束縛から愛の原則へ

マルコによる福音書3章1~6節

 本日の箇所は、主イエスが安息日に手の萎えた人を癒された事が記されています。ファリサイ派の人々は神の御心を悟ろうとしない所か、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことは、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節)と、主イエスの問いにも答えようともしませんでした。いや、律法に束縛されている自分達の姿が浮き彫りにされ、答える事ができなかったのです。そのような彼らの心の行き先は「どのようしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(6節)と、敵意から狂気へとエスカレートしていきました。
 彼らは自分達の正しさを主張しながら、自分達を受け入れない人を次第に憎むようになり敵意を抱き、ついには抹消しようという思いに至ったのです。彼らのみならず、私達にも同じような心が宿っているのではないでしょうか。相容れない人を批難し、憎むような暗黒の罪が宿っているのです。しかし、主イエスがその身をもって私達に示されたのは、人間の醜さとは全く異なる神の愛です。人間の悪意をも全てご存知で、敢えてその只中に踏み込んでこられました。そのように主イエスの命を亡きものにしようとする者の為に、十字架にお架かりなって罪の赦しを与え、救いをもたらす為です。
 頑ななファリサイ人に対して、主イエスは敢えて安息日に手の萎えた人を会堂の真中に立たせて「手を伸ばしなさい・・・元とおりになった」(5節)と、癒されました。この行為によって訴えられる事を重々ご存知で、十字架の一歩を踏み出されたのです。自分達は正しいと自己主張し、律法を握りしめながら礼拝をお献げしているファリサイ派の人々と、握りしめるものすらなく弱さを抱えながら、ひたすら神の御前に憐れみと恵みを求める手の萎えた人とどちらが、本当の神の安息に与る事ができるかは、一目瞭然です。
 主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも休ませてあげよう。・・・わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28~29)神に招かれ「手を伸ばしなさい」と、主イエスの憐れみの言葉に従った時に、真の安息を得られます。罪人の私達は見かけ上健康であっても、罪との闘いの中で疲れ果て心は萎えています。そのような者の為に神は真の安息を与えたいと願い、主イエスをこの世にお遣わしになりました。神の御前で握りしめているものを手放し、神に手を伸ばした時に真の安息に触れさせて頂ける私達です。その先には死を越えた天の御国での永遠の安息が待っています。それが神の愛です。