天からか、人からか

ルカによる福音書20章1~8節

澤田直子師

主題聖句「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」 ルカによる福音書20章4節
イエス様はエルサレム入城後、神殿で弟子たちや民衆に福音を宣べ伝えておられました。民衆が夢中になって聞き入る様子に祭司長たちは怒りを表しますが、それでもここでは暴力ではなく問答を持ちかけます。とはいえ、問いの形をとってはいますが、その言いたいところは「認めない、出て行け」という事でした。
意味のない問いに対して問い返すというのは、イエス様が時々使われるやり方です。神様もそういうことをなさいます。聖書を読んでいると、あらゆる箇所に「それで、あなたは?」という自分に対する問いかけを見出すことができます。神様と昔の信仰者の誰かの関係ではなく、今ここにいるわたしと神様との関係を問われます。この法則に従って、イエス様の「天からのものだったか、人からのものだったか」という問いも、自分が御言葉をどう受け止め、言葉と行いにどう表しているか、という意味に受け取りました。
祭司長たちは人の目を気にして「分からない」と答えます。自分の考えなのに「分からない」そんなはずはありません。自分の心としっかりと向き合いたくない時、わたしたちは「分からない」を便利に使います。
信仰者にとって「権威」とは天からのもの以外にはないはずです。ヨハネの洗礼は罪の悔い改めと洗い流しのためであり、聖霊を注がれ永遠の命を与えられる洗礼の準備のためのものでしたが、民衆は自分の罪を知り、悔い改めを求めてヨハネの元に集いました。民衆の方が、祭司たちよりもよほど正しく神を求めていました。弱い立場が選ぶべきものを選ばせたのです。
コリント二12:9「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
主は問われます。その言葉は、その行いは、「天からか、人からか」分からないと逃げるようなことがあってはなりません。「そして、あなたは?」主からの問いを聞き、気づきを求めて、主の御顔を真直ぐに見上げて進み出る者でありたいと願います。
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