賛美が響く夜

使徒言行録16章16~25節

澤田武師

主題聖句 『真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。』   16章25節
 女性の奴隷は、リディアとは正反対な境遇の中で生活をしています。彼女は奴隷として自分で決める自由はありません。占いの霊に取りつかれていることを利用され、さらに搾取される者でした。当時のローマ社会では、奴隷は生産のための労働や、市民の日常生活を支えるために必要な物、人間とは考えられてはいませんでした。彼女はローマという時代に、幾重にも閉じ込められた生活を余技なくされていた人物の一人です。
 この女性からの悪霊追放は予期せぬ方向へと進んで行きます。この女性奴隷の主人は、パウロたちによって占いの悪霊が追い出されたことを知ると、パウロたちが町を混乱させ、風紀を乱すことを宣伝していると、訴え出ます。ここにも閉ざされた人がいます。彼は「自分の欲」に閉じ込められています。また、群衆も高官も、彼に翻弄され、本来の冷静さを欠いています。背景には反ユダヤ人の風潮もありますが、ローマの支配の前に、彼らも閉じられた世界でしか生きて行くことが出来ない人々です。パウロはフィリピの信徒への手紙の中で牢に捕らえられていることが「キリストのためである」との事実に喜びを得ています。体は苦難に留まりますが、心は常にイエス様と共に歩んでいる。パウロには閉ざされた中にも喜びを見つけました。
 パウロたちが閉じ込められた地下牢から、賛美の歌声が祈りの声が聞こえます。これは礼拝です。世界から隔離された、希望も救いも無いと思われる今、彼らは礼拝を守っています。礼拝はこの世の暗闇を開きます。礼拝はこの世の困難を開きます。鞭打たれても、地下牢に閉じ込められても、彼らの信仰を閉じ込めることは出来ません。そこが聖所となりました。彼らの歌声、祈りの声に囚人たちは、聞き入っていました。これは共に礼拝に集う者となったということです。
 聖歌498「うたいつつあゆまん」の2番では「恐れはかわりて、祈りとなり、嘆きはかわりて、歌となりぬ」と歌います。ここに神を礼拝する喜びがあります。礼拝はすべてのものを、神の御心へと開いてくださいます。礼拝はすべての者を、神の僕へと導いてくださいます。歌いつつ歩みましょう。

主が心を開く

使徒言行録16章11~15節

澤田直子師

 フィリピの伝道はたいへん順調に進み、「パウロが最も愛し、パウロを最も愛した教会」などと言われました。当時のマケドニア州にはユダヤ人の会堂がありませんでしたので、ユダヤ人は、川のほとりに「祈りの場」を設けて集まっていました。パウロがそこで裕福な女性リディアに出会います。ここで『主が彼女の心を開かれたので』とあります。これは非常に大切なことです。心を開くのは主であって、他の誰でもない。わたしたちは主のご計画を信頼してチャレンジするほかありません。
 リディアは『パウロの話を注意深く聞いた。』注意深く、というのは、他の人の話として聞くのではなく、他でもないわたしに、わたしをよく知る人が、いま話しかけてくださっている、そういう思いで聞くことです。主が心を開く、ということは、最後には主の愛に辿り着く、そのスタートなのです。リディアは、その場で洗礼を受け、強引にパウロたちを招待したとあります。献げたい、もてなしたい、という気持ちが強かったのでしょう。この行為を、ある神学者は「強引な謙遜」と言っています。この強引さは、リディアの燃えるような喜びと共に「これからわたしは、イエス・キリストの福音を宣べ伝える手助けをします、教会のために献げ、働きます」という決意表明だったのではないか。その証人として、パウロたちを招いたようにも思えます。フィリピの教会はこの後リディアとその家族を中心に歩み始め、パウロを大いに助ける教会へと発展しました。すべては、主がリディアの心を開かせたことから始まったのです。
 アドラーという心理学者が、「人が何を持っているかは、大して重要ではない。持っているもので何をするかが重要なのだ」と言っています。リディア示された主の御心に応えて持てる物を献げ、主に大きく用いられました。主が心を開いてくださる時、わたしたちは過去の意味を知り、未来の使命を知ることができるのです。
 主に、わたしが大切に思うあの人の心を開いてください、と祈りましょう。その時を信じてわたしたちも持てるものを用いる準備ができるよう、上からの知恵と力をこいねがいましょう。

真理の霊が導く

ヨハネによる福音書16章4~15節

澤田直子師

 ペンテコステとはギリシャ語で50日目という意味です。小麦の収穫を祝って初穂を献げるユダヤの祭事でした。使徒言行録によれば、この日エルサレムで祈っていた主イエスの弟子たちに聖霊が降り、彼らが他の国々の言葉で福音を語り、それを聞いた人々がその日だけで3000人もイエス・キリストを信じて救われたところから「聖霊降臨日」と言われるようになり、教会の誕生日とされています。
 主イエスは聖霊を「弁護者」と呼びます。13節「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。真理とは何か。主が言われた「わたしは道であり、真理であり、命である」14章6節。イエス様そのものが真理なのです。聖霊はイエス様を悟らせます。それは、主の十字架も復活も、他の誰でもないこのわたしのためであったということです。わたしたちは持っている時にはそのありがたさがわからず、失って初めて気づくものです。弟子たちも、イエス様が天に帰られて初めて、イエス様の言われた言葉の数々を、行われた奇跡を思い出し話し合ったでしょう。それが今福音書となってわたしたちを救いに導いたのですから、7節「わたしが去っていくのはあなたがたのためになる」とはまさにその通りでした。
 私たちの「この世」とは小さなものです。せいぜい、自分の言葉、権威、影響力が及ぶ数十人くらいのところです。それを支配しているのはそんなに御大層なものではなく、ただの「自我」です。イエス様はそのような私たちの小ささをよくご存知でしたから、真理に導く霊を送ると約束され、私たちがイエス様に導かれるように助けてくださったのです。
 私たちはイエス様の御前に導かれたら、自分の中の愛と赦しの貧しさに膝を折らざるを得ません。そして、その自分を愛し赦してくださるイエス様を見上げるほかなくなるでしょう。ヘブライ4:15『この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遇われたのです。』弱さを持つ者だからこそ用いられます。

伝道の幻を見る

使徒言行録16章6~10節

澤田武師

主題聖句 「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信るすに至ったからである。」  〈10節b〉
 5月第2主日は、「母の日」です。「母の日」は平和運動を進めたアン・ジャービスの功績をたたえるために、娘のアンナ・ジャービスが「世界の母親の功績をたたえて、世の母親すべてを敬うための日」として提案したのが始まりです。
 「神の愛」アガペーは「見返りを求めない愛」「相手の価値に関わらず、奉げられる愛」です。この愛に最も近いのが「母が子に与える愛」と言われています。「母が子に与える愛」は、この世に「平安」を作りだす力の基礎にもなります。
 パウロほど、「神の愛」によって作り変えられた事に、感謝と喜びをもって生きた人物はいなかったでしょう。パウロの歩みは「神の平安を作りだす者」、同時に「神の言葉を聞き続けた者」でもあります。パウロはアジア州への宣教旅行を続けようと計画していました。しかし、「聖霊」「アジア州で御言葉を語ることを禁じた」、計画変更してまでも臨んだ地方にいくことも、「イエスの霊がそれを許さなかった。」と、パウロの行く手を、「主の霊」が遮ります。この期間、パウロがどの様な思いであったのかは推測するしかありません。ただ、パウロは伝道者としての働きを神に閉ざされ、失意の内にあったのではないかと思います。宣教旅行が主イエスの本意、神の御心ではなかったのか。自分自身の存在の意味さえも問うほどの事態と思ったかもしれません。今、すべてが閉ざされている。まるで暗闇の中を手探りで歩いているような、この先の歩みを神は示してくださらない、伝道者としてもっとも辛いと思われる時であったでしょう。10節「マケドニアへの伝道の思い」から、パウロは全てが神の計画の成就の手段であったことを確信しました。伝道に行き詰まりを与えると思っていた、聖霊やイエスの霊の働きは、実は、さらなる伝道の業のために、パウロを一番ふさわしいところへと導く業として示されていました。従い続けることは御言葉を「聞き続ける」ことです。聖霊が、イエスの霊が語りかけた、示された道を歩み通した。御言葉を「聞き続けた者」の勝利の姿です。「神は本当に善なる方なのか。本当に顧みてくださっているのだろうか」誘惑の声が聞こえます。ヤコブの手紙1章16~17節、神は「最善の言葉」しか語られません。御言葉に聞き続けることが、真の神の計画を知ることです。御言葉に影を付けているのは、わたしたちかもしれません。

テモテとの出合い

使徒言行録16章1~5節

澤田武師
 主題聖句 「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。」 〈3節〉
 第二回目の宣教旅行は、パウロの宣教活動に生涯関わった弟子、テモテとの出会いでもありました。テモテの信仰は、パウロの第一回目の宣教旅行において、祖母、母親が救われ、家族伝道によってイエス様へと導かれたと思われます。
 パウロの「伝道」に対する心構えを見て行きたいと思います。パウロは今回の宣教旅行を行う動機として「前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているのかを見て来ようではないか。」と、困難な地で信仰に生きている者の様子を知りたいとの思いが、新しい宣教旅行へと進ませる原動力となりました。信仰を守り続けている者を訪ね、励ましたいとの「求め」がなければ、再び訪ねることはなかったかもしれません。困難を乗り越えてまでも「求める」、ここにパウロの宣教の原動力が見えます。
 そこに、テモテはいました。もし、パウロが迫害を避け、より宣教のしやすい土地を選んだなら、テモテはこの地方では用いられましたが、パウロと共に宣教に励む者とはならなかったでしょう。迫害の地に備えられた器として、パウロとテモテは出会います。この出会いこそが「神の備え」と言えます。
 多くの教会では結構、何々が足りないことが話題になります。「不足」は「不満」に変わります。しかし「不満」は「不足」しません。わたしたちは何を与えられているのかを、もう一度確認することです。テモテを迫害の地で見いだします。
 3節「テモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。」という記述は重要です。パウロは決して矛盾した事を言っているのはありません。テモテはユダヤ人とギリシア人の両方の血を受け継ぐ者で、テモテへの割礼はあえて、ユダヤ人であることを証詞するための手段です。パウロはユダヤ人への宣教のためなら、不利な条件であっても「用いる」」ことを躊躇しませんでした。
 ホ群結成70周年を思う時、教会弾圧の中でも、迫害は「信仰の求め」を消すことは出来ませんでした。神は復興の時のために「備えて」くださり、当時の兄弟姉妹は全てのことを「用いて」教会復興を果たすことが適いました。神は出合を与えます。そしてそれは、今わたしたちにも与えられているものです。