イエス様と子どもたち

マルコによる福音書10章13~16節

澤田 武師

主題聖句 『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』 マルコによる福音書10章15節
 「イエス様に触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」子どもたちの成長を宗教指導者のラビに祈ってもらうことは、ユダヤの慣習でした。
 ユダヤ人社会では、子どもは“律法に関しては無知であり、それゆえ、律法に照らして神の前に功績を持ち得ない者”と見られていました。存在だけでは祝福を受けることから除外された者、だからこそ親の愛は必要になります。この愛が子どもたちをイエス様のもとへと連れて来ました。
 弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱り、近づくことを拒みます。この時既に弟子たちは、十字架の預言を聞いていますが、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」と不安の中に居ました。
 これ以上厄介なことが起こるかことを避けたい。イエス様を労り慕う弟子たちの愛が、彼らに行動を起こさせました。イエス様は弟子たちに、たとえ愛からの行いであっても、如何なることも神様の祝福を妨げる理由とはならないと教えました。
 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」子どもたちはただ神様の愛にすがる者、自らの努力ではなく、神様の愛を信じることでしか生きてゆけない。“神の国”とは“神様が王として恵と力を持って支配されること”であり、イエス様が来られたことにより既に始まっている。その意味では、自分たちの愛、人間的な愛と考えを優先する弟子たちには、神の国に入る資格はないと告げます。弟子たちの行い、この世の在り方はイエス様が「憤り」を覚える時となりましたが、イエス様は、それを祝福へと変えられました。
 イエス様に触れていただくだけでも、との親たちの思いはその願いを超えてイエス様が手を置かれて、祝福の祈りへとさらに増し加えて応えられました。
 それは、すべての人にも与えられた祝福となりました。その光景は子も大人も一緒に祝福に満ち溢れた時を表します。“祝福は増し加えて与えられる”ということです。神の国へと招かれている者として喜びの内に歩みましょう。
📢音声

何事にも時がある

コヘレトの言葉3章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない。」 コヘレトの言葉3章11節
 「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と、この世で起こる出来事の全ては神様が「定められた時」、神様の時であるとコヘレトは言います。コヘレトが示した「時」は、誰の人生にも、いつの時代にも起こる出来事の一部であり、コヘレトは、それぞれの時が良い時なのか、悪い時なのか、判断や評価を表しません。信仰者はこの時を必然、神様のみ旨と受け止めます。神様が備えられた時の中に私たちは生きています。また、信仰者でない人たちは、それを偶然と呼び、時には運命として諦めて受け止めます。
 それでも神様は「永遠を思う心を与える」、私たちに永遠を示してくださるとコヘレトは言います。「永遠」という言葉には「物事の内に隠されているもの」という意味もあります。永遠を思う心とは、この世の時の中には神様が居られ、出来事の本質は神様が起点となって起こることを知る、ということです。永遠を思う心を与えられ、そこに私たちは生かされているのです。
 「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」とコヘレトは言います。コヘレトはイエス様を知りません。ここに旧約の限界があります。しかし、私たちはイエス様を知っています。イエス様の十字架の贖いと復活を信じる者に、神様は永遠の命を与えられ、神様の御心を示されました。
 私たちは誰でも必ず‟天に帰る時“がきます。また、天に帰る人々を‟見送る時”があります。その時がいつ来るのかは神様のみがご存じです。いつの世にも、どんな場にも、神様の厳正な「時」があります。
 聖徒の日は「永遠を思う心を与えられた者」であることを確信し、既に天に帰られた‟聖徒の方々と共に礼拝を守る時“です。‟十字架を見上げる時”、かつての聖徒の方々は、信仰者として永遠に存在しておられることを確信する、‟福音を聞く時”です。私たちに赦された信仰者としての地上の歩みを、歩み切りましょう。
📢音声

目を覚ましていなさい

ヨハネの黙示録3章1~6節

澤田 武師

主題聖句 「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない」 ヨハネの黙示録3章2節
 サルディスの町は、切り立った絶壁に囲まれた高原に建設された難航不落の要塞都市でした。また、羊毛の染色技術の発明が利益を生み、町は豊かさで溢れました。紀元前6世紀には、世界屈指の都市の一つと呼ばれています。そのせいか外敵からの脅威には油断し、豊かさが住民のおごり高ぶりを生みました。結局、サルディスの町は二度外国に支配され、この手紙が書かれた時代には、目立たない価値の無い町となりました。栄華と衰退の歴史をもった町です。
 この町に信仰が伝わった詳細は分りませんが、一世紀には教会が生まれており、熱心に信仰を守る人々がいたようです。サルディスの教会には外部からの迫害もユダヤ人からの妨害も無かったと言われています。後代には大司教の座も置かれていました。この世の平安、平穏の中で「生きていた」教会でした。それは同時に、教会が住民気質の影響を受けて、信仰の世俗化が進んでいたということです。その結果、教会は誰からも関心を持たれない存在となりました。
 サルディスの教会には、聖霊によって結ばれる信仰の実は成りませんでした。それは「名ばかりの教会」であって、信仰は「死んでいる」とイエス様は言われます。しかし、叱責のお言葉の中にも、イエス様はサルディスの教会を愛しておられます。
 「目を覚ませ。」イエス様は再び「信仰に生きている教会」を立て上げるために、「死にかけている残りの者」を励まし続けることこそ、教会の業であり神様の前に完全な者として歩む者の姿であると告げます。
 私たちも目を覚まして信仰生活をおくりたいと思います。真剣に神様の恵みを求めることを生涯続けたい。イエス様と共に歩く。信仰を「どのように受け、また聞いたかを思い起こして、それを守り抜き、悔い改めよ。」これが成長する信仰者の姿です。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ13:33)耳ある者は聞きましょう。再臨を信じ、待ち望み備えて歩む。生きている教会の姿です。
📢音声

自分の義ではなく

フィリピの信徒への手紙3章1~11節

澤田直子師

主題聖句 「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」 フィリピの信徒への手紙3章9節b
 3章の始めに「同じことをもう一度書きますが」と前置きして、パウロはフィリピの手紙の主題でもある「喜びなさい」と語りかけます。信仰によって義とされたことを根拠とする喜びです。ここの主題は「信仰義認」しんこうによってのみ義とされる、ということです。
 パウロや使徒たちはもちろん、イエス様もユダヤ教徒でした。そしてこの時代、福音はユダヤ教の分派のように受け取られていました。対してパウロや使徒たちは福音をユダヤ教の完成形であると考えて伝道したと思います。「信仰義認」は新奇な考えではなく、創世記15:6にすでに「アブラムは主を信じた。主はそれを神の義と認められた。」とあります。アブラムが割礼を受けるのはこのずっと後、99歳の時です。
 ユダヤ教徒にとって律法を守ることは生命線です。生まれて8日目に男児が受ける割礼に始まって、食べる物も着る物も、一目見てわかるくらいに徹底して律法に従って生活しました。それがユダヤ人のアイデンティティだったのです。それをパウロは「あの犬ども」と貶めた書き方をします。「よこしまな働き手」とは神のためを装って実は自分のために働く人々、「切り傷にすぎない割礼」はどのみちいつかは朽ちて無くなる肉体のしるしを重んじる誤りを指しています。
 福音はそうではないのです。洗礼を受けたからといって、目に見える何かが加わることも減ることもありません。神様と自分しか知らない、ということさえあり得る。しかし、福音はそここそを重要視するのです。パウロは与えられた神の義に比べれば、自分の人間としての権威は塵あくたのようなものと言います。神の義とは「対価を求めない愛と赦し」です。一方的に与えられた神の義を喜び、言葉と行いで表していきましょう。
📢音声

同労の喜び

フィリピの信徒への手紙2章19~30節

澤田直子師

主題聖句 「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人を敬いなさい。」 フィリピの信徒への手紙2章29節
 パウロが若い同労者であるテモテに大きな信頼を置いていたのはテモテが自分ではなくキリストを宣べ伝えることを望む青年だったからです。そして、フィリピの教会に気を使わせまいとして、自分が励まされたいからテモテを派遣すると書き送ります。今でいえば問安使でしょうか。
 同時にエパフロディトをフィリピに帰らせることを知らせます。彼は、パウロが投獄されたことを知ったフィリピの教会が、パウロの世話をするために派遣した信徒だったのに、ローマで病気になってしまいました。
 当時のローマは人口密度が高く衛生状態も悪く、たびたび感染症が流行したそうです。知らない土地で病に倒れ、重症になったエパフロディトはどんなに心細い思いをしたでしょうか。それにもまして、フィリピの教会の期待に応えられず、パウロにまで心配をかけていることが彼を悩ませました。パウロもその気持ちを知っていたでしょう。
 29節はパウロの愛があふれた言葉です。役に立ったかどうか、心配をかけたかどうかは関係ない、主に結ばれて主の御名のために働いて、結果的には命をかけることになった、そのことを神は憐れみ助けてくださった。その証としてエパフロディトを受け入れてほしいとパウロは願っているのです。
 使徒言行録9章のパウロの回心の場面、神様は「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と言っておられます。パウロがどんなに偉大な伝道者でも痛みは痛み、苦しみは苦しみです。でもパウロには同じキリストを見上げてキリストのために働きを捧げる同労者がいました。パウロにとってそれは大きな助けになり励ましでした。
 わたしたちにもまた、多くの同労者が与えられています。それは神様が共におられる証です。日本ではキリスト者は少数派ですが、わたしたちの見上げるキリストは偉大な光です。全ての同労者がこの光の内を歩みますように。
📢音声

明けの明星が輝く

ヨハネの黙示録2章18~29節

澤田 武師

主題聖句 「同じように、わたしも父から権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」 ヨハネの黙示録2章28節
 現存資料が乏しいため、今ではティアティラの町の様子、教会の姿を知ることは難しい事です。この町は、手紙が送られた7つの都市の中で、最も重要性が乏しいと言われていますが、手紙は7つの手紙の中で最も長文です。
 ティアティラには特産の毛織物、染色業などの職業別組合がありました。それは住民の暮らしのすべての面に影響を与え、組合員でなければ、商売をして生活することは困難でした。この世に生きる者と、神様に呼び出された者が同居する町で、ティアティラの教会は世と一線を画し、イエス様を主と仰ぐ信仰に生きようとしました。イエス様はその姿を、愛による奉仕、信仰による忍耐、成長しつつある教会、と温かい言葉で称賛しておられます。
 しかし、教会内部にもこの世との妥協、偶像礼拝を黙認する異端の働きが入り込みました。信仰の本質的な問題により教会は存続の危機にあります。その様子を、「あなたがたは大目に見ている」とイエス様は教会の罪を示されます。そして既に裁きを実行する準備ができていることを告げます。
 一方、使徒言行録にはティアティラ出身の“紫布を商うリディア”という女性が、パウロのフィリピ伝道の際に、神様の御心と確信して関わったことが記されています。神様は、信仰を固く保つ者一人一人に、真の信仰の光を現わされ、用いられます。
 「目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、」復活のイエス様のお姿です。罪に対する怒りをあらわにし、人の心を見抜き、まことの権威を授けようと言われます。わたしの業を終わりまで守り続ける者には、「明けの明星」を与えるとの約束をされました。
 内憂外患の闇は、いつの時代の教会にもあります。そして、いつの時代も復活のイエス様は「明けの明星」として、罪の暗闇に解放を告げます。私たちが迷い怯えて立ち止まる闇の中でも、イエス様の光は福音の知らせとして輝きます。たとえ闇の中に座していても、主イエス様こそは私たちの光です。
📢音声

あなたの住んでいる所

ヨハネの黙示録2章12~17節

澤田 武師

主題聖句 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」 ヨハネの黙示録2章13節ab
 ペルガモンは政治、文化の中心地であり、そこに建つギリシア神話の神々の神殿は、都に相応しい風格を与えていました。その上、歴代ローマ皇帝を神とする偶像礼拝の中心地としても栄えました。偶像の魅力が人々を引き付け、偽りの神々を求めてアジア州各地から巡礼者が集まった町でした。
 13節「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」ここで“住む”とは、神様の御心によって住み着く、永住をするという意味があります。ペルガモンの信仰者はこの町に踏み留まり、信仰から離れることはありませんでした。信仰者の生活は、与えられた場所に留まって信仰を証することです。イエス様は彼らの信仰を褒められます。
 一方、彼ら信仰者の中に“バラム、ニコライ派の教えを奉ずる者たち”がいたことも事実です。彼らは激しい迫害から逃れるために、教会の世俗化、教会を世に合わせて行くことを教えていたようです。彼らの心の中に、サタンの王座があります。イエス様を主と告白させない、サタンの誘惑です。
 私たち信仰者は神様の愛に生かされている。だから私たちは愛を証する者として誰かの為に生き、献げたいと願っています。私たちはアガペーの愛を祈りますが、時として些細なことから愛が憎しみへと変わることがあります。私は愛のない者であり、信仰の弱い者であることを思い知らされます。そこをサタンが狙います、信仰者を信仰から離そうとする最強の誘惑となります。私たちの信仰の中にも「サタンの王座」はあるのです。
 「わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」手紙はイエス様の勝利宣言で終わっています。口の剣は御言葉です。鋭利な御言葉はサタンをも切り倒します。
 私たちはどれほど兄弟姉妹の住んでいる所を、その信仰生活を知っているでしょうか。イエス様はすべての信仰者の信仰生活を知っていてくださる。これは信仰者に与えられた、変ることのない主の励ましのお言葉です。一方でサタンの攻撃も続きます。サタンは私たちの信仰にも、その王座を作ろうとしています。何が御心であり、何が誘惑なのかを見極めて行きましょう。
📢音声

最後に残る喜び

フィリピの信徒への手紙2章12~18節

澤田直子師

主題聖句 「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」 フィリピの信徒への手紙2章18節
 「喜び」という言葉から多くの方が思い浮かべるのは、テサロニケ一5:16の「いつも喜んでいなさい」でしょう。テサロニケの手紙は、パウロが書いた手紙の中でも初期のものです。そしてフィリピの手紙はずっと後、ほとんど晩年に近い時期です。つまりパウロは最初から最後まで、どこの教会にも「喜びなさい」と言いたかったのです。
 ここでは「従順」を説いています。神に対する従順とはただ上からの命令を聞くだけではありません。他の誰よりも、神様がわたしたちを救いたい、救わなければ、と心を定めておられます。そして、自然の中に神様の御業を表わし、イエス様の十字架と復活を通してその愛を表わされました。パウロが説く従順とは、この愛から離れないで、神の愛の他の何にも揺らがない事でした。
 14節は少し格調高く訳されていますが、「ブツブツ言わないで、グズグズしないで」というような意味です。わたしたちはすぐにブツブツ言い、グズグズします。そうしている間は先に進まなくていいし、実行しなければ責任を取らなくていいからです。しかしパウロは、16節にあるように「労苦」から逃げませんでした。「労苦」は、疲労困憊するまでやり切る、あるいは、競技者が厳しい鍛錬をやり抜くようなイメージの言葉が使われています。神への従順を身をもって示したからこそ、自分がいなくなっても、フィリピの教会が神の愛に従順であるように願ったのです。
 敬老感謝の対象となる兄姉は、人生のある時期から、目に見える秤を捨て、神様の御手の内にある人生を生き抜くことを選んだ方々です。そのために神様から選ばれた方々です。教会という主の御体があってこそ、出会いがあり聖なる交わりがあることを感謝します。わたしたちの中に培われ、養いの元となり、人生を歩み抜く時、最後まで残るものが、どうか主にある感謝と喜びでありますように、と祈ります。
📢音声

自分を無にして

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

澤田直子師

主題聖句 「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」 フィリピの信徒への手紙2章11節
 2章は、分かりやすい順序を考えて書かれています。1~2節はフィリピの教会が到達すべき最終目標です。スポーツなら「優勝」とか「オリンピック出場」みたいなものです。そのために個々がなすべきトレーニングの内容が3~5節です。ですから、ここだけを取り上げてもメッセージができるところです。しかし、わたしたちはここを読んでその通りだと思っても、果たしてそれをすぐに実行できるでしょうか。
 それで、5節の後半から8節までは、「必ず目標を達成できる」と根拠を証します。目標は良いとして、個々の向上を目指して励むとして、本当にそれで良いのか、できるのか、という不安に応える証です。
 このために、イエス様が「自分を無にして」くださいました。2節「心を合わせ、思いを一つに」するためには、ぜひとも「自分を無にする」ことが必要です。しかし、自分の小ささ貧しさをわかっているつもりでも、明け渡すことは難しい、わたしたちの自我は大きく強いのです。「わたし」という革袋には、今まで生きて来たなかでの様々なものが蓄えられていて、それを空にして神様からいただくものを満たせば良いのですが、そちらの方が良いとわかっていても、自分が貯めて来たものを、良くも悪くも手放したくないものです。そういう人間の姿を理解しその上で神様に明け渡すことを教えるために、イエス様は人間の姿を取って世に来てくださいました。
 ここには大きなパラドクスがあります。神でなければ人を救えない。人は自分の力で自分を救うことができません。でも神様のご計画は、神の力を捨てて人となり、惨めな貧しい生涯をおくったイエス様の十字架によって、救いを成就するということでした。イエス様はそのご計画を全く信頼し、従順に務めを果たされました。その結果、「イエス・キリストは主である」とすべての舌が宣べる希望を持てることになりました。イエス様は、わたしたちの救いのためにご自分を無にしてくださいました。どうお応えしましょう?
📢音声

苦難を恐れない

ヨハネの黙示録2章8~11節

澤田 武師

主題聖句 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」 ヨハネの黙示録2章10節a
 スミルナの町は、小アジアとエーゲ海地域にあるローマ領の中で、陸路と良き港の恩恵によって繁栄し、最も商業が盛んな中心地の一つでした。 また、偶像礼拝が盛んで、キリスト教徒とユダヤ人との対立も激しかったようです。スルミナの教会に送られた手紙には、この町で信仰者として生きる者たちへの、神様からの励ましと約束のお言葉が記されています。
 「最初の者にして、最後の者である方」イエス様は唯一絶対のお方であり、何者もこのお方を超えることはできません。イエス様を抜きにしての繁栄は見せかけです。信仰者にとって、この世は栄枯盛衰の儚さを繰り返すだけの場です。しかし「一度死んだが、また生きた方」と、イエス様の十字架と復活にこそ、死をも乗り越える神様の永遠の命と栄光があることを示しています。
 「あなたの苦難や貧しさを知っている。」信仰は世と対立します。信仰を持つが故の苦難や貧しさを知ります。特にユダヤ人が多く住んでいたスミルナでは、ユダヤ人からの迫害が激しくなってきていました。おそらく「ローマ皇帝は主である」と告白すれば、この弾圧からは解放されるでしょう。しかし、それでも信仰を守っていく信仰者の全てをイエス様は知っておられる。何と慰めに満ちた、神様の約束のお言葉でしょうか。
 「本当はあなたは豊かなのだ。」迫害による苦難や貧しさは、神様の恵みが既に豊かに与えられていることを、改めて知る時となります。私たちは、どんなことでも祈ることができるのです。そして、私たちも知らずにたくさんの方々から祈られています。自分だけで生きているのではないのです。神様に生かされているのです。何と励ましに満ちたお言葉でしょうか。
 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」イエス様の約束です。イエス様は私たちの悩みも苦しみも全て知っていてくださる。私たちは独りではありません。いつもイエス様は共に居られます。私たちの信仰生活を励ましてくださいます。神様に生かされているという確信をもって信仰者として歩み続けることが叶いますよう、祈り求めて行きましょう。
📢音声