自分を与える愛

エフェソの信徒への手紙5章21~33節

澤田直子師

主題聖句 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」 エフェソ5章21節
 妻へ、夫へ、と語りかけていますが、32節に「わたしは、キリストと教会について述べているのです。」とあるように、ここはパウロの教会論です。なぜ、教会について語るのに妻と夫の関係を持ち出したのか、それは、パウロが教会の最小単位を家庭、夫婦と考えたためでしょう。キリスト教は、男女共に礼拝を捧げますが、当時の圧倒的な男性優位の社会で、これは珍しいことでした。神の前に男女の存在の価値は平等であることと、特別に神に祝福された者の集まりであることが、「妻と夫」「教会」の共通点です。
 もう一つ、15節「いつも、あらゆることについて、…感謝しなさい。」この言葉にも心を留めたいと思います。妻と夫、夫婦の間には、「いつも」があり「あらゆること」があります。そして、人間の怒りは、近しい人に対しては目盛りが大きくなりやすいのです。そこにキリストが共にいてくださらなければ、感謝が生まれません。
 夫は妻の頭という言葉は、イエス様を知らないと男尊女卑のように聞こえます。教会の頭なるキリストは、どのように教会を愛されたでしょうか。ヨハネ13:1「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」イエス様は弟子たちの足を洗います。夫が妻の頭であるというのは、こういう意味です。
 28節「自分の体のように妻を愛さなくては…」ここの愛はアガペーが使われています。イエス様と同じ愛で妻を愛しなさい、と言うのです。イエス様は、ご自分をそっくり与えてくださいました。愛を示すということは、大なり小なり、自分の何がしかを与えることです。それは時間かもしれないし、手の働きかもしれません。祈ることもあるでしょう。何かを与えることは、同時に何かを与えられることです。「受くるよりも与うるほうが幸いなり」イエス様も、十字架の死によって信じる者に永遠の命を与えてくださいました。そしてイザヤ53:12「彼は戦利品としておびただしい人を受ける」と預言された通りに、多くの人が十字架に救いを求めました。主に与えられた隣人に、惜しみなく自分の何かを与える愛を、祈り求めましょう。
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時をよく用いなさい

エフェソの信徒への手紙5章15~20節

澤田直子師

主題聖句 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章15節
 パウロがエフェソの教会に手紙を書いたのは、紀元61年ごろローマの獄中にある時だと考えられています。(使徒言行録23章参照)時のローマ皇帝は暴君ネロでした。パウロは紀元64年7月のローマの大火から始まった迫害で殉教したと言われます。
 ローマのような強大で豊かな国も、人間の過ちが重なって病んでいきました。パウロは2年間ローマに住んで、その予兆を感じていたのでしょう。ここでいう「愚か」と「賢い」は能力ではなく、その前の「闇」と「光」を言い換えている言葉です。神のご計画の中にいる「光の子」と神の御手から離れた「暗闇」を対比しています。
 「時」はギリシャ語のカイロスが使われています。これはジャストタイム、いまこの時、与えられた機会を示す言葉です。そして原文では「あなたの時」をよく用いなさい、となっています。世の騒ぎや不安に流されることなく、あなたの主の御声に耳を澄まし、心を開いて従いなさい、と勧めているのです。
 その具体的な方法が19節に書かれています。これはまさに礼拝です。礼拝とは、神様と信仰者との交流を儀式化したものです。本来は自由に神様に祈り賛美してよいのですが、教会には、これから信仰を持ちたい人も、信仰を持って日が浅い人も集います。あまりに自由だとどうしてよいかわからなくなります。それで、誰もが安心して参加できるように形式が整えられているのです。
 「あなたの時」は、よく言われるチャンスの神様には前髪しかない、というようなものではありません。そうだったら、わたしたちは随分スリリングな思いをしなければなりません。日々、小さな出来事の繰り返しの中で、気づいたり見過ごしたり、選んだり捨てたりしながら、わたしたちは信仰者として創り上げられて行くのです。「いつも」「あらゆること」に感謝して、神様が備えてくださる、わたしの、あなたの「時」を歩みましょう。
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光の子として歩みなさい

エフェソの信徒への手紙5章6~14節

澤田直子師

主題聖句 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」 エフェソ5章8節
「光の子」はもちろん小さな子どもに向けた言葉ではなく、神の子としての信仰者に向けられます。9節『光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。』生じるという言葉は、「実を結ぶ」につながって使われる言葉です。神の光から生じるものは、必ず何らかの実を結ぶのです。
善意は、行動する善です。イエス様が「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい。」と教えられた通りです。光から生じる善意は、必ず隣人に向けられ、外の、誰かに作用します。
正義は、直訳すると正直とか廉直に近い言葉です。人間はともすれば、他の人の欠点や間違いを正すことを正義と思ってしまうことがあります。しかしこの正義は、神の光にわが身を照らして、自分の外ではなく内側に悪を探すのです。ある神学者は、これを「自分の間違いを認めない不自由さから解放されること。その根拠は十字架の贖いを信じて得た平安である」と説明しています。神の御前に出て自分の欠けも過ちも認められる、それは、本当の自由と言えるでしょう。
真実は、神にこそふさわしい言葉です。人間も真実を持ちますが、それはある事実を受け取った人が内に作り出す真実であり、誰にとっても真実になるということはありません。ここでいう「真実」は、神に対して発せられるまじめで真剣な問いであり、問うと同時に、その答えを真っすぐに受け取れる素直さと覚悟をも含んでいます。言葉にするなら「神様、わたしはこれでいいですか?」となるでしょうか。
この三点が単数で書かれています。神の御手の中で善意と正義と真実は分けられないのです。わたしたち信仰者は、神に選ばれた者です。(ヨハネ15:16)キリストの光に照らされて、光の子となって歩む者であることを宣言しましょう。
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信仰者の生活

エフェソの信徒への手紙5章1~5節

澤田 武師

主題聖句 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、
神に倣う者となりなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章1節

 パウロは、異邦人の生活を「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまることを知りません。」(4章19節)と糾弾します。エフェソの信徒は、この異邦人社会の中で信仰者として生きて行かなければなりません。パウロは彼らに、そして私たちにも「信仰者の生活」とは、どういうものなのかをハッキリと示します。
 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。先にイエス様がただ一度の贖いの子羊となり、自らを十字架の犠牲として献げてくださった。それを知った者は「愛によって歩む者」へと変わることを求められています。
 パウロがあえて「あなた方の間では」と言っているのは、同じ信仰を持つ人々の中に「みだらな者」「汚れた者」そして「貪欲な者」が共にいたことを示しています。パウロは彼らを「偶像礼拝者」であると断言します。
 実は「神に倣う者」と「偶像礼拝者」とは、対極の存在ではありません。それは「一枚の紙の表裏」のようなものです。誰の心にも、信仰者である私たちの心の中にも、この両方が存在しています。
 「貪欲」とは「貪って飽きることを知らない」ことです。全てを私の思い通りにしたい「我」はとどまることを知らず、自分自身を偶像としてしまいます。
 「神様に倣う者」として歩むことは、私の内の「我」、いつも私と他を支配したい思いとの闘いを意味しています。ここに信仰者の苦しみがあります。この苦しみこそは、神様に愛された子として訓練を受けた証しです。
 私たちがどんなに努力しても、無から有を創られた創造の神様に倣う者にはなれません。しかし、私たちを導き、整えてくださる摂理の神様に倣う者には時々なれるかもしれません。今日よりも明日、ほんの少しでも、僅かでも「神に倣う者」として歩み続けて行きたいと願います。「神の国を受け継ぐ者」に相応しい信仰者となる願いを持って、共に歩んで行きましょう。
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ナザレの人イエス

マタイによる福音書2章19~23節

澤田 武師

主題聖句 「ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」 マタイによる福音書2章23節
 ヨセフは迷わず天使の命令の「神様が示された目的地」を信じて、夜の闇の中へと歩み出しました。ヨセフにはヘロデ大王に抵抗する力は到底ありません。当時のユダヤでは誰も彼には歯向かえなかったでしょう。救い主誕生の大きな喜びのすぐ後に、他国に避難しなければならない事態となるとは。神様の御心と知りながらも、混乱と不安をヨセフは感じていたはずです。
 旧約聖書「創世記」では、「生まれ故郷を父の家を離れて…行きなさい」との神様の御言葉により、アブラハムは旅立ちます。また、モーセは「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると…あなたたちを導き入れ」との神様の約束に従い通しました。彼らに示されたのは、それぞれの最終目的地です。その「点」を目指して歩む、御心と信じた者たちの姿を、聖書は記しています。
 クリスマスを託された者たちは、神様の御心を信じて、それぞれに示された「点」に向かいました。そして神様は、私たちをも幾つかの「点」に導いてくださいます。信仰の「原点」。洗礼を受けた日、信仰者としての歩みはこの「点」から始まりました。そして、次に進むべき「点」、いつ与えられるか、どこへ導かれるか分かりませんが、お一人お一人異なる目的地が備えられています。
 信仰者に与えられた「点」と「点」が結ばれ、繋がって「線」となります。「線」が交差する処に、兄弟姉妹の交わりが生まれ、教会と成ります。
 「ナザレの人イエス」とは、イエス様に敵対する者たちが蔑んで付けた呼び名です。しかし、この方だけが、真の救い主として私たちに与えられました。イエス様の歩みは「十字架の死」に向かっての歩みです。ヨセフとマリアの旅の終わりに示されたナザレの町は、苦難の僕としての、イエス様の公生涯がスタートした町、十字架へ向かわれる「点」となりました。
 ヨセフがつないだ「線」、足跡は、どのような時代であっても信仰者が神様の御言葉に従って行く姿と重なります。イエス様の十字架を目指して進む、イエス様を人生の主役とする生き方を、表しています。
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