私たちの礼拝

ヘブライ人への手紙9章1~14節

澤田 武師

主題聖句 「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」 ヘブライ9章14節
 神様はモーセに「幕屋」建設を命じます(出エジプト25章)。幕屋にある聖所と至聖所の間には隔ての幕があり、至聖所に入ることが厳格に制限されています。最も神聖な至聖所には、大祭司が全ての罪の贖いを神様に祈るために、年に一度だけ入ることが許されていました。全ての民の罪以前に、自分自身の罪の贖いのための犠牲の血を携えていなければ、大祭司といえども神様の前に行くことはできません。ここに最初の契約の限界があります。
 14節「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」
 著者は、律法に従い、行いによって救いを求める誘惑に引き込まれそうなクリスチャンに向けて繰り返します。十字架によって唯一絶対な贖いの献げ物となられたイエス様が新しい契約を成就してくださった。従って最初の契約は破棄されました。今、私たちは神様と直接顔と顔を合わせて礼拝を守ることが赦されます。至聖所を隔てていた幕は取り去られ、神様と私たちの間には、何の妨げも無くなりました。私たちは礼拝を守ります。
 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:9)イエス様は弟子フィリポの問いに答えました。信仰と生活が解離しないように、絶えずイエス様から目を離さず歩んで行きましょう。イエス様は、人間の形をとり、私たちと同じ時間と空間の世界に来られました。それは、信仰者が罪赦された者として、正しい人として生きる道を開くためでした。
 私たちには欠けがあり、また、贖いの献げ物も持ちません。けれどもイエス様は礼拝へと招いてくださいます。私たちはそのままの姿で、今日も礼拝に集う者となり、神と人に仕える力を得ます。共に歩む兄弟姉妹を感謝いたします。仕える者として歩んで参りましょう。私たちの信仰は生活に息づいています。
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