神に近づこう

ヘブライ人への手紙10章19~25節

澤田 武師

主題聖句 『心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。』 ヘブライ人への手紙10章22節
 信仰者として生きるとは、「何故、私はイエス様を信じるのか。」と、自分自身に問い続けることであると思います。私たち信仰者は、この世の煩いに動かされ、神様の元を離れていないか、絶えず確認しなくてはなりません。生涯、神様との交わりを求めて行く、その生きざまが、信仰者、クリスチャンである証となります。
 作者は、神様から私たちへの勧めを語ります。イエス様が流された血によって、主を信じる者が誰でも神様に近づくことが許された。主の十字架は、神様と私たちの間にある全ての隔たりを取り除いてくだり、死をも乗り越える永遠の生命の道を開いてくださった。私たちは自分自身では、心も体も清くすることはできませんが、そんな私たちを、神様の御元に導き、執り成してくださる主イエス様が居られます。作者は全ての信仰者に「真心から神に近づこうではありませんか。」と勧めます。
 罪を知ったアダムは、神様から見つからないように隠れました。罪は神様とアダムの間に、決して近づくことの出来ない隔たりを作りました。
 「この時のためにこそ。」エステルは、神様を信頼して、神様から与えられた美貌と王妃としての地位とユダヤ人の命を救う使命を、王妃の衣装に身を包んで王の前に進み出ます。御心と信じて王の前に進み出るエステル。何か凛としたものを感じます。彼女の内にある神様への信頼がそうさせているのです。ユダヤ人の救いのためにその一命を賭ける、信仰者としての美しさがエステルには在ります。エステルは神様を信じ、神様に近づいたのです。
 イエス様は、私たちの罪を贖い、神様を信じる心、神様への道を開いてくださいました。そして今も執り成してくださいます。私たちの心を満たしてくださいます。神様から離れる理由はありません。神様に近づこうではありませんか。大胆に確信を持って。その姿こそ信仰者の美しい生き様です。
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永遠に完全なる者

ヘブライ人への手紙10章11~18節

澤田直子師

主題聖句 「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」 ヘブライ人への手紙10章14節
 イエス・キリスト大祭司説はここでひと段落しますので、もう一度人間の大祭司とキリストを対比します。祭司は神殿で捧げ物をする際には、始めから終わりまで立って行いました。しかしキリストは、「永遠に神の右の座に着き」とあります。座るお姿は、王であることを表します。ここで、イエス様が完全な人間であると同時に、神であることが示されます。
 13節「敵どもが御自分の足台となってしまうまで」この敵とはなんでしょうか。エフェソ6:12には「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の緒霊を相手にするものなのです。」とあります。支配と権威は、外からわたしたちを襲うのではありません。わたしたちが支配したがり、権威になりたがるのです。本当の敵は外からではなく、わたしの内にいるのです。わたしたちが持つ罪の根っこは、主にお渡ししなければ枯れません。
 14節は不思議な御言葉です。聖なる者とされた人たちを永遠に完全なものとなさった、とは、どういうことでしょうか?イエス様が永遠に完全な者というならわかりますが、ここはそういう意味ではありません。「聖なる者」とは信仰者、皆さんやわたしのことです。しかし、永遠に完全な者と言われても、納得できません。そもそも、永遠とか、完全の意味を、わたしたち人間は理解しません。これを実感できるのはただお一人、イエス様だけでしょう。
 わたしたちが永遠に完全な者であるはずはないのです。この人間の生きる世界では、神様の御力が100%、真っすぐにあますことなく現れることはありません。しかし神様の方では、完全な準備を終えてくださって、「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」と宣言してくださるのです。わたしたちは、この言葉を信頼することによって、イエス様の十字架の贖いを決して無駄にはしません、という志を神様に捧げたいと思います。
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わたしは来ました

ヘブライ人への手紙10章1~10節

澤田直子師

主題聖句 「そこで、わたしは言いました。『ご覧ください、わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」 ヘブライ人への手紙10章7節
 1節では、律法には影があるばかりで実体がない、と言い切っています。この「影」は写真のようなもので、料理の写真がいくら美味しそうに撮れていても食べて栄養にすることはできないのと同じことです。旧約の時代から、神は形式だけの捧げ物をお求めにはならない、という考え方がありました。詩編の40編7節が引用されています。
 神は、捧げ物を喜ばず、ただわたしの耳を開いてくださる。「わたしの耳を開いて」というところが、ヘブライ書に引用されると「体を備えてくださる」となります。これは、当時のヘブライ人が読んでいた聖書が、ギリシャ語に訳された「70人訳聖書」だったためです。彼らの生活原語は既に当時の共通語であるギリシャ語になっていたのです。
 これを誤訳と考えることもできますが、著者は「体を備える」はまさにイエス様のことだ、と受け取ったのです。すると8節は真実味が出てきます。「ご覧ください、わたしは来ております。」来ておりますは文法的には完了形で、既に事実として起こり、今も変わらないことを示しています。神様は、人間の間違いをも用いて、真実に変え、最善に導いてくださいました。
 「わたしは来ました」とは、イエス様の神への応答であると同時に、わたしたちがイエス様にお応えする言葉です。わたしたちは、自分の意志で、喜びで、応答で、祈り、賛美し、献金を捧げます。しかし礼拝に集うことが目的の全てではありません。ここで耳を開かれ、御心を知り、それを行う力をいただいて世に遣わされるのです。礼拝に集うことももちろん大切ですが、むしろ礼拝から帰ってからの方が大切です。
 イエス様は「わたしは来ました」と神と人に高らかに宣言して世に来られましたが、そのお姿は低く謙遜なものでした。「神よ、御心を行うために」わたしたちも来ました。主の力をより頼み、謙遜に遣わされて行きましょう。
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ただ一度身を献げられた

ヘブライ人への手紙9章15~28節

澤田 武師

主題聖句 「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。」 ヘブライ人への手紙9章28節
 神様は預言者エレミヤを通して、「新しい契約」を立てることを約束されました。しかし、契約は約束だけでは効力を発揮しません。「契約」は「遺言」と違って、契約者の死がそれを有効にするのではなく、契約が「批准」されることによって法的拘束力を持ちます。この契約を有効なものとするために、神様はイエス様を十字架にかけて死に引き渡してまでも、神様自身が契約の批准者となられたのです。私たちの罪が贖われ、救いが完成したのです。
 手紙の著者は、「大祭司キリスト」とは「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(4:15)イエス様は、全き神様であられ、そして全き人であられたと、宣言しています。
 さらに15節「キリストが死んでくださった。」24節「キリストは神の御前に現われてくださった。」28節「キリストは、御自分を待望している人たちを負うために現われてくださる。」と、キリストを宣言しています。ただ一度十字架で死ぬためにイエス様は生まれ、私たちが神様の御前に受け入れられ、御許(みもと)に近づくことが許されるために、十字架で死なれました。
 イエス様が一度目に来られたのは、多くの人の罪を負うためです。罪からの救いを完成させるためでした。二度目に来られる時は、既に罪は完全に贖われていますから、贖罪の業の祝福が、十分に、永遠に、信仰者が享受することだけを目指されるのです。イエス様の死が、私たちの罪のための、完全な供え物であることがはっきりとわかります。
 私たちは宣言します。私たちの生活の根底を流れるイエス様の十字架の贖いと救いの喜びを証する者となることを。はっきりと私の言葉でキリストの祝福と恵みを伝えることができるようになることを。キリストの平和に生きる者として歩むことを。平和を実現する者として歩むことを。イエス様が再び来られる時まで、信仰者として従順に歩んで行くことを。
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私たちの礼拝

ヘブライ人への手紙9章1~14節

澤田 武師

主題聖句 「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」 ヘブライ9章14節
 神様はモーセに「幕屋」建設を命じます(出エジプト25章)。幕屋にある聖所と至聖所の間には隔ての幕があり、至聖所に入ることが厳格に制限されています。最も神聖な至聖所には、大祭司が全ての罪の贖いを神様に祈るために、年に一度だけ入ることが許されていました。全ての民の罪以前に、自分自身の罪の贖いのための犠牲の血を携えていなければ、大祭司といえども神様の前に行くことはできません。ここに最初の契約の限界があります。
 14節「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」
 著者は、律法に従い、行いによって救いを求める誘惑に引き込まれそうなクリスチャンに向けて繰り返します。十字架によって唯一絶対な贖いの献げ物となられたイエス様が新しい契約を成就してくださった。従って最初の契約は破棄されました。今、私たちは神様と直接顔と顔を合わせて礼拝を守ることが赦されます。至聖所を隔てていた幕は取り去られ、神様と私たちの間には、何の妨げも無くなりました。私たちは礼拝を守ります。
 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:9)イエス様は弟子フィリポの問いに答えました。信仰と生活が解離しないように、絶えずイエス様から目を離さず歩んで行きましょう。イエス様は、人間の形をとり、私たちと同じ時間と空間の世界に来られました。それは、信仰者が罪赦された者として、正しい人として生きる道を開くためでした。
 私たちには欠けがあり、また、贖いの献げ物も持ちません。けれどもイエス様は礼拝へと招いてくださいます。私たちはそのままの姿で、今日も礼拝に集う者となり、神と人に仕える力を得ます。共に歩む兄弟姉妹を感謝いたします。仕える者として歩んで参りましょう。私たちの信仰は生活に息づいています。
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