「待ち望む心」 マタイによる福音書 25章1~13節
⑴「教会成長はクリスチャンが妨げている」の著者、車順潤女史に言わせると、福音は人間の力で伝えられるものではなく、聖霊によらずして出来ないことですが、聖霊が臨在されている人は、「聖別意識」を持っているとの特徴があると言うのです。
み言に忠実に従う人ならば、人は万物の中で聖別された者、神の御霊に生かされている尊い存在であることは知っていますが、み言に従おうとしない自己本位な人の特徴は、聖別意識がなく、そのような人は確信も喜びもなく、それ故に信仰生活には葛藤が多く、情緒不安定であり、現実に起こる問題にいつも振り回されてしまう、このような人によって教会の権威は地に落とされ、聖霊によって清められ、高められなければならない教会を物質と人間の学識の下に置いてしまう、聖別なき信仰者は自分の罪に悩むことはあっても、聖霊を汚す罪、すなわち、この世でもあの世でも赦されることのできない罪を恐れない、聖別された者の身分を意識して生きる者の中だけで働かれる聖霊によって教会は正しく成長する、と言うのです。
しかし、サタンは世の光である神の子を恐れ、どんな暗黒でも小さな光にかなうことが出来ないように、クリスチャンは聖別意識に生きる光の子となってこそ世に勝ち、従って教会の権威は世に輝くのです、と結んでおられました。私たちは聖霊に満たされ、はっきりとした聖別意識を持っているか否かが問われているのです。
⑵愚かなおとめたちだけでなく、賢いおとめたちすらも眠り込んでしまいました。実は私たち皆がそのような弱さを持っていることを前提にして、主イエスはこのたとえを語っておられるのです。
愚かであるか、賢いかの違いは、予備の油を備えていたかどうかという点にありました。この油を賢いおとめたちは、愚かなおとめたちに分けてあげたくとも、分けてあげる事の出来ないものでした。
「罪の赦しの恵み」は、本人が主イエスを信じ受け入れなければ、他の人から分けてもらうことは出来ないものです。「聖霊」もしかりです。当人が自らを主イエスに明け渡すことなくして、聖霊に満たされることは出来ません。
信仰は理屈ではなく、体験出来ることです。御霊のことは御霊によってしか知ることは出来ません。主イエスの恵みによって罪赦されているとの信仰に立つならば、再臨の主の前に平安なる思いをもって立つことが出来ます。キリストの御霊である聖霊に満たされているならば、思い煩うことなく常に平安です。
私たちの今の状態は、果たして再臨の主イエスの前に平安なる思いをもって立ち得るでしょうか。
3月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「目覚めよ」 マタイによる福音書 24章36~44節
⑴主イエスはいつ再臨されるのかは、父なる神以外の誰も知りません。故に信仰生活は待ち望む日々の生活であると言えます。主イエスが与えてくださる平安をもってその時を迎えることのできる人は幸いです。
私たちは魂に平安を得るために試行錯誤しますが、この世において幸せを保証するように見えるものをどんなに獲得したとしても、死後の魂に平安を与える保証になるものは、何一つありません。
真の平安は主イエスと出会わなければ決して得ることはできないのです。
⑵主イエスは「だから、目を覚ましていなさい」と命じられます。私たちにとっての信仰の一歩は何だったでしょうか。それは罪深き自分を見出すことであったはずです。
F・キンローは、ある印象深い説教者のことを霊想録に書いております。その説教者は講壇に女性を呼んで、彼の持っている水の入ったコップを思いっきり揺さぶるように指示しました。その結果、水は零れ落ちました。そこで彼は彼女に「どうしてこのようになったのでしょうか」と尋ねると、彼女は「私が腕を揺すったからです」と答えると、彼はこう語りました。「違います。水がこぼれた本当の理由は、コップの中に水が入っていたからです」と語り、こう続けました。
「職場にイライラさせる人がいたとしましょう。しかし問題はイライラさせる人にあるのではなく、ただあなたの心の内に存在しているイライラの要素をかき立てているに過ぎないのです。
罪はあなたの内側から始まります。誰かがあなたよりほんの少し早く昇進しただけで、自分の内に嫉妬心が燃え上がるのに気付きます。嫉妬心は最初からあなたの内側にあるのです。先に昇進した人は既に宿っている嫉妬心を表面に浮かび上がらせただけなのです。あなたの内に存在しないものを引き出すことは誰も出来ません」というメッセージを聞いたキンローは、このように結んでおりました。
「全ての人の心は聖霊によるきよめの業を必要としています。私たちをイライラさせたり、怒らせたり、嫉妬心をかき立てたりする人がいることを神に感謝すべきかもしれません。そういう人は私たちの内に潜んでいるものを教えるために神が備えられた道具なのです。イライラさせるその人が、私たちの心の実態を映し出し、心に染み付いた汚れをさらけ出す時こそ、その心を全く洗いきよめて純白にしていただく絶好の機会なのです」と。
常に信仰の目を覚まし、神のみ言に耳を傾け、そして主イエスの再臨がいつ来ても慌てることのないように、神を信じる心を守り続けたいものです。
2月8日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「再臨その時」 マタイによる福音書24章29節~35節
(1)主イエスは十字架を目前とされた時、再臨について語られました。
この後の例え話しのいずれも再臨の主とどう向き合うかが語られております。すなわち、私達にとっての最終ゴールは、主イエス・キリストの再臨のその時です。終末の徴(しるし)ではないかと思えるような現実的な出来事が見えます。まだまだ先のことかもしれません。けれどもいつ来ようとも、誰もがその時を迎えなければなりません。果たして私達にとって、喜びの時となるでしようか、あるいは恥ずかしさを覚える時となるでしょうか。
(2)再臨の時に、明確な徴が現れることを主イエスは語られます。それは「人の子の徴が天に現れる」(30)ということです。古来からの考えとして、天に十字架の徴が現れ、主イエスが十字架に掛けられた意味を全ての人々がはっきりと悟らさせられるのではないだろうかという考えです。無論飽くまで推定的な考え方ではありますが、いずれの形にしても神の独り子を十字架に掛けてしまったことが示され、全ての民族が悲しむ時が来る、と主イエスは語れらました。
もう一つの注目点は「人の子は大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(30)ということです。すなわち、「もしかしたらメシアかもしれない」というような暖味な形ではなく、誰もが「この方はメシアである」と確信せざるを得ない形で、主イエスは再臨されるというのです。その時、人々は自らの罪を悲しみつつ再臨の主イエスを仰ぎます。
(3)神の言葉は必ず成就します。けれども主イエスは「これらのことがみな起こるまでは、この時代は滅びない」(34)とも語られました。マルチン・ルターは「信仰とは待つことだ」と語りましたが、キリスト者は再臨の主イエスを待つ者です。そして大切なことは36節以降にあるように「目を覚ましている」ということです。ウィリアム・バークレーは「およそものを考える人間ならば、次の三つのことを間わざるを得ないであろう」と語り、①「私は一体誰なのか」②「私の住むこの世界は、どういう世界なのか」③「この変化する世界の背後にあるカは何なのか、また何者なのか」という間いを掲げ、「これらの根本的な問題を携えて聖書に赴くなら、我々はそれが全部答えられているのを、とりわけイエス・キリストにおいて答えられているのを見出すであろう」と。主イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(35)と語られました。
1月25日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「内面を見る主」 マタイによる福音書23章25節~39節
(1)本日の箇所は山上の説教と対になっております。山上の説教は8つの幸いが語られているのに対して、本日の箇所は7つの不幸が語られております。23章14節の御言の後に、太自の十字架のようなマークがありますが、以前ここにもう一節あったが、外されたことを意味しております。有力な写本にこのことがなかったために、定本から外されたのですが、以前の翻訳では8つの不幸が記されていた時代もあった訳です。
しかし明らかなことは、幸いと不幸は対となり、表と裏の関係にあることが意識されていたようです。山上の説教の最初が「心の貧しい人々は幸いです」で、始まっておりますが、「心の貧しい人」とは、自分には何もなく、神以外に頼るもののない人を意味します。一方の不幸な人々のタイプとして最初に語られる人々は、「先生」、「父」、「教師」と呼ばれることを好む高ぶる者、偽善者であると主イエスは、13節以降に語っております。主イエスが問われているのは内面です。
(2)偽善者の特徴は、罪の現実を暖味にする点に現れてきます。「墓」や「記念碑」とはどのようなものでしょうか。過去の偉業を讃えるものです。「預言者の墓を建てる」ということは、どのようなことでしょうか。預言者と彼を通して告げられた神の御言を過去のものとして葬り去り、自分とは関係ないものとしてしまうことです。律法学者、ファリサイ人たちは、表向きは敬っているようであって、自分たちに向けられている神の言葉を過去のものとし、拒もうとする頑なさを彼らの姿の中に見出します。
(3)エルサレムの町をご覧になられ嘆かれた主イエスの嘆きは、今の私達に向けられた嘆きでもあります。この度イスラエルに研修旅行に行かせていただき「主泣きたもう教会」に行くことができました。そこにはめん鳥の親が雛を羽の下に集めて守ろうとしているレリーフがありました。そのめん鳥は言うまでもなく神の姿であり主イエスはその救いへと招こうとしておられるのです。
「主の名によってこられる方に、祝福があるように」(39)は21章9節において子ろばに乗って主イエスがエルサレムの町に入場された際に、迎え入れた大勢の群衆が叫んだ喜びの声ですが「主の名によってこられる方」とは、主イエスを指しております。主イエスは「今から後、決してわたしを見ることがない」と語られましたが、この世から離れようとしておられる主イエスは、再臨されるお方です。この後十字架に追いやろうとする人々も主イエスを歓迎し讃美するその時が来るのです。
2月22日 礼拝説教概要 東海林主任牧師
「原石は静寂なり」 ヨハネによる福音書15章1節~17節
(1)実を結ぶ事は主よりの命令ではなく約束です。ですから歯を食いしばって、一生懸命努力して実を結べ、とは主イエスは言われませんでした。この約束を信仰をもって受け入れるならば、あなたは実を結ぶことができる、と言われるのです。その場合の問題点は、主イエスと結び付いているかどうかとの点にあります。
主イエスに繋がるならば三つの根本的な問題が解決します。第一は過去の問題に対する救いが与えられる、ということです。「御子イエスの血によってあらゆる悪から清められる」(ヨハネ-1:7)とあるように、罪は赦され、きよめていただく恵みが与えられます。故に過去の問題を引 きずり苦しむことはありません。
第二は将来にある最大の問題である「死」に関して救いが与えられているということです。なぜならば主イエスは復活の御業をもって、救いを与えてくださったからです。
第三は過去の問題と将来の問題が解決されているとい うことは、現在の問題をも解決されていることをも意味します。なぜならば、現在はキリストに在る未来の希望に問題は問題でなくなってしまうからです。
主イエス・キリストの「十字架」、「復活」こそ、過去、現在、未来に至る全ての問題の解決、救いです。
(2)実を結ぶ秘訣が7節にありますが、三つのポイントがあります。①「わたしにつながっていれば」、②「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」、③「望むものはなんでも願いなさい」ということです。「そうすればかなえられる」と主イエスは約束されました。信仰生活の中で祈りが応えられた体験や神に取り扱っていただいた体験をすると信仰生活が実に楽しいものになります。どんなに困難な問題が起ころうとも、信仰に生きる者は必ず乗り越える道が主より備えられていることを体験的に知っていますから、ハードルが低く見えて来るものです。
(3)16節において、神の選びが語られていますが、愛なる主イエスにつながることが実を結ぶことの秘訣です。問題は原石に戻ることです。キリストの愛に応えてゆける者は、無色透明な原石のような存在です。その中には「主を信頼する思い」以外のよけいなものが入っていませんから、そこから生まれてくるのは豊かな実です。原石から生じる静寂な心、すなわち主を待望する心をもって、主がなしてくださるみ業を期待しつつ、信仰をもって歩みを続けてまいりましょう。
2月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
「行き着く場所」 ローマ信徒への手紙12章1節~8節
イエス・キリストは私達の罪から救い出す為に苦痛の中、十字架にお架かりになり、その命を献げてくださいました。その犠牲に応える為に自分の身体を献げ(1節)、神から託された使命を全うするように、と記されています(6~8節)。キリストに結ばれている私達は神に対して特別の働きがあり、その為に全ての人に賜物が与えられています(4~6節)。ですから賜物を自分の楽しみや名誉の為に用いるのは目的が違います。
奉仕等の働きは神に向かって成されるものですから、人の様子を見てするものではなく、他人がどうであれ、神の恵みに対して感謝と喜びを持ってお献げする事が、神の御心です。隠れた事を見ておられる神が報いてくださり、答えてくださいますから、右の手にする事を左の手に知らせる必要はありません。旧約聖書のネヘミヤ記に神殿建築の際に携わった人々とその働きが忠実に残っています。私達の奉仕もこのように天国に記されていますから、何という感謝な事でしょう。
信仰の喜びは十字架に結び付く献身を通してのみです。私は信徒の方々から多くの事を日々教えて頂いておりますが、我が振りを教えられのは、無言の内に陰で一生懸命、神にお仕えしておられる信徒の方々の後ろ姿です。その背中を見せて頂く度に、いつも神から「あなたは本当に神に教会に仕えているか?」と強烈に問われます。そうして、今一度新たな思いで神と人の前に立たせて頂いております。そのような後姿に牧師は支えられ、教えられて成長させて頂くのです。このようにして関係を結びながら、信徒の方も牧師も共に自分の限界を超える働きをさせて頂いて、教会は祝福され前進していくのだと思います。共に献身の中で喜び、感動を頂きながら成熟させて頂き、行きつく場所は更なる神の恵みの元に置かれます。
このように賜物を持って、犠牲をもいとわず積極的に信仰生活を目指すには、慎み深さが必要であると記されています(3~5節)。どのように大きな働きに見えようが、他の人と共に自分も用いられているに過ぎず、キリストの体の一部としての働きでしかない、という事を弁えていないとならないとあります。多くの肢体の一つの働きに担わせて頂いている、という認識が慎むという事です。お互いが他の支えとなって、この身を献げながら人をも生かしていくのが教会です。共にその使命を全うしていきましょう。
2月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「惑わされることなく」 マタイによる福音書24:1~14
⑴主イエスは「この世の終わりがある」ことを明言されました。そしてそのことに伴い様々な徴が現れることを語られました。しかし大切な心掛けは、「惑わされないこと」いうことです。また主イエスは殊更に不安を与えようとして語られたのではなく、「世の終わり」は、「救いの完成の時」であることを語っておられます。この神が定められた最後の到達点を見ずに、社会的環境を通して現れる世の終わりの徴だけを見るならば、人は絶望せざるを得ません。
⑵人は不安を抱くどの時代においても確固たる寄り所を求めているものです。ガリラヤという田舎から出て来た主イエスの弟子達の目には、エルサレムの神殿は実に荘厳で、頼りがいのある存在でした。ところが主イエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られました。弟子達には不動な存在に見える神殿が崩壊するなどということは、想像すらすることのできないことでした。そのような彼らに対して主イエスは「これらすべての物を見ないのか」(2)と語られました。
すなわち「あなた方は本当のものが見えていない、本当に寄り頼むものは何か」と問われたのです。
⑶主イエスは終末に伴う6つの徴について触れられました。①「わたしがメシアだ」と、惑わす偽者の出現。②戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くこと。③民同士の敵対や飢饉、地震。④信仰故に殉教者が起こること。⑤つまずき、裏切り、憎しみ合いが起こること。⑥不法がはびこり、愛が冷えること。いずれも私達の置かれている現実です。真面目に生きようとする者が馬鹿を見るような現実、人を愛そうと思っても、必ずしも愛をもって応えられるわけでもありません。むしろ善をもってした業が、悪意をもって応えられることすらあります。結局これらの徴が現れる先には何があるかと言うと、刹那的な生き方と破滅でしかありません。この先世の中はどうなってしまうのか、誰もが不安を抱いております。
⑷結論は全世界に福音が宣べ伝えられてから、終わりが来る、ということです。預言者エゼキエルは神殿と神の都エルサレムから主の栄光が去っていくことを霊の眼をもって見ていた人物でした。しかしその彼は‶この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。″と最後のエゼキエル書48:35に記しています。すなわち失望するような中にあっても、信仰の眼が開かれている人は、臨在の主を見、その回復を夢見、真に寄り頼むべきお方はどなたであるかを悟らされ、そして魂の救いのために、御国の福音を宣べ伝える使命に生きることができるのです。
1月18日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
「問うことのできるお方」
ローマ信徒への手紙13章11~14節
「夜は更け、日は近づいた。」(12節)と記されています。近づくとは、将来の事態を先取りして生きる姿勢を示します。暗闇の只中で朝を待つような歩みをせよ、という事です。人生暗闇、と思ったらそのような歩みしかできず、その結果が「酒宴・酩酊、淫乱・好色、争い・ねたみ」(13節)です。朝を待ち望む事ができない故に、現実逃避や欲望に走ったり、争いの中、人の足を引っ張り、果ては一緒に落ちていきます。そこには自分の存在や生きる価値を見出す事はできず、意味のないつまらない生き方をせざるを得ません。その誘惑に巻き込まれない為に「闇の行いを捨て、光の武具を身につけましょう」(12節)とありますように、朝に向かう生き方、つまり神の光によって整えられて歩んでいかなくてはなりません。私達が光の中で生きる事ができるように、イエス・キリストが十字架に架かってくださり、既に勝利を勝ち取ってくださっています。
しかしあまりにも闇が長いと、この暗さに呑み込まれるのでは、と不安になりますが、私達には「本当に朝が来るのか?」と問う事ができる神がすぐ傍らにおります。「今は夜の何どきか?」「夜明けは近づいている。しかしまだ夜なのだ。どうしても尋ねたいならば、尋ねよ。もう一度来るがよい」(イザヤ21:11~12)と、その度ごとに神の前に出て何度でも尋ねなさい、とおっしゃっています。漁師ペトロ達が何度網を下ろしても魚が取れなかった時、主イエスは彼らに沖に漕ぎ出して網を下ろしなさいと指示されました。彼らはそのお言葉に従った時、想像できない程の魚を収穫しました。一度で駄目なら更にもう一度、何度も何度も、これでもかという程、神に向き合った時、初めて私達は不安の中から確信を頂く事ができます。諦めずに神に尋ねながら光を求めていく生き方が信仰の歩みで、それは必ず朝に繋がっていきます。
私達の誘惑は暗闇の中にどっぷり浸かってしまう事です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)と記されています。勝利は決定的ですが、私達は絶えずキリストと共に、闇からの誘惑と闘わなければなりません。その力も失せてしまった時「朝は本当に来るのですか?」と神に問いつつ、諦めず歩んで参りましょう。「主の慈しみは決して絶えない、憐れみは尽きない。それは朝ごとに新しくされる」(哀歌3:11~23)
苦難の中の慰め コリント2 1:3~10
⑴
「わたしたちは神に希望をかけています」(10)を2009年の教会標語とさせていただきました。この言葉は様々な苦難を通して体験的に習得したパウロ自身の確信であると共に、キリストに在る私たちの確信でもあります。パウロは苦難が何故与えられるかとの疑問に答えております。その理由は苦難を通して神からの慰めを得た私達は、その慰めをもって同じ苦難にある人に慰めを与える者とさせていただくために、神は敢えて苦難を私たちにお与えになられるお方であるということです。
⑵
パウロは神よりの慰めをキリストの関連において述べようとします。(5)私たちが神よりの慰めが与えられ、失望せざるを得ない状況に陥りつつも、何故希望をもって生きることができるかと言うと、キリストが私たち罪人のために十字架上に命をささげ、苦しんでくださったからに他なりません。どのような苦難であれ、どのような深刻な問題を抱えていようとも、それに優るところの神の慰めがキリストを通して与えられるというのが、パウロ自身経験を通して与えられた確信でした。
⑶
教会とは慰めの共同体です。精神科医で牧師であられる山中正雄先生は、ストレスに打ち勝つ方法として、第一に「休養」、第二に「静かな心で神に対すること」、第三に「同じ使命を持つ仲間を発見すること」を挙げておられました。世の中には孤独な人が沢山おられますが、しかし教会には仲間がいる、共に信仰生活を続けている人々がいる、それを確認することによって、新しい状況に対応する力が与えられるのだと言うのです。
⑷
パウロにとっての希望は死者さえを復活させてくださる神にありました。ある聖書研究者によると達磨の原型は、主イエスの復活を信じることの弟子トマスであると言うことでした。あの達磨から引き出すメッセージは「七転び八起き」です。それが事実ならば実に信仰的な意味合いが込められています。トマスは信仰的に躓き、絶望を経験しました。そして主イエスを三度も「知らない」と否定したペトロに復活の主イエスが現われ、三度、「あなたはわたしを愛するか」と問われました。傷を抱いていたペトロに対する赦しの招きであったと共に、主よりの慰めを頂いた出来事でもありました。トマスやペトロがそうであったように、キリスト者は七度転ぼうとも、立ち上がることができます。なぜならば「わたしたちは神に希望をかけているからです」
「あなたは理想の人になれる」 ヨハネ 1:35~42
ローマカトリック教会の総本山、サンピエトロ寺院は、聖人ペトロにちなんで建てられた教会です。
しかしかつてのペトロは、主イエスが十字架に架けられる時、裏切るような人物でした。主イエスは全てをご存知の上で、彼の可能性・未来を見据えて「あなたはヨハネの子シモンだが、ケファ(ペトロ)と呼ぶことにする」(44節)と、断言されました。「あなたを・・・する」これこそが全能の神の力です。彼は主イエスの愛と期待を受け新しく造り変えられ、教会の柱となる大きな働きを成し遂げました。
ペトロは主イエスを裏切った後、後悔し自分を責めた事でしょう。
しかしそこで終わったら、人間は罪に潰されて落ちて行くだけです。神は私達の汚れを自ら所有してくださり、御霊によって可能性を引き出してくださるお方です。
その為に主イエス自らが、私達の前にお姿を現わし「来なさい」と招いております(35~42節)。
今、自分の歩んでいる路線・起動を外れて、主イエスが歩んでおられる道に私達が自ら出て行く事が必要です。更にその呼びかけに、応答する責任が私達にはあります。
その結果「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリ5:17)の如くに永遠に私達の可能性を現実に変えてくださる、神の御業を経験する事ができます。ですから、私達は過去の失敗から立ち上がらせて頂く事ができるのです。
旧約聖書時代、イスラエルの民は神に背き、神のみ言葉を受け取る人・従う人がいなくなった為に、神は口を閉ざされた時期がありました。
私達が生きていくに当って必要不可欠な事は神からのお言葉です。神がその口を閉ざされた時、人は全ての可能性を失い、底に落ちていく人生を歩むしかありません。
英国のある批評家は、主イエスは理想を挙げるだけでなく、その理想を事実として実現する力をご自身の中に持ち、かつ提供される方、という事を言っております。「神に仕える人はどのような業をも行うことができるように十分に整えられるのです」(Ⅱテモ3:17)とありますように、自分の欠点・罪に支配されるようなつまらない人生に終止符を打ちましょう。私達が理想の人になる事ができる、実現する力を持っておられる神にお仕えし、無限の可能性を引き出して頂く1年とさせて頂きましょう。その為にも今一度、私達に与えられた命を見つめ直したいものです。