きよくなれ

マルコによる福音書1章35~45節

  私達は日々「主よ、」と祈り求めますが、ある意味でご利益信仰になっている危険性があります。病を癒す奇跡やご利益を求めがちですが、先ず私達が求めなくてはならないものは罪から癒される事です。
 主イエスは「福音」を宣べ伝えると同時に数々の癒しや奇跡を行い、カリスマ的な存在になり(21~28節)、人々は主イエスが祈っておられる場所に追って行き、癒して頂こうと待ち構えていました(35~37節)。名声や評判に埋もれては罪人を救い出すというご自身の使命を全うする事ができませんから、人々を残してその場を去りました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節)
 昨日迄の人々は癒され、今日来た人々は取り残されるという事は不平等のように思わされます。又、同じ病でも癒される人、そうでない人もおられます。神である主イエスは全ての能力を絶対的に持っておられ、癒し得ないものはありませんが、その能力をいつも現されるのではありません。癒されない場合もあります。偉大な伝道者パウロ自身も祈りましたが、応えられませんでした。しかし、弱さが別の形で伝道の力となりました。癒されなくとも必ず最善は為されます。神の癒しについて人間側から強要する事はできません。癒しは信ずる者の特権ではなく、主イエスの恩恵として与えられるものです。
 40節以下に別の町で重い皮膚病の人が主イエスのもとに来て、ひざまずいて祈っている様子が記されています。当時の慣例によりそのような病の人は人前で「私は汚れた者です」と大声で叫ぶ事が義務付けられていました。病気の上に更にそのような規制は耐え難い事で運命を呪った事でしょう。私達は見た目には健康のようですが、この重い皮膚病の人が暗黒の中に生きていたのと同じようなものです。罪という病の為に呪われた暗闇の人生を歩いているのです。しかし、その事に気づき彼が民衆に叫んだように、私達は主イエスに「私は汚れた者です」と、告白しましょう。更に「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)と、主イエスに無条件にお委ねする事により「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい、清くなれ」(41節)と、汚れた罪から必ず癒して頂けます。キリストの十字架による罪の赦しを信じるならば、全ての人に平等に与えられる癒しは罪からの癒しです。「清くなれ」という赦しの事は全ての人に与えられています。