しかし、お言葉ですから

ルカによる福音書5章1~11節

佐々木良子宣教師

主題聖句 「『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」 ルカによる福音書5章5節
 本日は、「しかし、」というお言葉に注目します。信仰者の歩みは、神さま側と人間側双方の「しかし」「にも拘わらず」によって支えられているといえます。イエスさまからの語りかけに躊躇しながらも最終的に「しかし」と従う私たち、そして神さまは、不信仰で情けない私たちである「にも拘わらず」「しかし」見捨てることはなさいませんから、おぼつかない危なっかしい信仰でも何とか支えられているのです。
 イエスさまが求めるのは、物分かりの良い信仰者ではありません。自分の思いが先立ち、イエスさまの語りかけに葛藤を覚え、迷いながらも、「しかし、お言葉ですから」と、最終的にイエスさまに信頼して従おう、と決断をした時に、従ってみてはじめて分かる大きな恵みを与えてくださいます。
 ペトロたちが漁に出て夜通し苦労しましたが、収穫はなく陸に上がって網を洗っている時、イエスさまは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)とペテロに声をかけられました。ペトロは、今更期待できない苦労はもう懲り懲りだ、と言わんばかりに「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節前半)と答えましたが、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節後半)と、従う決断をした時、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」(6節)と、記されています。
 ペトロは自分のこれまでの豊富な経験や思いを捨て去り、「しかし、お言葉ですから」と、イエスさまの語りかけに従った時に、絶望から希望の世界を見せて頂きました。ペトロはこのガリラヤ湖での出来事が出発点となって、イエスさまによって「人間をとる漁師」(10節)となり、初代教会の中心的な指導者へと、神さまのために大きな働きをなす人へと変えられていきました。
 私たちの人生も、努力しても労苦と虚しさしか残らない時があります。「しかし、お言葉ですから」と従って、神の恵みの世界へと導かれて参りたいです。
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幸い—心の清い人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」 マタイによる福音書5章8節
 イエス様は「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と語られました。心の清い人とは?イエス様のお言葉を素直に聞き、ぶれることなく、純粋に受け止めて応答する人、お言葉に何かを加えたり、引いたりしない人、そういう「清き人」は幸いです。その人々が神様を見ると宣言されます。イエス様が語られたお言葉は、信仰そのものを表していると言えます。
 私たちはイエス様のお言葉に、常に聞き従って歩んでいるでしょうか。罪の誘惑から、現実の困難から祈るべきだと知りつつも、祈れない自分の姿を見ます。省みれば信仰者として生かされていても、罪多き者であることには変わりません。神様はどこに居られるのか、遠くに離れて居られるのか、お姿を見失ってしまいます。
 詩編51編は、ダビデが不貞の罪を悔い改め、神様に赦しを求めた歌と言われています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」。ダビデは神様に「清い心」を創り上げてくださいと祈り求めます。私たちに、本当の「清い心」を与えてくださるのは、イエス様お一人です。
 イエス様は罪人である人間の汚れた心を、十字架の血潮によって洗い清めてくださったのです。私たちは自分自身の業で「清く」なれることは決してありません。しかしイエス様の十字架の死と復活があります。私たちの罪の赦しのために、十字架かかって死んでくださった神様を見る幸いがここにあるのです。
 小松川教会の礼拝堂の正面には十字架が掲げられています。周囲を見渡せば共に信仰に励む友が会衆席に座っています。礼拝で信仰者は「神様と出会う」経験をします。それは罪の贖いと復活の命を見ることです。生きて働いてくださる神様を、今、ここで、見るのです。それは、信仰に生かされている「心の清い人々」と共に生きる幸いに、私たちを導きます。
 罪の汚れを、イエス様の十字架によって清められたことを信じて歩むのが、主が望まれる信仰者の姿です。イエス様は「心の清さに生きる」という幸いを信仰者の集まりを通して伝えようとされているのです。
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幸い—憐れみ深い人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田直子師

主題聖句 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」 マタイによる福音書5章7節
 この「憐れみ」とは、単に同情するということではなく、ローマ12:15『泣く人と共に泣きなさい』のごとくに、相手と同じ痛みを感じ、悲しみや苦しみを分かち合うということです。わたしたちがこの教えに忠実に生きることは不可能です。他人の痛みを同じように感じていたら生きて行けません。
 神様の御目に照らして「憐れみ深い」と言えるのはイエス様お一人でしょう。しかしここでは「人々」と複数になっていますので、そうありたいと願う人々を含めているのかもしれません。
憐れみ深い、ということに関して2つの意味を読み取れます。一つは、隣人を憐れむ心を、今よりもう少しだけ深められないか、ということです。わたしたちは一生懸命であるほど他人に厳しくなりがちです。言葉や思いが通じていない時、自分の発信方法を省みるよりも相手の無理解を責める方が簡単です。どこかに、憐れむ方が上にいて、より完全に近くなければ、という思いがあるのです。しかし聖書は、上から手を出すような助け方は勧めません。イエス様は、わたしたちと同じところに降りてきて「共にいる」という形で救ってくださいました。
もう一つは、憐れみ深くありたいと願いつつそうできない自分を知り、神様にお委ねする覚悟を決める、ということです。聖書がわたしたちに勧める教えはできそうもないことばかりです。福音は見えるものではなく見えないものを大切にします。律法のように、形を整えタブーを犯さないことが第一ではありません。主の十字架に照らして自分の姿を知り、その自分を愛してくださる神様により頼みなさい、と教えるのです。すると、わたしたちの思いは詩編51:19「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」というところに行き着きます。
イエス様の歩みが、なんと憐れみ深い、人の苦しみを苦しむものであったか、レントの時、神の憐れみを求めて歩みましょう。
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幸い—義に飢え渇く人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田直子師

主題聖句 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」 マタイによる福音書5章6節
 「義」には3つの意味が含まれていると考えられます。第一は「神の義」です。この「義」は神の属性、存在であり事実です。神=義、と表すことのできるものです。第二は信仰義認の「義」です。義ではないわたしたちが、信仰によって義とされる。これは例外なく受動態でしか使えない、「義とされる」という形でしかわたしたちの内には表されないものです。第三は、神の御目に正しいことを行う、という意味の「義」で、これは唯一わたしたちが関わることができる義です。
 内村鑑三は、信仰義認について一文を書いています。その概要は「空気や日の光は人間に不可欠のものだが、人間が造りだすことはできない。創造主がお造りになったものを感謝していただくのみである。神の義もこれに似て、人の努力で得ることはできない。ただ神から与えられるものを信仰の手をもって感謝して受けるのみである。」
 義に飢え渇く人々は満たされる、とあります。ヨハネの福音書に書かれるイエス様の最初の奇跡は、婚礼の宴会のために水をぶどう酒に変えるというものでした。イエス様に命じられた召使いたちは、「かめの縁まで水を満たした」とあります。満たされた水が次に汲まれた時には、良いぶどう酒に変えられていました。満たされるためには、そこに人の働きが加わります。そして満たされたものはもっと良いものに変えられます。
 わたしたちには誘惑があります。自分で自分を「義」としたい、正しいことをしている、言っている、と思われたいのです。この誘惑に負けると、義に飢え渇くことを忘れ、自分で作り上げた偽物の義を身にまとうことになります。
 コロサイ3:9~10

『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、作り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。』自分の義とは比べようもなく尊く、値なしに差し出される神の義を求めましょう。信仰の手で神の義を受けましょう。
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幸い—柔和な人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」 マタイによる福音書5章5節
 一般的に日本語で「柔和」という言葉は「不愉快なことをされても仕返ししない。ゆったりしている。思いつめない。」このような思いをもって生きる人々をイメージする言葉です。また、反対に「弱々しい」との負のイメージを与える言葉でもあります。「柔和」という言葉に含まれる色々な感情の中には、「苛立つ・怒る」とう感情は含まれてはいません。
 「柔和」と訳されているギリシア語は「プラウス」という形容詞です。マタイは福音書の中で、イエス様ご自身が、自らを表現される時にのみ用いています。
 私たち信仰者には聖霊が結ぶ実のひとつとして「柔和」が既に与えられています。しかし、自分自身を見つめる時、弱さ、乏しさの故に、怒りを覚え、変えられない自分に苛立ちを感じます。その度に、自分には「柔和」の実は結べないもの、無縁のものと諦めてしまいます。しかし「柔和」とは私たちの感情の在り方の問題ではないし、また努力すれば得られるはずというものでもありません。柔和の有る無しは信仰の問題なのです。
 ひたすら神様の御心に従い続け、沈黙のまま十字架に向かわれるイエス様。そのお姿こそが「柔和な人」そのものです。そして、イエス様がその柔和さによって、この地を受け継いでおられると信じることが、私たちの信仰です。
 私たちにも、この世界では様々な苦しみや悲しみがあります。また悪を行う者の方が、むしろ栄えていると思われる理不尽さの中に生かされています。それでもイエス様の柔和さに支えられて、自らの苛立ちに負けることなく、沈黙して神様を仰ぎ、望みを置く、柔和な人として生きることができるのです。
 柔和に生きることは、かえって損をする、悔しい思いすることが多くなるかもしれません。しかしそこでも神様のお言葉を聞き続けるのです。その幸いを保証してくださるイエス様のお言葉のみを選んで聞き続けるのです。
 パウロは言います。「万事が益となることを知る。」すべてのことが神様の御心であると確信し、すべてを受け入れてくださったイエス様の御心を我が心とすることこそ、「柔和」に生きる人の幸いとなるのです。
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幸い—悲しむ人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 マタイによる福音書5章4節
 「悲しむ人々は、幸いである」とは、不思議なお言葉です。私たちは悲しみの中には、幸いはありえないと思っています。ふつう、誰もが幸いを望み、悲しみは避けたいと思うでしょう。「悲しみ」と「幸い」とは、正反対の意味を持っている言葉です。本来は「悲しみ」と「幸い」が結び付くことは無いのです。だからこそ、悲しみの中にある人々に、「あなたは幸いです」と言うことは誰にもできません。それは、私たちの日常の中では、あり得ないことだからです。
 それでも「悲しみ」の中に「幸い」を見るとしたら、それは人間的に順境の時には見えなかったものや、感じなかったものを知る、という「幸い」と言えるでしょうか。あるいは、他人の苦しみや悲しみに対して、同じ悲しみをもって、深い思いやりを持てる、という「幸い」なら、あり得るかもしれません。
 しかし人間の感情は、何時かは忘れ去られてしまうものです。「悲しむ人々は、幸いである」とは、イエス様お一人だけが語ることできる真理なのです。イエス様のお言葉だからこそ、私たちは耳を傾けることができるのです。
 聖書では、ラザロの死にあって、マルタもマリアも「ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と、イエス様に訴えます。愛する者の死は深い悲しみとして、彼女たちの目を涙で覆います。
 「悲しみを封印して生きる」これが人間にできる限界です。愛する者を失った悲しみは、決して消えることはありません。そして彼女たちは、悲しみが少しずつでも力を失うことを願っています。そのマルタとマリアの前でイエス様も涙を流されました。共に悲しみの中に居ることから、御業を始められました。そして「ラザロ、出て来なさい。」と、悲しみの根本を取り除くために、奇跡を起こされます。他の誰にでもできない、確かな慰めが彼女らに与えられました。
 悲しみは、その重さを選ぶことはできないのです。誰でも悲しむ者になるのです。だから私たちは、悲しみを、涙をそのままに、共に居てくださるイエス様のもとへと参りましょう。悲しみの中に光る十字架は、私たちに確かな慰めとして与えられています。
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幸い—心の貧しい人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」 マタイによる福音書5章3節
 私たちは、貧しくならないために働き、日毎の糧をより豊かに得ることを目標とします。貧しくなることを私たちは求めません。また、病は日常を失わせ、悲しみで覆われます。出来ることなら悲しみは避けたいのが私たちの願いです。
 「心の貧しい人々」とは、魂の飢え渇きを覚える人々です。病を負ってこの世から見放された人々です。頼るものを持たない、再び立ち上がることをあきらめた人々です。貧しい人々であるからこそ、今イエス様に従い、共に山へ登ります。求めない、避けたい思いの中に在る人々に、イエス様は「幸いである」と宣言されました。しかし、イエス様は「貧しくなること」を薦めている訳ではありません。貧困を撲滅することは、人類の永遠の願いでもあります。
 「幸いである」と訳されている言葉には「神様に祝福されている。恵まれている」という意味もあります。神様の祝福は、この世の如何なるものでも取り去ることが出来ません。それが既に「心の貧しい人々」には与えられているという宣言です。
 イエス様は続けて「天の国はその人たちのものである。」と断言されます。天の国とは「神様の支配、神様ご自身」を表すマタイ独自の表現です。私たちも礼拝の度に「み国を来らせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と主の祈りを通して祈ります。この祈りは、既に神様を信じた者の祈りです。「地にもなさせたまえ」これは、天の国が私たちの間にあることを、聖霊を通して私たちの心の中にあることを感謝する祈りです。その歩みこそが「幸いである」とイエス様は言われます。
 クリスチャンの願いは、私の貧しい心に神様が満ちてくださることです。必要な助けと力を神様にのみ見出すこと。生涯感謝をもって歩むことです。クリスチャンは既に「幸いである」。イエス様のお言葉が与えられているのです。
 聖書はマリアの生き方が、「心の貧しい人」、心を空っぽにして神様の御心にのみ従い「幸いの中に生きる」ことを確信した者であると記しています。
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御心を行うために

ヘブライ人への手紙13章20~25節

澤田直子師

主題聖句 「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」 ヘブライ人への手紙13章21節a
 13章20節は、ご葬儀の終祷に用いられる御言葉です。原文では「平和の神」が最も強調されています。20、21節はいわゆる頌栄ですが、これがこの部分の主題でもあります。
 22節の「勧めの言葉」は、「慰め」とも「励まし」とも訳せる言葉です。外から良いことを教えて勧めるというよりも、同じ仲間として友として、あなたがたと共に歩みたいと願っている、というような思いが見て取れます。
それで、ヘブライ人への手紙は、説教を文字にしたものではないか、と考える研究者もいます。説教するように読むと1時間くらいかかるそうです。
 この時代、ヘブライ語の読み書きができる人はほとんどいませんでした。それでギリシャ語訳の旧約聖書が作られましたが、ギリシャ語でも読み書きのできる人は少なかったのです。信仰者は、ひたすら聞くしかありませんでした。語る方も、正確に伝わり、忘れないように、重要なことは繰り返して語ったでしょう。ヘブライ人への手紙も1回読んで終わりということはなく、何度も読まれ、写しが作られ、貸し出されたりもしたでしょう。そういう状況を思い描きながら、この手紙を味わいたいものです。
 冒頭に戻り、「永遠の契約の血による羊の大牧者」永遠の契約の血はもちろんイエス様の十字架の血です。羊は信仰者だけでなく全ての人を指します。イエス様はヨハネ10章で「囲いに入っていないほかの羊も導かなければ」と言われました。「大牧者」大をつけるのは、モーセとの対比です。モーセも偉大な預言者であり忠実な働き人でしたが、イエス・キリストは神の右におられるお方です。右にいるとは、相談者・知恵者であることを示します。わたしたち人間のことを、正確に神様にお伝えすることのできる唯一のお方がイエス・キリストです。ですから、神様は「御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださる」のです。御心を求めて歩みましょう。
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祈ってください

ヘブライ人への手紙13章17~19節

澤田直子師

主題聖句 「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。」  ヘブライ人への手紙13章18節
 13章の主題は「神に喜ばれる奉仕」です。具体的な善い行いも勧められますが、その中心は、大祭司イエス・キリストを見上げ、従うことです。その続きとして、指導者に従うことが勧められます。ここでいう指導者とは、牧師や神父のような教役者の他に、長老・役員・執事などの、教会の世話役であり時には代表者ともなる信仰者を指していると思います。
 聖書は、指導者を「神に申し述べる者」と呼びます。わたしたちと神様を仲介するのはイエス・キリストただお一人ですが、牧師や役員も時にその一端を担うことが求められるのです。もちろん完全な仲介者になれるはずもありませんが、祈り手として遣わされ、神に申し述べる使命があるのです。ここで「申し述べる」というのは、いわゆる執り成しの祈りと考えてよいでしょう。これは少し怖いことです。わたしが誰かのために祈る時、その誰かのことをどれだけわかっているでしょうか。
 人間の常として、自分の秤で人を測ってしまうことがあります。その人の魂に心を配るつもりで、いつの間にか自分の都合よく事が運ぶように祈っていないだろうか。実は、自分の心配や不安が第一になっていないか。神に申し述べることがちゃんとわかっているか、不安になります。
 この責任の重さに「祈ってください」と頼むのです。神様が真ん中におられ、神様を間にして関係性を作るのが信仰者のありようです。わたしたちは自分の力で明らかな良心を持つことも、すべてのことに立派にふるまうこともできません。神様の光に照らされての明らかな良心であり、神の御前にへりくだることが立派なふるまいです。これらのことを、神様の御用のために行いたい思いがあるので、「祈ってください」と頼むのです。
 牧師が取り組むみ言葉は真理です。簡単に取り扱うことはできません。祈りをお願いすることができる祈りの友が与えられていることに感謝します。
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新しい道を歩む

マタイによる福音書2章1~12節

澤田 武師

主題聖句 「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」 マタイによる福音書2章12節
 ヘロデ王はユダヤ人ではなかったため絶えずユダヤ人の反乱を恐れていました。彼はユダヤの宗教や文化を軽視し、その伝統を強制的に変えようとします。
 彼は王宮に尋ねてきた東方の学者たちの話を聞き、祭司長や律法学者たちに預言の意味を調べさせます。聖書にはメシア誕生の預言があり、彼は「真の王の出現」が現実に起こったことを悟りました。ヘロデ王の心を闇が支配します。
 「わたしも行って拝もう」この言葉は偽りです。もし真の思いであったとしたら、ヘロデ王もイエス様を探し求めたはずです。自分の地位が危うい。不安は彼の足を止めます。彼は生涯イエス様と出会うことはありませんでした。
 喜びにあふれた学者たちは携えてきた宝物をイエス様に捧げます。一説には、これらの宝は占星術の道具を売って得たのではないかと言われています。黄金は王の中の王を、乳香は祭司の使命を、没薬は十字架の死を表しています。そこにイエス様のご生涯が表されています。
 私たちは礼拝に何を携えて行くでしょうか。何をお捧げしているのでしょうか。私たちが日常の宝を大切にしていては、神様の前に集うことは妨げられます。万事を整えて礼拝に集うということは、日常の宝を神様に相応しい供え物に変えて、御前にお捧げすることです。
 福音書にはイエス様がお生まれになったのはヘロデ王の時代と記されています。この日から約30年後にイエス様の公生涯が始まります。公現日はイエス様が公生涯に歩み出された最初の時でもあります。ここはとても重要です。
 救い主がお生まれになった。東方の学者たち、野宿をしていた羊飼いたちは、日常から離れ、大胆に救い主を探し出す勇気と確信を与えられました。それは真理の言葉を語り、再び罪の中に戻らない者として、新たな歩みが与えられたことです。「別の道を通って帰って行った」福音の道が示され、導かれたのです。それは神様と共に歩む道です。公現日は私たちに、イエス様を世に知らせるために、一歩を踏み出させる最初の日でもあります。
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