩編の40編7節が引用されています。
 神は、捧げ物を喜ばず、ただわたしの耳を開いてくださる。「わたしの耳を開いて」というところが、ヘブライ書に引用されると「体を備えてくださる」となります。これは、当時のヘブライ人が読んでいた聖書が、ギリシャ語に訳された「70人訳聖書」だったためです。彼らの生活原語は既に当時の共通語であるギリシャ語になっていたのです。
 これを誤訳と考えることもできますが、著者は「体を備える」はまさにイエス様のことだ、と受け取ったのです。すると8節は真実味が出てきます。「ご覧ください、わたしは来ております。」来ておりますは文法的には完了形で、既に事実として起こり、今も変わらないことを示しています。神様は、人間の間違いをも用いて、真実に変え、最善に導いてくださいました。
 「わたしは来ました」とは、イエス様の神への応答であると同時に、わたしたちがイエス様にお応えする言葉です。わたしたちは、自分の意志で、喜びで、応答で、祈り、賛美し、献金を捧げます。しかし礼拝に集うことが目的の全てではありません。ここで耳を開かれ、御心を知り、それを行う力をいただいて世に遣わされるのです。礼拝に集うことももちろん大切ですが、むしろ礼拝から帰ってからの方が大切です。
 イエス様は「わたしは来ました」と神と人に高らかに宣言して世に来られましたが、そのお姿は低く謙遜なものでした。「神よ、御心を行うために」わたしたちも来ました。主の力をより頼み、謙遜に遣わされて行きましょう。
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ただ一度身を献げられた

ヘブライ人への手紙9章15~28節

澤田 武師

主題聖句 「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。」 ヘブライ人への手紙9章28節
 神様は預言者エレミヤを通して、「新しい契約」を立てることを約束されました。しかし、契約は約束だけでは効力を発揮しません。「契約」は「遺言」と違って、契約者の死がそれを有効にするのではなく、契約が「批准」されることによって法的拘束力を持ちます。この契約を有効なものとするために、神様はイエス様を十字架にかけて死に引き渡してまでも、神様自身が契約の批准者となられたのです。私たちの罪が贖われ、救いが完成したのです。
 手紙の著者は、「大祭司キリスト」とは「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(4:15)イエス様は、全き神様であられ、そして全き人であられたと、宣言しています。
 さらに15節「キリストが死んでくださった。」24節「キリストは神の御前に現われてくださった。」28節「キリストは、御自分を待望している人たちを負うために現われてくださる。」と、キリストを宣言しています。ただ一度十字架で死ぬためにイエス様は生まれ、私たちが神様の御前に受け入れられ、御許(みもと)に近づくことが許されるために、十字架で死なれました。
 イエス様が一度目に来られたのは、多くの人の罪を負うためです。罪からの救いを完成させるためでした。二度目に来られる時は、既に罪は完全に贖われていますから、贖罪の業の祝福が、十分に、永遠に、信仰者が享受することだけを目指されるのです。イエス様の死が、私たちの罪のための、完全な供え物であることがはっきりとわかります。
 私たちは宣言します。私たちの生活の根底を流れるイエス様の十字架の贖いと救いの喜びを証する者となることを。はっきりと私の言葉でキリストの祝福と恵みを伝えることができるようになることを。キリストの平和に生きる者として歩むことを。平和を実現する者として歩むことを。イエス様が再び来られる時まで、信仰者として従順に歩んで行くことを。
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