何にも勝る十字架の力

マルコによる福音書3章20~30節

 神と人間を離そうとする力「悪霊、サタン、ベルゼベル」は、人間を支配し、滅びの死の世界へと引きずり込みます。人間の中に忍び込んで身体を占領して悪の住家とします。そうして人は心と情を捕えられ悪に支配されて、神に反逆して、罪のとりこにさせられました。その結果、誰もが「死」とから免れなくなってしまったのです(ロマ6:23)。この悪霊の権力から、私達自らどんなに努力しようとも解き放つ事はできませんでした。
 そこで主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と語られ、主イエスが神の霊をもって、悪霊を追い出し、病を癒し、福音宣教されました。主イエスのご生涯は、この悪霊の支配と闘い続ける歩みで、人々の救いの為に最期には十字架にお架かりになりました。
 一方、律法学者達は主イエスを「ベルゼベルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と、主イエスの業、お言葉を「悪霊」よばわりしたのです。しかし、主イエスは譬えを用いて、悪霊の力に勝る、ご自身の到来を示されました(23~27節)。十字架の業こそ、本当の意味でベルゼベルから解放するものです。それ故に「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになる。」(28~29節)私達の犯すあらゆる罪は赦されると断言しております。一方、永遠に赦されない者がいます。それは、聖霊を冒涜する者=主イエスの赦しを必要とせず、十字架の犠牲の愛を受け止めなない者の事を指しています。罪の赦しと神の恵みのご支配が差し出されているのに、それを拒否する事は、罪の中に留まる事になります。
 いったい私は主イエスの愛にの下にいるか、或いはサタンに捕えられているか、どこに所属しているか、存在位置を確かめる必要があります。如何に修行し、どんなに良い事をしても主イエスの下に置かれていない者は、救われません。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(Ⅰペテロ5:8)悪が私達の隙を狙っていますが、主イエスを信じ、すがる者を赦し、新しい力と恵みを注いでくださいます。主イエスは私達を愛し、憐れんで永遠の命と祝福を与える為に十字架にお架かりになりました。この勝利を頂き、主イエスへの感謝と恵みで満たされていますから、何も恐れる事はありません。