恵みが待ち構えている

使徒言行録2章36~42節

 主イエスが天に帰られ、その代わりに聖霊なる神様が私達の元に送られました。その事によって弟子達のあやふやであった信仰が確立され、ペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」(40節)と勧め、人々はこの言葉を受け入れ洗礼を受け、3000人もの人々が救われた事が記されています。
 救われるには「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)と、悔い改めが必要です。悔い改めとは人生の方向転換をいいます。神を神と思わず神に背を向けて、自分中心とした生き方から180度方向転換して、神の恵みの支配の中に生き始めることを意味します。旧約聖書に登場する栄華を極めたソロモン王の「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と嘆きの姿が記されています(コヘレト1:2)。財産や名誉を積み、自力で幸せを作っていても心の中はいつも空虚でした。神の憐れみと恵みの中で生かされない限り、人は本物の感謝と喜びを見出す事はできないものです。
 方向転換するにはイエス・キリストの十字架を仰ぐことです。「・・・あなたがたが十宇架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36節)「イスラエルの人々は大いに心を打たれ」(37節)とありますが、心打たれるとは、「自分の心臓を槍で刺し貫かれる」という言葉で十字架の意味を知り、衝撃的な心の痛みを覚えて悔い改めました。キリストの御前に出た時に知らされるのは自分の罪です。悔い改める時、十字架上でイエス・キリストの裂かれた肉と流された血潮によって、神は無条件で全ての人の罪を赦してくださいます。その結果、聖霊なる神様が私達の心の中に宿ってくださいますが、聖霊は「その中にご自身を注ぎたいと思う容器を求めて探しておられる」といいます。容器とは人間の事です。心に自分の思いが詰まっていたら聖霊は入る事はできません。その為には「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)と、常に福音の真理を聖書から教えて頂き、愛の交わりと聖餐の恵みに与る姿が記されています。私達の目の前にも聖霊なる神様の恵みが待ち構えています。