メシアへの信仰

ヨハネによる福音書9章35~41節

 ヨハネ8~9章で主イエスは神の子メシアの本質のひとつ「光」を顕された。8章では「御言葉」なる「光」を以て人々に罪を悟らせ、ここ9章で主は「御業」を以て人々に「光」をお与え下さる。そしてイエスをメシアと認めないファリサイ派の言葉「我々も見えないということか(40)」は私たちへの警鐘である。
(1)肉の目を開く主【シロアムの池に行って〈あなたの目を〉洗いなさい】
 主イエスは生まれつき目の見えない人の目に唾でこねた土を塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。御言葉に従うとその人に神の業が顕れ、目が見えるようになった(1~7)。これはメシアのしるし(イザヤ29:18,35:5等)である。私たちは神の御力を100%信じているか。勝手に制限を加えて諦めてはいないか。主を信じ従う者にこそ、大いなる神の御業が顕れるのである。
(2)霊の目を開く主【シロアムの池に行って〈あなたの目を〉洗いなさい】
 シロアムとは「遣わされた者」メシアなる主イエス・キリストのこと。「唾でこねた土」とは「私たちの目を塞いでいる罪や汚れ」である。今朝、主は私たちにこう言われる。【主イエス・キリストに行ってあなたの霊の目を塞ぐ罪や汚れを洗いなさい】さあ主の御許に近づき、罪・汚れに曇った霊の目を洗い清めて頂き、ハッキリと主の御顔を仰ごう。
(3)【すでに主イエスは私たちに会いに来て下さった。今、あなたと話しているのが、主イエスだ。】
 目の見えるようになった彼は主イエスの御顔を知らなかったが、その御業を知っていた。彼はイエスについて思い巡らし、何回も繰り返す証言は選りすぐりの言葉 (9,11,12,15,17,25,27,30-33) となり、信仰は研ぎ澄まされ、彼の霊の目はすでにイエスを見つめ、知り、捕らえていたのである。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。アーメンである。
 私たちは肉体を持つ主イエスを拝することは出来ないが、霊なるキリストの御業によって主を見つめ、知り、捕らえ、霊の目を開いて頂き、霊の目の曇りを取り除いて頂くことが出来る。また、キリスト者同士の内に、また教会におられるキリストの霊を、霊の目で見つめ、捕らえ、拝する事ができるのである。肉の目と霊の目を開いて下さる主に感謝しよう。
主に在りて