十字架の言葉

ヨハネによる福音書19章28~37節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。ヨハネによる福音書19章30節
 十字架刑は見せしめのため、死への苦しみを出来るだけ長引かせる刑罰でした。それは何日にも及ぶことがあります。事実、十字架にかけられたイエス様は、呼吸をするたびに渇きを覚え、既に体力は失われています。今イエス様は命を終えようとされています。そして、息を引き取られる間際に「渇く」と言われました。渇きに苦しむそのお姿は、神様が人々の前に示された人間イエスの死への苦しみのお姿です。
 ローマの法律では、十字架刑に処された者は、その体が朽ちるまで十字架の上に放置されたままでした。ユダヤ人たちは、律法の定めによって、囚人の死を早めることをピラトに願い出ます。ピラトはそれを認めます。ユダヤ人誰もが、十字架刑は思い通りに進んでいると思っています。これが神様のご計画のうちにある事とは、誰にも分かりませんでした。
 もし、ユダヤ人がピラトに願わなければ、遺体が十字架から降ろされることはなく、イエス様が週の初めの日に復活されることはなかったのです。ユダヤ人の「願いの言葉」が、ピラトの「許可の言葉」が神様の偉大なご計画を進めることになりました。「成し遂げられた」と、イエス様は頭を垂れて息を引き取られました。イエス様は語ることも、奇跡を起こすとも、何もできない存在となりました。そのお姿は、誰が見ても全てが終わったように思われました。
 しかし、神様だけは、ここから新しいこと、誰も思いもしなかった復活へとイエス様を進ませられます。そのイエス様の脇腹から「血と水」が流れ出たとの目撃者がいます。それは、全ての人を救うための、贖いの契約の血であり、水は永遠の命を表します。それは事実であると、ヨハネは福音書に「証詞の言葉」として書き残しています。イエス様の十字架の死は、聖書の言葉の成就であることを証言しています。
 十字架の上のお言葉はイエス様の勝利宣言です。天地創造の時から計画されていた全ての人の救いは、神様のご計画通りに「成し遂げられた」のです
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十字架の上の主

ヨハネによる福音書19章16~27節

澤田直子師

主題聖句 「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。」 ヨハネによる福音書19章19節
 イエス様が十字架にかけられた時、右と左にも十字架が立ちました。ルカは、一人はイエス様をののしり、もう一人は罪を告白してイエス様の憐みにすがったことを記します。これは、マタイ25:32~33にある、イエス様の再臨の時に、全ての国の民が右と左により分けられるという予言を思わせます。イエス様はどこまでも、わたしたちが神の愛と赦しを理解できるように、あらゆる機会を利用して真理を伝えようとされます。
 イエス様が十字架に向かわれる場面のどこをとっても、イエス様の静かさ・平安さが際立っています。ご自分を辱め、暴力をふるう人々を、おそらくは憐みの心をもって見ておられます。
 この日を、律法学者や祭司たちは勝利の日として喜んだことでしょう。ピラトはそのユダヤ人への嫌悪感をあらわにして、イエス様の頭上に「ユダヤ人の王」という罪状書きを掲げます。2000年前には、この言葉はユダヤ人への嫌がらせでしたが、現代の信仰者であるわたしたちは、「神の選びの民の王」と受け取ることができます。また、それが当時の共通語であった三言語で書かれたという事は、全ての人に福音が告げ知らされるべきであることを表しています。
 イエス様は十字架の上から母マリアを見、弟子ヨセフに託します。イエス様はそのご生涯で多くの奇跡を行われましたが、一つとしてご自分の利益のために行われたものはありませんでした。そして、十字架の上でさえも、目に映る一人を救おうとされます。
 信仰者とは、この王をわたしの支配者だと心に定めて従う者を表す言葉です。信仰者の歩みとは、十字架の上でなお愛と赦しを行おうとするイエス様の道を、主と共に歩むことです。
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人の権限、神の権限

ヨハネによる福音書18章39節~19章15節

澤田直子師

主題聖句「イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」 ヨハネによる福音書19章11節より
 ピラトは葛藤します。大国ローマから派遣された総督として、ローマは政治も法律も成熟していることをユダヤ人に思い知らせたい。罪のない者を死刑にはしたくない。その一方でユダヤ人はイエス様を死なせることしか考えていません。イエス様をはさんで、ピラトとユダヤ人の勝負になっています。
 誰が見ても、イエス様の肉体の命はピラトの手中にあります。それなのにピラトは一体何を恐れたのでしょう。恐れのあまり、ピラトは自分の権限を見せようとします。「権限」とは、ある法律や国家の中で、ある人が行使できる権力の範囲を示す言葉です。人間は、自分の権限を見せつけ、声高に主張します。ピラトに権限があるように、イエス様にも神から与えられた権限があります。イエス様の権限にも限界があります。救いを受け入れない者を救うことはできません。
 神の権限は、愛し、赦す権限です。自己を主張せず人の言葉を聞きます。イエス様は、癒しを求めて来る人々に「どうなりたいか」とお聞きになり、癒された後には「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。
 イエス様はご自分の権限が誰から何のために与えられたかをよくよくご存じでした。そして、それを正しく使うために、その時を静かに待っておられます。
 ユダヤ人は、イエス様を憎んで死に追いやろうとしています。同じ時に、神様は、人間に対する深い愛のゆえに、イエス様を死に向かわせようとしておられます。ピラトは、イエス様に茨の冠をかぶせ、紫の衣を着せて「王」と呼び、侮辱しました。神様は、何百年も前に預言者を通してイエス様を「王の王」と指し示されました。ここにいる全てのものが、イエス様の真理を証明しているのです。神の御業の不思議を思います。
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わたしの声を聞く

ヨハネによる福音書18章28~38節

澤田 武師

主題聖句 『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆,わたしの声を聞く』 ヨハネによる福音書18章37節b
 ユダヤ人が異邦人と交わることを、律法は「汚れ」と教えます。イエス様を訴える人々は「汚れる」ことを嫌い、ユダヤ総督官邸の中には入りませんでした。しかし、彼らはイエス様の命を奪うために、既にユダに金を渡して罪を犯させていたのです。私たちは、無意識に「聖化」の恵みに自分の基準を持ち込む過ちを犯します。本質が見えなくなるのは彼らと一緒なのです。ピラトは裁判の必要性を認めず、あなたがたの律法で「裁け」と突き放します。
 「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」彼らは既にイエス様を十字架につけることを決めていました。それを、ユダヤ総督の権威を借りて実現しようとしています。この言葉には、普段は敵対するローマの権威さえも、自分たちの都合で利用しようとするユダヤ人の「したたか」な姿があります。彼らの不満が反乱となることを恐れ、ピラトは裁判を開きます。
 32節「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」と、ヨハネは追記しています。この文章は、同12:32「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエス様の十字架予告を指し示しています。ピラトが裁判を行うことは、神様のご計画と一致していました。
 「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」イエス様は全ての人の罪を贖い、救いを完成するために十字架にかかろうとしておられます。イエス様が自らを献げてくださるのは、神様のご計画「真理」を証しするためです。そのためにイエス様は神様から遣わされました。
 「真理とは何か」今のピラトには、イエス様のお言葉の意味を深く知ることは出来なかったでしょう。しかし、ピラトは「あの男には何の罪も見いだせない」とユダヤ人に告げます。ここにピラトが見た「真理」があります。異邦人であってもイエス様のお言葉を聞いた者の姿が、そして自分の声をもって「真理」を言い表した者の姿があります。
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あなたは何者なのか

ヨハネによる福音書18章19~27節

澤田 武師

主題聖句『わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。』ヨハネによる福音書18章21節
 エルサレムには過越しの祭りを祝うために、世界中からユダヤ人が巡礼として訪れています。普段以上に華やかな雰囲気が、町を満たしています。その中でイエス様は逮捕されました。祭司長やファリサイ派、また、ローマ兵を派遣したピラトが心配していたような、面倒なことは起こりませんでした。彼らは、すべて上手くいった、そう喜んだのかもしれません。
 ヨハネは同時刻に大祭司の屋敷の中で行われていたアンナスの尋問と、屋敷の中庭でイエス様を否認するペトロの姿を、続けて記しています。それはあまりにも対照的な場面です。アンナスの尋問に対して、イエス様は「その人々がわたしの話したことを知っている。」と応答されました。何からも隠れることなく、語り続けて来られたイエス様の毅然としたお姿があります。
 一方「あの人の弟子だ」との問いに「違う」と答え続けたペトロは、自分の言葉によって自分を見失い、その結果、自分自身を否定し続けることになりました。ペトロの否認は全ての福音書が記しています。
 一つの疑問が生じます。アンナスの、イエス様への尋問の内容は、誰が伝えたのでしょうか。この疑問に、説教者のジョン・C・ライルは、かつてイエス様を逮捕するために派遣された下役たちではなかったかと推測しています。下役たちはそこにいて、彼らがイエス様の十字架を見届けた後に、この出来事をヨハネに伝えたのでは。それをヨハネが書き記したのではないかと。そのおかげで私たちも、立ち続けられるイエス様のお姿を見ることができるのです。
 今、私たちは経験をしたことの無い、脅威に満ちた世界に直面しています。私たちもイエス様のお話を「聞いて来た者」です。困難な時こそ、私たちはイエス様を「知っている者」であり「証詞する者」として歩みましょう。それがこの時代に私たちが生かされた証となります。神様は私たちに、次の世代に信仰を伝えることを託されています。イエス様は「わたしの言葉を伝えなさい」「わたしを証しなさい」と言われます。それはどこの誰でもなく「あなただ」と指名されているのです。
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そんな人は知らない

ヨハネによる福音書18章12~18節

澤田直子師

主題聖句「『あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか』ペトロは『違う』と言った。」 ヨハネによる福音書18章17節より
 12節には、人間の頑なさが良く描かれています。兵士も祭司たちも、イエス様の「わたしである」という言葉に後ずさりして倒れました。またイエス様が仲間の耳を癒したのを見ました。そうしてなお、イエス様を捕らえて縛ったのです。何とも思わなかったのでしょうか。
 キリスト教の葬儀や結婚式に出席されて「キリスト教式はいいですね」と言われる方は多いのですが、「どうぞ礼拝に来てください」とお誘いすると来ないのです。良いと思う人とクリスチャンの数が合いません。外から見て良くても行くわけではない、テレビの旅番組のようなものです。兵士も祭司もファリサイ派も自分の足場は一ミリも動かしたくないのです。
 カイアファの「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」という思いあがった言葉は、しかし、神様のご計画と一致しています。神の御業はまことに不思議です。
 散って行った弟子たちの中で、一人ペトロだけがイエス様を追いかけます。この勇気は大したものです。それなのに門番の女中に問いかけられると、「違う」と答えてしまいます。ついさっき、イエス様が「わたしである」と進み出たお姿を、目の前に見たのに、自分の番が来た時には「違う」と言ってしまうのです。
 祈るべき時に眠ってしまうと、こうして誘惑に負けることになります。ペトロはそのまま中庭に残って、炭火で暖を取っていました。なぜ留まったのでしょう。「炭火」という言葉は、聖書中2か所にしか出てきません。復活のイエス様が、朝「炭火」をおこして待っていてくださり、ペトロに三度「わたしを愛しているか」と問うた場面です。イエス様は、炭火の暖かさや匂いを通して、ペトロにありありと罪を思い起こさせ、完全な赦しをお与えになったのです。神様の御業に無駄はありません。
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飲むべき杯

ヨハネによる福音書18章1~11節

澤田直子師

主題聖句「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」 ヨハネによる福音書18章11節より
 18章は、それまでのイエス様の告別説教や祈りとは違って、現実世界の事になります。ユダが、ローマの軍隊を引き連れて来ます。そこに、いつもはローマと敵対している祭司やファリサイ派も加わり、皆が武装し、松明を持って乗り込んで来ました。
 イエス様がそこに進み出ていくとは、誰も予想していなかったでしょう。イエス様がお答えになった「わたしである」は、ヨハネの福音書には何度も出てくる「エゴーエイミー」です。これは、モーセが燃える柴の中から神の声を聞いて、神の名を尋ねた時に答えられた言葉と同じです。この言葉を聞いて、ローマ兵も祭司たちも「後ずさりして、地に倒れた」とあります。このことは、イエス様がまことに神の独り子であり、神の栄光を表すために自ら進み出て十字架に付けられる、ということを、弟子たちにはっきりと教えるための奇跡でありました。
 ペトロは剣をふるって、マルコスの右の耳を切り落としました。少なくとも弟子たちは、ただ怯えて立ちすくんでいただけではない、愚かではあったかもしれませんが、イエス様を守りたいと思っていたのだと知ると、少し心が温かくなる思いがします。ルカの福音書には、イエス様がマルコスの耳に触れて癒された、と書かれています。誰の痛みであっても、それはイエス様の痛みとなるのです。イエス様ご自身の痛みは、ほとんどいつも、わたしたちの痛みにはならないにもかかわらず、イエス様は痛む者と共に痛み、その傷を癒してくださいます。
 十字架は「父がお与えになった」杯でした。「飲むべきではないか」は、別訳では「飲まずにいられようか」。イエス様は、そうせずにはいられない思いで十字架に向かわれました。神様の愛はそれほど深かったのです。その愛に贖われたわたしたちも、天の父を仰いで、飲むべき杯を求めましょう。
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一つになる祈り

ヨハネによる福音書17章20~26節

澤田 武師

主題聖句「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」 ヨハネによる福音書17章21節
 イエス様の祈りは続きます。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」この後使徒たちが語り続ける福音を聞く人々への祈りとして、それは時間、場所を超えた永遠の祈りとなって広がって行きます。その中には私たちも含まれています。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。…。」世は、イエス様を憎み、対立し、受け入れようとはしません。しかし、イエス様は弟子たちの言葉を通して、また、聖書を通して、この世の人々が救われていく姿を既にご覧になっているのです。父なる神様とイエス様が一つであるように、「すべての人を一つにしてください」と願われています。
 「わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、…。」願われているのは、救いの成就です。イエス様はこの世界が創造される前から、永遠におられた方です。その時から持っておられた栄光は、今、罪の贖いのための十字架として捧げられます。この世の暗闇に、救いの完成、神様の愛の光として与えられます。それは信じる者を最も大きな平安へ招いてくださる、イエス様の約束の祈りです。
 私たちの力では神様が望まれる「一つになる」ことはできません。そのため、絶えずイエス様が寄り添ってくださっています。私たちが「一つになる」ことを望んで、神様が働いてくださっていることを覚えたいと思います。イエス様は、繰り返し「一つにしてください」と祈られました。十字架の栄光を受けて一つになるようにと、残る弟子たちのために祈られます。
 イエス様の祈りには、失望の言葉はありません。すべて栄光の言葉です。イエス様は栄光をこの世に残されました。イエス様のお言葉は私たちに光を与えてくださいました。十字架の栄光を知る人々が一つになるためです。
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世に遣わされた者として

ヨハネによる福音書17章13~19節

澤田 武師

主題聖句「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」 ヨハネによる福音書17章18節
 イエス様の祈り。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。」差し迫った十字架を前にしても、イエス様には「わたしの喜び」があり、同じ喜びが「彼らの内に満ちあふれるように」と神様に祈られます。イエス様の祈りは、今だけに限られたものではありません。祈りは、これから後も、弟子たちへの励ましとなり続けます。
 イエス様は、弟子たちも「この世に属していない者、憎まれる者」であると言われます。使徒として遣わされた先々で、迫害に会うと断言されます。
 「イエス様の喜びに満たされる」とは、地上の権威や富を主とはしないということです。世界を創造された神様、そして私たちを罪から救うために遣わされたイエス様を、唯一の主と信じることです。
 弟子たちは何の力も権威も持ちません。世は、この弟子たちを亡き者にしようとします。しかし、イエス様は、永遠の命を知り、イエス様との交わりを信じ、聖霊に満たされて使徒と変えられた弟子たちを、この世にお遣わしになりました。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。」「ささげる」という言葉は「聖める」という意味もあります。イエス様は自らの命を十字架につけ、イエス様を信じ弟子たちが「聖く」なるようにと祈られました。
 イエス様の祈りを、私たちへの祈りと聞きましょう。私たちがこの世にある限り、イエス様との交流に終わりはありません。それが信仰の喜びです。しかし、御言葉を信じて生きてゆく時、確信をもって熱心に信じて行くほど、この世からは離れます。この世との隔たりを感じます。信仰によって、この世で苦難や困難を経験することもあります。
 「わたしも彼らを世に遣わしました。」私たちもまた、この世に、それぞれの生活の現場に、遣わされているのです。私たちが信仰者として生かされていること、礼拝をお捧げできることの背後にも、イエス様の祈りと神様の守りがあります。私たちはこの恵みを、片時も忘れてはならないのです。それは信仰生活のすべてをかけて知っていくことなのです。
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永遠の命とは

マタイによる福音書2章1~12節

澤田直子師

主題聖句「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 ヨハネによる福音書17章3節
 17章はイエス様の祈りです。ここまで弟子たちの方を向いて話しておられたイエス様は、「天を仰いで言われた」とあるように、天の父に向けて話し始めます。
 1~5節は、イエス様ご自身について、その使命とその成就について感謝を捧げている祈りです。ヨハネの福音書では、十字架の贖いの死を受難とは考えず、イエス様の地上の行いの中でも最も輝かしい栄光の業であるととらえます。
 実際には、まだイエス様は人間のお体で生きておられますが、もう間もなく弟子たちのもとから連れ去られます。そうなったら、この上なく愛し抜かれた弟子たちを守ることも教えることもできません。しかし、人と人との関係の完成形は、しっかりと結びつきながらも、別の道、それぞれの道を歩んで行ける、というところにあります。弟子たちも、イエス様のお言葉や行いに感心したり驚いたりする時は終わったのです。
 「永遠の命とは…」イエス様が言われた言葉ですから、間違いはありません。ここでの「知る」は知識ではなく体験的に知っていることを指します。わたしたちはそれなりに信仰的な体験を重ねています。しかしそれは、一人の人間の、限定的な体験です。時間にも能力にも限りのある人間が、神とイエス・キリストを体験的に知るなど、できるはずがありません。
 しかし、わたしたちの「わかる」「わからない」は、大して重要ではないのです。肝心なのは、神様が、イエス様が、わたしという人間を隅から隅までご存じだということ、そしてその上で「わたしの目にあなたは高価で貴い」といってくださり、十字架で命まで捨てて救ってくださったということです。それを自分に起きた恵みとして知ることが「永遠の命」です。
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