イエスの洗礼

ヨハネによる福音書1章29~34節

●「イエスの洗礼」には3つの意味がある。
[第一]「イエスの洗礼」とは主イエスがバプテスマのヨハネから水による悔い改めの洗礼(共観福音書参照) を受けたこと。罪なき神の子が公生涯の始めに私たち罪人と同じ立場に立たれたのである。主に感謝。
 その直後、ヨハネは神の黙示『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』(33節b)と同じ出来事を見て、イエスを知り、イエスについて証しをした(29~34節)。
[第二]「イエスの洗礼」とは十字架の苦難(ルカ12:50)である。ヨハネはイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(29節b)と宣言した。小羊とは贖罪の献げ物、過越の小羊、苦難のしもべ(イザヤ53章)であり、神の小羊とは神が備える犠牲の羊(創22:13)である。主に感謝。
[第三]「イエスの洗礼」とは油注がれたお方なる主イエス・キリストが私たち全員に分与して下さる聖霊による洗礼(33節b)、全身が聖霊漬けにされて人の内側から全く清くされる聖霊の満たし、聖潔、聖化、聖霊降臨の恵みである。
●主イエスの命令は「聖霊を受けなさい。」ヨハネ20:19-23
 復活の主イエスは弟子たちに「聖霊を下さるように祈りなさい」とは言われず、「聖霊を受けなさい」と言われた。受ける(ラムバノー)とは「受け取る、もぎ取る、受け入れる、経験する」という積極的・能動的な動作である。使徒2:38、8:15、8:17、10:47、19:2には「聖霊を受ける」ことの大切さが記されている。
●イエスの聖霊による洗礼を妨げる「汚れた自我」 イザヤ書6:1-8
 私たちが聖霊のバプテスマを未だ受けていないとすれば、聖霊を受け取る側の問題である。聖霊の受け取りを拒む自我が死んでいないのである。イザヤは絶対的に聖なる神を見て、死を直感した。「災いだ。わたしは滅ぼされる。」ところがセラフィムが祭壇の炭火にイザヤの口を触れさせると、イザヤの咎は取り去られ!罪は赦された!まさに神の愛の炎、聖霊の炎のバプテスマ、ペンテコステのバプテスマである。そして今も、主はこの御堂におられ、私たちに聖霊を注ごうとしておられる。今朝こそ私たちは聖なる神に不相応な汚れた自分を見出して死を直感し、「災いだ。わたしは滅ぼされる。」と神に嘆こう!主から愛の炎、聖霊のバプテスマを受け取ろう!主イエスは今すぐにでも私たちを聖霊漬けにして下さるのだから。主イエスは言われる「聖霊を受けなさい。」