罪人を招くために

マルコによる福音書2章13~17節

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節)
 主イエスがこの世においでなった目的は罪人を単に救う為ではなく主イエスの食卓=祝宴に招いてくださる為です。罪人と食卓をする事は、その人と同じ者になるという事を意味し、ご自身が罪人の汚れを身に受けて深く交わってくださり、慰められ希望が与えられます。そこには十字架の犠牲による愛が溢れています。私達の祝福は主イエスの食卓に招かれ共に食卓に与る事です。天の御国に帰る迄この恵みに与り続け、やがてこの命を全うした時、天の御国でこの祝宴は完成されます。
 主イエスが近づいておられても(13節)、罪に縛られそこに行く事もできないレビ(マタイ)に「・・収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(14節)と、状況をつぶさにご覧になり罪の中から救い出され、当時は徴税人=罪人とみなされていた彼を弟子とされました。主イエスの招きはこの世の成功者ではなく、弱い者、貧しき者、病める者、罪人等の為です。主イエスに招かれ、主の御前に立たせて頂いて初めて自分が罪人である事に気づかされ、神の愛と憐れみに触れさせて頂けます。収税所だけが自分の居場所で罪の中に埋もれ、お金にしがみついていた彼が主イエスの愛と憐れみにすがる者とさせて頂きました。罪から救われるという事は価値観が逆転する事です。
 一方、律法を厳格に守りながら人を見下しているファリサイ派の人々のように(16節)、自分は正しい者と思っている人々には主イエスの呼びかけに応えず、立ち上がれずにいつまでも自分の場所に座ったままで、真の祝福を知らないで人生を終えてしまう人々もおります。無条件で今座っている場所から立ち上がらせてくださる主イエスの恵みに応えられる人は幸いです。
 レビの如くに罪だらけの生活に埋没してはいないでしょうか。そのような姿を憐れんで声をかけて招いてくださるのが、週毎の礼拝です。私達は日曜日毎に礼拝に招かれ、又、聖餐に与らせて頂いておりますが、神に名を知られるに相応しくない者が招かれているという事は、決して当たり前の事ではなく人の思いを絶する神の恵みです。その恵みの中で「『内なる人』は日々新たにされ」(Ⅰコリント4:18)、と、日毎に清められて信仰生活を送るのがキリスト者です。