幸い—柔和な人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」 マタイによる福音書5章5節
 一般的に日本語で「柔和」という言葉は「不愉快なことをされても仕返ししない。ゆったりしている。思いつめない。」このような思いをもって生きる人々をイメージする言葉です。また、反対に「弱々しい」との負のイメージを与える言葉でもあります。「柔和」という言葉に含まれる色々な感情の中には、「苛立つ・怒る」とう感情は含まれてはいません。
 「柔和」と訳されているギリシア語は「プラウス」という形容詞です。マタイは福音書の中で、イエス様ご自身が、自らを表現される時にのみ用いています。
 私たち信仰者には聖霊が結ぶ実のひとつとして「柔和」が既に与えられています。しかし、自分自身を見つめる時、弱さ、乏しさの故に、怒りを覚え、変えられない自分に苛立ちを感じます。その度に、自分には「柔和」の実は結べないもの、無縁のものと諦めてしまいます。しかし「柔和」とは私たちの感情の在り方の問題ではないし、また努力すれば得られるはずというものでもありません。柔和の有る無しは信仰の問題なのです。
 ひたすら神様の御心に従い続け、沈黙のまま十字架に向かわれるイエス様。そのお姿こそが「柔和な人」そのものです。そして、イエス様がその柔和さによって、この地を受け継いでおられると信じることが、私たちの信仰です。
 私たちにも、この世界では様々な苦しみや悲しみがあります。また悪を行う者の方が、むしろ栄えていると思われる理不尽さの中に生かされています。それでもイエス様の柔和さに支えられて、自らの苛立ちに負けることなく、沈黙して神様を仰ぎ、望みを置く、柔和な人として生きることができるのです。
 柔和に生きることは、かえって損をする、悔しい思いすることが多くなるかもしれません。しかしそこでも神様のお言葉を聞き続けるのです。その幸いを保証してくださるイエス様のお言葉のみを選んで聞き続けるのです。
 パウロは言います。「万事が益となることを知る。」すべてのことが神様の御心であると確信し、すべてを受け入れてくださったイエス様の御心を我が心とすることこそ、「柔和」に生きる人の幸いとなるのです。
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