水を汲む者は知る

ヨハネによる福音書2章1~10節

澤田直子師

主題聖句 「イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」 ヨハネによる福音書2章7節
 イエス様が初めて行われた奇跡は、婚宴に出すぶどう酒が足りなくなったために、水をぶどう酒に変えるというものでした。清めのための水がめと書かれています。ユダヤ人は外出先から帰ったら、どこかで汚れが移ったかもしれないと考えて必ず手を洗いましたから、律法を守るための水が必要でした。
 イエス様は、最後の晩餐の席でぶどう酒の杯を回しながら『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』と言われました。水がぶどう酒に変わる奇跡は、イエス様が来られたことによって律法が福音に変えられる時が始まった、というしるしです。
 『このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていた』召し使いは主人の命令に従うほか生きる術はありません。しかし、仕方ない思いを持って働いたことをも、神様は用いられます。イエス様は『人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』(マルコ10:45)と言われました。そして、信仰者は、『あなたがたは、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。』(エフェソ5:1)と命じられています。できそうにない「神に倣う」ことを命じられる理由は、神に愛されているからです。
 2021年の最後の礼拝説教として思いを巡らしている時に、「あなたはこの年水を汲んだのか?」と問われました。全く汲まなかったということはないと思いますが、文句を言い、この意味は、この利益は、と余計なことを考えながらの働きだったかもしれません。
 この1年、コロナウィルス感染防止対策をしながら、どうやって福音伝道をしていくかを模索し続けたように思います。小松川教会の働きがどんなふうに発展するのか、あるいは後退するのか、今はまだわかりません。しかし少なくとも一つ、顔を上げて言えることがあります。わたしたちは水を汲むことをあきらめませんでした。疲れがあっても、満杯にならなかったとしても。来る年も、水を汲む僕となりましょう!
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主イエスは生まれた

ルカによる福音書2章8~20節

澤田 武師

主題聖句 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 ルカによる福音書2章14節
 時のローマ皇帝アウグストゥスからの住民登録の勅令は、聖書で預言されていた「救い主はベツレヘムでお生まれになる」イエス様のご降誕へと、ヨセフとマリアを導きました。
 この夜、ヨセフとマリアは理不尽な現実の中に居ました。彼らに与えられたものは、人の住むところではない家畜小屋と、家畜用の道具、飼い葉桶だけでした。しかし、二人は神様の導きと信じ、乳飲み子イエス様を布でくるみ、ゆりかごの代わりの飼い葉桶に寝かせます。それは今ヨセフとマリアができる、神様の恵みへの精一杯の応答です。
 人はすべて裸で生まれてきます。今、お金持ちであっても、貧しい者であっても、皆同じです。人間の赤ちゃんは大変弱い存在です。乳飲み子は親の愛、子どもを育てる愛の中に居なければ、到底生き続けることはできないのです。私たちが今ここにいるのも、この子の命を守りたいという「愛に包まれて」いたから、生きてこられたのです。神様はヨセフとマリアの愛にイエス様を託され、イエス様の地上での歩みがここから始まりました。
 野宿をしていた羊飼いたちは、天使から救い主誕生の知らせを聞きます。彼らはただちに出発し、真夜中、すでに眠りについているベツレヘムの村中の家々を探し回り、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を探し出しました。そして喜びに満たされて、賛美しながら羊飼いの仕事に戻って行きました。彼らの心は、恐れから喜びへと変えられました。
 今日、救い主イエス・キリストが私のためにお生まれになったことを知った方々が、福音の祝福と喜びの中に新たに歩み始められますようにと祈ります。
 神様が人となって、飼い葉桶の中に生まれ、さらに十字架で死なれ、三日目に復活された。簡単には信じられない出来事でしょう。
 私たちを罪から救うために、神様がただ一度、備えてくださったのがクリスマス、イエス様のご降誕です。この地上に、私のところにイエス様はおいでくださった。全人類に与えられた救い「主イエスは生まれた」この喜ばしい知らせが、永遠に伝えられますように祈りましょう。
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イエス様を信じますか

ヨハネによる福音書3章16~21節

澤田 武師

主題聖句 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』 ヨハネによる福音書3章16節
 神様は、“この世”を創造され、そこで被造物を支配するために人を創られました。しかし、罪が人の心に入り込み、罪は人を支配し、人を死ぬ者としました。その時から人は有限な存在として、この世に生きています。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。…。」神様は愛そのものであることの証が、イエス様です。神様の愛は、罪からの救いとして現され、独り子イエス様をこの世に遣わしてまでも成し遂げられます。
 イエス様は、“この世”に私たちと同じ人としてお生まれになりました。そして、神様はその独り子を、唯一無二の贖いと和解の犠牲とされ、この世に生きる者たちの救いのために、イエス様を十字架へと歩ませてくださいました。それほど“この世”を神様は“愛されました”。
 降誕劇には、この世に生きる者たちの代表として、神様から救い主イエス様のお誕生を知らされたマリアとヨセフが出てきます。さらに、イエス様のお誕生の良き知らせを伝えられた羊飼いたち、東の博士たちもいます。
 羊飼いたちの言葉を不思議に思った人々もいます。彼らは、神様からの知らせを信じなかった者たちです。また、東の博士が伝える救い主誕生の知らせに、ヘロデ王は恐怖を感じます。彼は聖書の預言を確かめ、最後には、関係の無い子どもたちの命さえも、奪い取る者となりました。彼らもまた、この世に在りました。
 附属白百合保育園の降誕劇では、イエス様のお誕生に関わった者たち皆が、神様をほめたたえ、イエス様のお誕生を賛美して終わります。敵対するローマの兵隊たちも一緒です。イエス様のお誕生の知らせは、この世に生きる者たちを一つにしてイエス様に向かわせます。アドベントの時、この世に住む私の信仰を、自問自答してみてください。私たちも降誕劇の一員として、この世に生かされ、証する者とされています。答えは「私はイエス様を信じています。」と。
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私たちに与えられた

イザヤ書9章1~5節

澤田 武師

主題聖句 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」 イザヤ書9章5節
 イザヤ預言の背景には、アッシリアに占領された人々が、強制移住や他民族との混血によって、ユダヤ人の独自性と誇りを失いかけている現実がありました。彼らはまさに「信仰のない闇の中に生きる者、希望のない死の陰の地に住む者」たちでした。神様は彼らに、イザヤを通してメッセージを与えられました。神様から与えられる光は深い喜びとなり、多いなる楽しみとなる。それはイスラエルの民の重荷をとりさり、すべての束縛から民を解き放ち、神様を信じる者たちが解放されるという、救いの預言でした。
 イザヤに託された神様からの希望は「ひとりのみどりごが、ひとりの男の子がすべての人を救う為に私たちに与えられた」という預言です。「わたしたちのために生まれた」「わたしたちに与えられた」「彼の肩にある」「唱えられる」。預言の言葉は、これらは既に完了したことを表しています。神様からの預言は必ず成就する、神様の約束は確実であることを示します。そしてこの預言は、約700年後にイエス様のお誕生によって成就します。
 イザヤは、託された預言の本当の意味を知ることはなかったでしょう。預言者の多くは、自らの預言の成就を見ないでこの世の働きを終えています。
 しかし、彼らは、神様から託されたお言葉は必ず成就すると信じました。イザヤも、「与えられた」神様のお言葉は必ず成就する、この一点に賭けて、預言者としての働きを成し遂げていったのではないでしょうか。
 私たちは信仰者であっても待つことが苦手です。今の時代は、待ち時間が少ないほど、結果がすぐに分かるほど、良いことと思われています。しかし預言の成就の時は神様にしかわかりません。それでも必ず成就する。だから信仰において、神様のお言葉を信じて待ち続ける時は、祝福の時なのです。私たちは今日、アドベントのメッセージとしてイザヤの預言を聞いています。この時代にも闇があります。そこに生きる私たちにも、イエス様は与えられました。
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