主が心を開く

使徒言行録16章11~15節

澤田直子師

 フィリピの伝道はたいへん順調に進み、「パウロが最も愛し、パウロを最も愛した教会」などと言われました。当時のマケドニア州にはユダヤ人の会堂がありませんでしたので、ユダヤ人は、川のほとりに「祈りの場」を設けて集まっていました。パウロがそこで裕福な女性リディアに出会います。ここで『主が彼女の心を開かれたので』とあります。これは非常に大切なことです。心を開くのは主であって、他の誰でもない。わたしたちは主のご計画を信頼してチャレンジするほかありません。
 リディアは『パウロの話を注意深く聞いた。』注意深く、というのは、他の人の話として聞くのではなく、他でもないわたしに、わたしをよく知る人が、いま話しかけてくださっている、そういう思いで聞くことです。主が心を開く、ということは、最後には主の愛に辿り着く、そのスタートなのです。リディアは、その場で洗礼を受け、強引にパウロたちを招待したとあります。献げたい、もてなしたい、という気持ちが強かったのでしょう。この行為を、ある神学者は「強引な謙遜」と言っています。この強引さは、リディアの燃えるような喜びと共に「これからわたしは、イエス・キリストの福音を宣べ伝える手助けをします、教会のために献げ、働きます」という決意表明だったのではないか。その証人として、パウロたちを招いたようにも思えます。フィリピの教会はこの後リディアとその家族を中心に歩み始め、パウロを大いに助ける教会へと発展しました。すべては、主がリディアの心を開かせたことから始まったのです。
 アドラーという心理学者が、「人が何を持っているかは、大して重要ではない。持っているもので何をするかが重要なのだ」と言っています。リディア示された主の御心に応えて持てる物を献げ、主に大きく用いられました。主が心を開いてくださる時、わたしたちは過去の意味を知り、未来の使命を知ることができるのです。
 主に、わたしが大切に思うあの人の心を開いてください、と祈りましょう。その時を信じてわたしたちも持てるものを用いる準備ができるよう、上からの知恵と力をこいねがいましょう。