わたしは来ました

ヘブライ人への手紙10章1~10節

澤田直子師

主題聖句 「そこで、わたしは言いました。『ご覧ください、わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」 ヘブライ人への手紙10章7節
 1節では、律法には影があるばかりで実体がない、と言い切っています。この「影」は写真のようなもので、料理の写真がいくら美味しそうに撮れていても食べて栄養にすることはできないのと同じことです。旧約の時代から、神は形式だけの捧げ物をお求めにはならない、という考え方がありました。詩編の40編7節が引用されています。
 神は、捧げ物を喜ばず、ただわたしの耳を開いてくださる。「わたしの耳を開いて」というところが、ヘブライ書に引用されると「体を備えてくださる」となります。これは、当時のヘブライ人が読んでいた聖書が、ギリシャ語に訳された「70人訳聖書」だったためです。彼らの生活原語は既に当時の共通語であるギリシャ語になっていたのです。
 これを誤訳と考えることもできますが、著者は「体を備える」はまさにイエス様のことだ、と受け取ったのです。すると8節は真実味が出てきます。「ご覧ください、わたしは来ております。」来ておりますは文法的には完了形で、既に事実として起こり、今も変わらないことを示しています。神様は、人間の間違いをも用いて、真実に変え、最善に導いてくださいました。
 「わたしは来ました」とは、イエス様の神への応答であると同時に、わたしたちがイエス様にお応えする言葉です。わたしたちは、自分の意志で、喜びで、応答で、祈り、賛美し、献金を捧げます。しかし礼拝に集うことが目的の全てではありません。ここで耳を開かれ、御心を知り、それを行う力をいただいて世に遣わされるのです。礼拝に集うことももちろん大切ですが、むしろ礼拝から帰ってからの方が大切です。
 イエス様は「わたしは来ました」と神と人に高らかに宣言して世に来られましたが、そのお姿は低く謙遜なものでした。「神よ、御心を行うために」わたしたちも来ました。主の力をより頼み、謙遜に遣わされて行きましょう。
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