信仰者の生活

エフェソの信徒への手紙5章1~5節

澤田 武師

主題聖句 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、
神に倣う者となりなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章1節

 パウロは、異邦人の生活を「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまることを知りません。」(4章19節)と糾弾します。エフェソの信徒は、この異邦人社会の中で信仰者として生きて行かなければなりません。パウロは彼らに、そして私たちにも「信仰者の生活」とは、どういうものなのかをハッキリと示します。
 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。先にイエス様がただ一度の贖いの子羊となり、自らを十字架の犠牲として献げてくださった。それを知った者は「愛によって歩む者」へと変わることを求められています。
 パウロがあえて「あなた方の間では」と言っているのは、同じ信仰を持つ人々の中に「みだらな者」「汚れた者」そして「貪欲な者」が共にいたことを示しています。パウロは彼らを「偶像礼拝者」であると断言します。
 実は「神に倣う者」と「偶像礼拝者」とは、対極の存在ではありません。それは「一枚の紙の表裏」のようなものです。誰の心にも、信仰者である私たちの心の中にも、この両方が存在しています。
 「貪欲」とは「貪って飽きることを知らない」ことです。全てを私の思い通りにしたい「我」はとどまることを知らず、自分自身を偶像としてしまいます。
 「神様に倣う者」として歩むことは、私の内の「我」、いつも私と他を支配したい思いとの闘いを意味しています。ここに信仰者の苦しみがあります。この苦しみこそは、神様に愛された子として訓練を受けた証しです。
 私たちがどんなに努力しても、無から有を創られた創造の神様に倣う者にはなれません。しかし、私たちを導き、整えてくださる摂理の神様に倣う者には時々なれるかもしれません。今日よりも明日、ほんの少しでも、僅かでも「神に倣う者」として歩み続けて行きたいと願います。「神の国を受け継ぐ者」に相応しい信仰者となる願いを持って、共に歩んで行きましょう。
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