伝道の幻を見る

使徒言行録16章6~10節

澤田武師

主題聖句 「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信るすに至ったからである。」  〈10節b〉
 5月第2主日は、「母の日」です。「母の日」は平和運動を進めたアン・ジャービスの功績をたたえるために、娘のアンナ・ジャービスが「世界の母親の功績をたたえて、世の母親すべてを敬うための日」として提案したのが始まりです。
 「神の愛」アガペーは「見返りを求めない愛」「相手の価値に関わらず、奉げられる愛」です。この愛に最も近いのが「母が子に与える愛」と言われています。「母が子に与える愛」は、この世に「平安」を作りだす力の基礎にもなります。
 パウロほど、「神の愛」によって作り変えられた事に、感謝と喜びをもって生きた人物はいなかったでしょう。パウロの歩みは「神の平安を作りだす者」、同時に「神の言葉を聞き続けた者」でもあります。パウロはアジア州への宣教旅行を続けようと計画していました。しかし、「聖霊」「アジア州で御言葉を語ることを禁じた」、計画変更してまでも臨んだ地方にいくことも、「イエスの霊がそれを許さなかった。」と、パウロの行く手を、「主の霊」が遮ります。この期間、パウロがどの様な思いであったのかは推測するしかありません。ただ、パウロは伝道者としての働きを神に閉ざされ、失意の内にあったのではないかと思います。宣教旅行が主イエスの本意、神の御心ではなかったのか。自分自身の存在の意味さえも問うほどの事態と思ったかもしれません。今、すべてが閉ざされている。まるで暗闇の中を手探りで歩いているような、この先の歩みを神は示してくださらない、伝道者としてもっとも辛いと思われる時であったでしょう。10節「マケドニアへの伝道の思い」から、パウロは全てが神の計画の成就の手段であったことを確信しました。伝道に行き詰まりを与えると思っていた、聖霊やイエスの霊の働きは、実は、さらなる伝道の業のために、パウロを一番ふさわしいところへと導く業として示されていました。従い続けることは御言葉を「聞き続ける」ことです。聖霊が、イエスの霊が語りかけた、示された道を歩み通した。御言葉を「聞き続けた者」の勝利の姿です。「神は本当に善なる方なのか。本当に顧みてくださっているのだろうか」誘惑の声が聞こえます。ヤコブの手紙1章16~17節、神は「最善の言葉」しか語られません。御言葉に聞き続けることが、真の神の計画を知ることです。御言葉に影を付けているのは、わたしたちかもしれません。