何にも勝る十字架の力

マルコによる福音書3章20~30節

 神と人間を離そうとする力「悪霊、サタン、ベルゼベル」は、人間を支配し、滅びの死の世界へと引きずり込みます。人間の中に忍び込んで身体を占領して悪の住家とします。そうして人は心と情を捕えられ悪に支配されて、神に反逆して、罪のとりこにさせられました。その結果、誰もが「死」とから免れなくなってしまったのです(ロマ6:23)。この悪霊の権力から、私達自らどんなに努力しようとも解き放つ事はできませんでした。
 そこで主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と語られ、主イエスが神の霊をもって、悪霊を追い出し、病を癒し、福音宣教されました。主イエスのご生涯は、この悪霊の支配と闘い続ける歩みで、人々の救いの為に最期には十字架にお架かりになりました。
 一方、律法学者達は主イエスを「ベルゼベルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と、主イエスの業、お言葉を「悪霊」よばわりしたのです。しかし、主イエスは譬えを用いて、悪霊の力に勝る、ご自身の到来を示されました(23~27節)。十字架の業こそ、本当の意味でベルゼベルから解放するものです。それ故に「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになる。」(28~29節)私達の犯すあらゆる罪は赦されると断言しております。一方、永遠に赦されない者がいます。それは、聖霊を冒涜する者=主イエスの赦しを必要とせず、十字架の犠牲の愛を受け止めなない者の事を指しています。罪の赦しと神の恵みのご支配が差し出されているのに、それを拒否する事は、罪の中に留まる事になります。
 いったい私は主イエスの愛にの下にいるか、或いはサタンに捕えられているか、どこに所属しているか、存在位置を確かめる必要があります。如何に修行し、どんなに良い事をしても主イエスの下に置かれていない者は、救われません。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(Ⅰペテロ5:8)悪が私達の隙を狙っていますが、主イエスを信じ、すがる者を赦し、新しい力と恵みを注いでくださいます。主イエスは私達を愛し、憐れんで永遠の命と祝福を与える為に十字架にお架かりになりました。この勝利を頂き、主イエスへの感謝と恵みで満たされていますから、何も恐れる事はありません。

定められた道を歩む

マルコによる福音書3章7~19節

 主イエスがこれまで行われた病の癒しの業を求め、パレスティナのほぼ全域から「おびただしい群衆」が押し寄せてきました(7~10節)。彼らは自分の願いを叶えたいと、まじない師的なご利益宗教を求めていたのです。又、汚れた霊=悪霊・神から私達を離そうとする霊も、群衆と同じように正しく主イエスの事を受け止めていませんでした(11節)。主イエスが与えてくださるのは罪の赦しと永遠の命で、それは福音の中心、恵みの中心で、癒しや奇跡を行う事が本来の目的ではありません。私達は主イエスに何を求めているでしょうか。主イエスの事を理解せず、自分の思いや願いが実現される事しか求めていないなら、これらの群衆と悪霊と同じになってしまいます。
 主イエスはそのような中で福音宣教の使命を果たされる為に、ご自身のお働きを担う為の使徒を任命されました。「そばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(15節)12使徒の名前が記されていますが、それは主イエスの御思いが現れています。ご自分が扱やすい人を選ばれたのではなく、ご自身を裏切るユダや、使徒同志で敵対関係にあった人々、又、後世に名前しか残らないような人々を敢えて選ばれました。「・・人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力ある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」(Ⅰコリ1:26)これは教会の姿でもあります。神は才能や力、経験、境遇に拘らず私達を選ばれます。主イエスに従う事によって一つの目的の為に生きる事になり、一つの使徒となっていくのです。「あれが足りない、年が若い、働き盛りで忙しい、もう老年だ」と、様々な理由をつけて「自分なんて・・・」と、思います。しかし、人間はそもそも自分の持っているもので成し遂げる事等できないものです。
 主イエスは私達を12使徒のように、任命して派遣してくださいます。任命とは「造る・創造する」という言葉と同じで、主イエスが私達をそばにおいて訓練され、相応しく造り上げて派遣して下さいます。自分には期待できなくとも、神がどのように整えて用いてくださるか、神に信頼し期待するのです。テニソンという人は「私達の意志は私達のものだが、あなたのものとする為に与えられている」と、語っています。自分の思いを果たす為に主イエスを追いかける生き方から、この私を通して輝かしい神の恵みを伝える為に神の御用に役立てる、それだけで私の存在の意義があります。それが私達の定められた道です。

メシアへの信仰

ヨハネによる福音書9章35~41節

 ヨハネ8~9章で主イエスは神の子メシアの本質のひとつ「光」を顕された。8章では「御言葉」なる「光」を以て人々に罪を悟らせ、ここ9章で主は「御業」を以て人々に「光」をお与え下さる。そしてイエスをメシアと認めないファリサイ派の言葉「我々も見えないということか(40)」は私たちへの警鐘である。
(1)肉の目を開く主【シロアムの池に行って〈あなたの目を〉洗いなさい】
 主イエスは生まれつき目の見えない人の目に唾でこねた土を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。御言葉に従うとその人に神の業が顕れ、目が見えるようになった(1~7)。これはメシアのしるし(イザヤ29:18,35:5等)である。私たちは神の御力を100%信じているか。勝手に制限を加えて諦めてはいないか。主を信じ従う者にこそ、大いなる神の御業が顕れるのである。
(2)霊の目を開く主【シロアムの池に行って〈あなたの目を〉洗いなさい】
 シロアムとは「遣わされた者」メシアなる主イエス・キリストのこと。「唾でこねた土」とは「私たちの目を塞いでいる罪や汚れ」である。今朝、主は私たちにこう言われる。【主イエス・キリストに行ってあなたの霊の目を塞ぐ罪や汚れを洗いなさい】さあ主の御許に近づき、罪・汚れに曇った霊の目を洗い清めて頂き、ハッキリと主の御顔を仰ごう。
(3)【すでに主イエスは私たちに会いに来て下さった。今、あなたと話しているのが、主イエスだ。】
 目の見えるようになった彼は主イエスの御顔を知らなかったが、その御業を知っていた。彼はイエスについて思い巡らし、何回も繰り返す証言は選りすぐりの言葉 (9,11,12,15,17,25,27,30-33) となり、信仰は研ぎ澄まされ、彼の霊の目はすでにイエスを見つめ、知り、捕らえていたのである。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。アーメンである。
 私たちは肉体を持つ主イエスを拝することは出来ないが、霊なるキリストの御業によって主を見つめ、知り、捕らえ、霊の目を開いて頂き、霊の目の曇りを取り除いて頂くことが出来る。また、キリスト者同士の内に、また教会におられるキリストの霊を、霊の目で見つめ、捕らえ、拝する事ができるのである。肉の目と霊の目を開いて下さる主に感謝しよう。
主に在りて

束縛から愛の原則へ

マルコによる福音書3章1~6節

 本日の箇所は、主イエスが安息日に手の萎えた人を癒された事が記されています。ファリサイ派の人々は神の御心を悟ろうとしない所か、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことは、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節)と、主イエスの問いにも答えようともしませんでした。いや、律法に束縛されている自分達の姿が浮き彫りにされ、答える事ができなかったのです。そのような彼らの心の行き先は「どのようしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(6節)と、敵意から狂気へとエスカレートしていきました。
 彼らは自分達の正しさを主張しながら、自分達を受け入れない人を次第に憎むようになり敵意を抱き、ついには抹消しようという思いに至ったのです。彼らのみならず、私達にも同じような心が宿っているのではないでしょうか。相容れない人を批難し、憎むような暗黒の罪が宿っているのです。しかし、主イエスがその身をもって私達に示されたのは、人間の醜さとは全く異なる神の愛です。人間の悪意をも全てご存知で、敢えてその只中に踏み込んでこられました。そのように主イエスの命を亡きものにしようとする者の為に、十字架にお架かりなって罪の赦しを与え、救いをもたらす為です。
 頑ななファリサイ人に対して、主イエスは敢えて安息日に手の萎えた人を会堂の真中に立たせて「手を伸ばしなさい・・・元とおりになった」(5節)と、癒されました。この行為によって訴えられる事を重々ご存知で、十字架の一歩を踏み出されたのです。自分達は正しいと自己主張し、律法を握りしめながら礼拝をお献げしているファリサイ派の人々と、握りしめるものすらなく弱さを抱えながら、ひたすら神の御前に憐れみと恵みを求める手の萎えた人とどちらが、本当の神の安息に与る事ができるかは、一目瞭然です。
 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも休ませてあげよう。・・・わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28~29)神に招かれ「手を伸ばしなさい」と、主イエスの憐れみの言葉に従った時に、真の安息を得られます。罪人の私達は見かけ上健康であっても、罪との闘いの中で疲れ果て心は萎えています。そのような者の為に神は真の安息を与えたいと願い、主イエスをこの世にお遣わしになりました。神の御前で握りしめているものを手放し、神に手を伸ばした時に真の安息に触れさせて頂ける私達です。その先には死を越えた天の御国での永遠の安息が待っています。それが神の愛です。

神が見ておられるパン

マルコによる福音書2章23~28節

 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。・・・7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない・・・主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト20:8~11) 安息日は神によって創造された全てのものが神の祝福を受ける時です。又、イスラエル民族が奴隷状態にあったエジプトから救い出してくださった神の恵みを思い起こし、感謝して主を褒め称える日です。更に現代のキリスト教においては、主イエスが復活された日曜日を記念して神聖な日・安息日として定められ、私達は日曜日に礼拝をお献げしています。
 当時のユダヤ人は安息日を厳格に守っていましたが、次第に本来の意味が忘れられ、禁止条項を守る事が第一となっていきました。ファリサイ派の人々においては、世の世俗を嫌い律法を守る事で自分達は聖なる者という差別意識を持ち、主イエスの弟子達が安息日に麦の穂を摘んだ事を律法違反だと批難し、自分達の正しさを主張していたのです。(24節)そこで主イエスは旧約聖書に登場するダビデが、サウル王に追われ空腹のあまり律法違反し、食してはならない聖なるパンを食べた時の話をされました。神はダビデを罰する所か、憐んでくださり支えてくださったのです。そのパンは「神が見ておられるパン」という意味で、人が形式的に律法を守るより、神の眼差しがどこに向けられているかを知る事の方が遥かに重要である事を教えられました。(サムエル記上21章)
 「安息日は、人のために定められた。人が安息のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(27~28節)安息日は人が人として生きる為に神によって定められたものです。守らなければならない義務ではなく、神の元で安らぐことが許されている祝福の日・恵みの日です。自分の意志でお献げしているのではなく、一方的な神の愛と憐れみの故です。
 人は様々な事に縛られ、嘘を言い、見栄を張り、欲をかいて争い、人を愛したかと思えば憎み、ドロドロとした罪の中で安息なき日を過ごしています。このような様々な罪に苦しむ私達を解放してくださる為に、主イエスは礼拝に招いてくださっております。神の御前に立たせて頂いて真の安息に与り、慰められ癒されるのです。ファリサイ派の人々のように神の御前に立とうともせず、律法を守っていても本末転倒です。安息日に神の御前に出る事からの全ての祝福は始まります。神の祝福の眼差しで見つめられている私達です。

新しいぶどう酒の恵み

マルコによる福音書2章18~22節

 旧訳の古い律法・掟はイエス・キリストの十字架の犠牲によって、私達の罪を清算してくださった救い主が共にいらしてくださる、という事によって全く新しくされました。それは神が招いてくださった祝宴の喜びに与るようなものです(2:13~17、19)。放蕩三昧した罪人が父なる神の元に戻ってきた時、神は「食べて祝おう」とも記されているごとく(ルカ16:11~)神からの恵みと祝福です。主にあって喜ぶ事こそ私達の真の誠実です。ユダヤ人の伝統的な信仰生活「~であるべきだ」という古い形式的なものを突き破った新しい恵みです。
 この新しい恵みの信仰に生きる為に神が望んでおられる事は、私達に新しいものを古いものに当てはめるような愚かな事をせず、私達自身が新しくされる事です。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)
 その譬えとしてぶどう酒の話をされました。「・・だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(22節)新しいぶどう酒を古い革袋に入れたら、ぶどう酒はまだ盛んに醗酵し続けているので、弱くなっている古い革袋はそれに耐えきれずに破れ、両方とも駄目になってしまいます。古いままの自分ではせっかくのイエス・キリストの恵みがだいなしになってしまうのです。
 この話のきっかけは、断食についての論争が起きた事でした。旧約聖書には断食について「苦行」と表現されています。目的は神に対して悔い改めを現す行為で、救われる為の手段でした。しかし、古い律法に縛られていたファリサイ派の人々は苦行難行して断食する事が救いの目的となり、神の赦しの恵みよりも自分が悔い改める事が御手柄のようになっていました。
 「花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」(20節)主イエスが捕えられ十字架につけられた時、初めて罪の赦しを知る事となりました。断食に代表されるような形式的で伝統的な信仰のあり方ではなく、罪の赦しの恵みの中で真実な悔い改めができるようになった私達です。悔い改めは私達が胸を打って断食をする事ではなく、イエス・キリストの十字架の恵みに触れて初めて為される行為です。人間側の罪の自覚ではなく、自分の罪を知らない事を神に訴え、罪を神から示され新しい恵みの中を歩む私達です。

新しい神殿

ヨハネによる福音書2章13~25節

詩24篇は問う「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」
我々は答える。「我々のうちに聖なる神の御前に立てる者など一人もいない。」
【1】主イエスは神の宮を神の愛・聖なる怒りを以てきよめてくださる
ユダヤ人の過越祭(13)。神の民イスラエルは神との関係を保つため、全ての成人男子がエルサレム神殿の礼拝に与り犠牲を献げた。神は異邦人をも愛されて救いを望まれた。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる(イザ56:6-7)。 しかし神殿の異邦人の庭は、動物を売る者や両替人が暴利を貪り、祭司たちは私腹を肥やし、動物の鳴き声と悪臭、商売の声が飛び交い、異邦人はどこへ行って礼拝を献げればよいのか!神の聖き怒りは、あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽く(詩69:10)し、御子イエス・キリストの宮清めとして世に示された。詩65篇は神が罪を自覚した者の咎と背きを清め(贖い)、御前に立つ救いの喜びを与えるという大いなる約束を告げている。主は今も生きておられ、我々の祈りの妨げ全てを「このような物はここ(神の宮)から運び出せ」と命じて、聖なる神の怒りを以て完全に清めて下さる。
【2】三日で再建された神の宮は主イエスの体・教会・私達一人一人である
宮清めの権威「しるし」を示せと迫るユダヤ人たちに予告したとおり、主イエスは三日目に死人のうちより甦り、神の御子の権威を示された。主がご自身の体を「神殿」と言われたのは、肉体の甦りと共に、旧約の預言「新しい神殿」(エゼ36:24-32、37:23-28等)と同様に、神の民の霊的回復をも指している。今や霊と真を以て神を拝する唯一の場所は、エルサレム神殿でもヤコブの梯でもなく、全ての人の罪を贖われた十字架上の主イエスの体であり、御宝血によって清められ贖い出された新しい契約の民の集う教会こそキリストの体(コロ1:24)であり、我々キリスト者一人一人は神の住まう神の宮(Ⅱコリ6:16)である。
【最後に】神の宮なる私達一人一人が清められ、私達の集う教会が全く清められたとき、私達は神の栄光を現す (Ⅰコリ6:19-20) ことが出来るようになる。
さあ、今朝こそ、私達は主イエスを信じ求めて祈ろう。今朝こそ約束の聖霊のバプテスマ(使1:4-5)に与ろう。聖霊の炎によって、神の宮なる私達一人一人から、私達の集うキリストの体なる教会から、祈りの妨げとなる一切合切を残らず焼き尽くして頂こう。全く清められて主に喜ばれ、神の栄光を現す新しい神殿となろう。ハレルヤ!主に感謝

罪人を招くために

マルコによる福音書2章13~17節

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)
 主イエスがこの世においでなった目的は罪人を単に救う為ではなく主イエスの食卓=祝宴に招いてくださる為です。罪人と食卓をする事は、その人と同じ者になるという事を意味し、ご自身が罪人の汚れを身に受けて深く交わってくださり、慰められ希望が与えられます。そこには十字架の犠牲による愛が溢れています。私達の祝福は主イエスの食卓に招かれ共に食卓に与る事です。天の御国に帰る迄この恵みに与り続け、やがてこの命を全うした時、天の御国でこの祝宴は完成されます。
 主イエスが近づいておられても(13節)、罪に縛られそこに行く事もできないレビ(マタイ)に「・・収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(14節)と、状況をつぶさにご覧になり罪の中から救い出され、当時は徴税人=罪人とみなされていた彼を弟子とされました。主イエスの招きはこの世の成功者ではなく、弱い者、貧しき者、病める者、罪人等の為です。主イエスに招かれ、主の御前に立たせて頂いて初めて自分が罪人である事に気づかされ、神の愛と憐れみに触れさせて頂けます。収税所だけが自分の居場所で罪の中に埋もれ、お金にしがみついていた彼が主イエスの愛と憐れみにすがる者とさせて頂きました。罪から救われるという事は価値観が逆転する事です。
 一方、律法を厳格に守りながら人を見下しているファリサイ派の人々のように(16節)、自分は正しい者と思っている人々には主イエスの呼びかけに応えず、立ち上がれずにいつまでも自分の場所に座ったままで、真の祝福を知らないで人生を終えてしまう人々もおります。無条件で今座っている場所から立ち上がらせてくださる主イエスの恵みに応えられる人は幸いです。
 レビの如くに罪だらけの生活に埋没してはいないでしょうか。そのような姿を憐れんで声をかけて招いてくださるのが、週毎の礼拝です。私達は日曜日毎に礼拝に招かれ、又、聖餐に与らせて頂いておりますが、神に名を知られるに相応しくない者が招かれているという事は、決して当たり前の事ではなく人の思いを絶する神の恵みです。その恵みの中で「『内なる人』は日々新たにされ」(Ⅰコリント4:18)、と、日毎に清められて信仰生活を送るのがキリスト者です。

極上の癒し

マルコによる福音書2章1~12節

 主イエスによる病人の癒しの記事が続いていますが、その目的は単なる癒しではなく、神の深い御思いが現されております。本日の箇所は癒しを求めに来た人々に対して、主イエスは「あなたの罪は赦される」(5節)と、罪の赦しの宣言をされました(5節)。私達が先ず求めなくてはならない事は、現在の目に見える問題の解決ではなく、罪の赦しが最も重要である事を示しています。
 病は人を縛り付け苦しみを伴いますが、「罪」とは、罪の自覚のない人は痛みを感じませんから罪の赦しを求めようとしません。しかし「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)と、罪の赦しのない所は滅びの道、死しかないと断言しています。罪の重荷に抑えられた私達はここに記されている足腰の立たない病人のようなもので、罪という病に縛られている姿と言っても良いと思います。
 罪の結果、私達は誰もが死を通らなくてはなりませんが、その事に対してどうしようもない憤りを覚えられたのが、主イエスです(ヨハネ11:33~35)。ご自身の命を十字架につける迄、罪人である私達を愛しておられる主イエスの切実な願いは、全ての人が罪から救われ、永遠の命を得て天国に行く事です。「罪の赦しのあるところ、そこに命と祝福がある」と宗教改革者ルターが語っている如く、罪の赦しは人間にとって何よりも替え難い極上の癒しです。
 罪の赦しは神の恵みによって無条件に誰にでも与えられるものですから、「主イエスの十字架によって赦されて祝福された者」と、確信をもって感謝して歩む事が私達の本来の姿です。全ては罪の救いからスタートしていきます。天国行きの切符を頂くなら、病人の方であろうと全ての人が神に向かって積極的な生き方に変えられて行きます。「罪赦されて天国行きの切符を頂き祝福の中を生きて行くか、何の保証もない滅びの道を生きていくか」あなたはどちらを選ぶか、と神は問うておられます。病が癒されないで天国に行く方もおられますが、「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。」(12節)の如く、死を越えた永遠の命を頂いて天国に向けて出発していきます。
 ここに記されている4人の男達の何としても病の男を「主イエスの元に連れていきたい」という熱心さが主イエスの心を動かされました(5節)。私達は無力ですが、まだ神を知らないで死に向かって滅びの道を歩んでいる人々を神の元へとお連れする事はできます。その場が教会です。今日も罪の赦しの宣言、極上の癒しを主イエスは与えたいと、祝福する人を待っておられます。

きよくなれ

マルコによる福音書1章35~45節

  私達は日々「主よ、」と祈り求めますが、ある意味でご利益信仰になっている危険性があります。病を癒す奇跡やご利益を求めがちですが、先ず私達が求めなくてはならないものは罪から癒される事です。
 主イエスは「福音」を宣べ伝えると同時に数々の癒しや奇跡を行い、カリスマ的な存在になり(21~28節)、人々は主イエスが祈っておられる場所に追って行き、癒して頂こうと待ち構えていました(35~37節)。名声や評判に埋もれては罪人を救い出すというご自身の使命を全うする事ができませんから、人々を残してその場を去りました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節)
 昨日迄の人々は癒され、今日来た人々は取り残されるという事は不平等のように思わされます。又、同じ病でも癒される人、そうでない人もおられます。神である主イエスは全ての能力を絶対的に持っておられ、癒し得ないものはありませんが、その能力をいつも現されるのではありません。癒されない場合もあります。偉大な伝道者パウロ自身も祈りましたが、応えられませんでした。しかし、弱さが別の形で伝道の力となりました。癒されなくとも必ず最善は為されます。神の癒しについて人間側から強要する事はできません。癒しは信ずる者の特権ではなく、主イエスの恩恵として与えられるものです。
 40節以下に別の町で重い皮膚病の人が主イエスのもとに来て、ひざまずいて祈っている様子が記されています。当時の慣例によりそのような病の人は人前で「私は汚れた者です」と大声で叫ぶ事が義務付けられていました。病気の上に更にそのような規制は耐え難い事で運命を呪った事でしょう。私達は見た目には健康のようですが、この重い皮膚病の人が暗黒の中に生きていたのと同じようなものです。罪という病の為に呪われた暗闇の人生を歩いているのです。しかし、その事に気づき彼が民衆に叫んだように、私達は主イエスに「私は汚れた者です」と、告白しましょう。更に「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)と、主イエスに無条件にお委ねする事により「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい、清くなれ」(41節)と、汚れた罪から必ず癒して頂けます。キリストの十字架による罪の赦しを信じるならば、全ての人に平等に与えられる癒しは罪からの癒しです。「清くなれ」という赦しの事は全ての人に与えられています。