平和の道に続く坂

ルカによる福音書19章37~44節

 人間の罪の為に主イエスが十字架に架けられる最期の1週間は、エルサレム入城から始まります。罪なき神の御子が犯罪人として鞭打たれ、十字架に架けられ、私達の身代わりとなって地獄へと降る道を案じるように、オリーブ山を下って行く様子が記されています(37節)。
 最底辺迄降ってくださった先には、神との和解・平和の道が備えられています。平和とは戦争や争い事がないだけではなく、罪から救われて人が神と共に歩む平和です。先ず求めなくてはならないのは神との平和です。神の深い御愛によるイエス・キリストの犠牲によって、全ての人に既に備えられています。
 「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて言われた。もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・」(41~42節)泣くとは、なりふり構わず泣き叫ぶ「号泣」を意味しています。神の御愛を拒み続けたイスラエルの民の頑なさによって、滅ぼされる民の為の深い悲しみと嘆きの涙です。主イエス御自身がこれから恐ろしい十字架が待っているにも拘わらず、愚かな人間の為に号泣されました。それ程迄に私達を愛しておられます。「せめて今、この日でも、悔い改めて主イエスを信じれば、滅亡の運命を避ける事ができる。しかし、あなた方の目にはそれが隠されている。」という悲しみです。神の御思いは全人類の救いです。いつの時代も神は預言者を遣わして、神の御怒りを避ける道を教えらました。無警告に滅ぼされません。振り返るならノアの洪水、ソドム・ゴモラ、バビロン捕囚の時も再三警告をしているにも関わらず、イスラエルの民は神を拒み滅ぼされたのです。
 今、日本中が悲痛な声をあげていますが、一番悲しんでおられ号泣しておられるのは主イエスです。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・」と、同じ事を仰せられるでしょう。神を知っている者として今、教会にしかできない事、キリスト者にしかできない事があります。今一度、先ず私達が悔い改める事です。悔い改めとは自分自身から目を離し、神が今日修復し、神が建て上げられる事に目を向け、子供が親に養われて生きているように、神の富に養われて生きていく事です。神のおられる所に平和があります。「天に平和、いと高きところには栄光」(38節)と弟子達が叫んだように、今こそ私達は神にある平和を叫んでいく時です。闘いの日にも必ず平和はあります。

大いなる約束

コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節

緒 旧新約聖書は様々な神様の約束にみちています。
  その中で最も大きな約束は神様ご自身が私達の内にお宿りになつて下さるということです。
本論
A)その約束が与える恵み
 1)約束のみ言葉
  ① 出エジプト記29:45~46
  ② Ⅰコリント6:19~20
  ③ 黙示録3:20
 2)キリストイエス様が内にお宿りになるとは、聖霊に満たされることです(使徒2:1~4)
   それはまた愛、喜び、平和(ガラテヤ5:22~23)の品性の実を頂き、聖霊の導きの生涯
   (同5:16~18)を感謝と希望に満ちて歩む事ができるのです。
B)この約束の恵みに与る第1の条件
  それは「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清めること」Ⅱコリント7:1b
 1)パウロは人類の罪とユダヤ人の罪について語つています。
  ① 宗教上の罪 ― あらゆる偶像礼拝 ― ロマ1:18~23
  ② 性的な罪 ― ロマ1:24~27
  ③ 道徳上の罪 ― ロマ1:24~32
  ④ ユダヤ人の罪それは人を裁く高慢と律法を知りながらこれを犯している罪 ― ロマ2:1~29
    ユダヤ人の罪はクリスチャンの罪でもある。これが人間の霊肉を汚している。この罪から清められよ。
 2)キリストの十字架の贖いはこの罪の赦しと清めのためである。
   主イエス様はご愛をもつて私たちのすべての罪を負い、贖いのみ業なし遂げてくださったのです。
   今罪を悔い改めイエス様を救いと信じるなら貴方は罪赦され清められます。Ⅰヨハネ1:9
C)恵みに与る第2の条件
  それは「神を畏れて、完全に聖なる者となること」Ⅱコリント1:7c
 1)「聖」くなるとは神に献げられた者になることです。ロマ12:1
 2)十字架の血によつて贖われた私たちは既にキリストのものなのです。
   昔奴隷は自分を買つてくれたご主人のものです。ご主人の命のまま何をどうされようと服従したのです。
   私たちキリスト者は主のみ旨のままに従う者とされたのです。
 3)私の身も心も、財も時間も、どんな賜物も主のためにお用い下さいとお献げするとき
   主はこれを喜び、私の内にお宿りくださるのです。
結 祈り深く、謙虚にこの信仰を主にお献げすれば主は直ちに聖霊を満たし、ご自身器として私達を用い、
  祝福してくださるのです。ハレルヤ。

キリストの日に備えて 

フィリピの信徒への手紙1章1~11節

 人は自分の死の為の準備をしますが、聖書ではもっと重要な日を迎える準備をするように、と語っています。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)キリストが再び私達の元においでになる日を指しています。兆候として戦争や地震、飢餓等が起こると、福音書やヨハネの黙示録等に記されています。日本を襲った大地震を初め、戦争や混乱した世界状況等を見ますと、いよいよ再び主イエスがおいでになるように思います。本日の箇所では「キリスト・イエスの日までに」(6節)「キリストの日に備えて」(10節)と記されています。
 その備えは「善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(6節)罪から救われたのはイエス・キリストの十字架による神の一方的な恵みのみです。同じように「義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(11節)と、主イエスがお出でになる迄に神が責任を持って成し遂げてくださいます。神の教えと恵みに留まり続け、信頼して祈り続けていくのみです。「知る力と見抜く力とを身につけて・・・愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように・・キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり・・」(9~10節)愛とは感情的なものではなく、最終的には何が本当に重要な事か、冷静な鋭い判断力が必要です。清い者とは「太陽のもとにおいて調べられた者」という意味で、光にさらされても大丈夫な事をいいます。自分にある愛を調べられたら恥ずかしいばかりですが嘆くのではなく、主イエスは十字架にお架かりになる迄、いつものようにいつもの場所で祈られたように(ルカ22:39)私達はキリストの日迄、愛が深くなるように祈り続ける事が最大の備えと言えます。やがてキリストの日には、神が仕上げてくださいますから期待しましょう。

相手に近づける人間

エフェソの信徒への手紙4章25~32節

 「神の聖霊を悲しませてはいけません」(30節)神は互いに愛し合いなさい、と繰り返し仰せられますが、人は自分の目の中の丸太が見えずに他人のおが屑が目につくもので、何らかの形で虚偽・怒り・盗み・悪い言葉(25 ~29節)等の罪を犯し続けています。そのような事を聖霊なる神は悲しまれます。聖霊なる神は、私をこれ程迄も愛し、私の為に働いてくださっている、という事を分からせてくださいますが、悲しませるなら本来の働きができずに沈黙されます。旧約時代、イスラエルの民が神に背き続け、神を求めない時がありましたが、長い間、神は沈黙されたと記されています。神なき時代です。人は神の愛を受けながら神の元でしか生きる事はできまません。神の元に立った時、見えるものは他人の姿ではなく、自分の罪ですから自ずと他者を否定するような事はできなくなり愛し合う者となります。信仰がそのようにさせます。
 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(31~32節)憐れみとは同情や共感するのではなく、原語では「共に苦しみ」とありますように、我が身を削って犠牲を払う事です。更に「赦し合いなさい」と、互いに分かり得ない、赦し合えないと嘆く者に対して神からの命令です。自分が本来もっている愛で努力し、必死に赦そうとしても到底無理な事です。神の愛を受け取りながら神の愛に応えようと信仰に生きた時、赦す者と変えて頂けます。私達を追いかけてくださるキリストの十字架の愛があるから可能なのです。「・・・キリストの愛の広さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(3:18~19)清めの実践は、キリストの愛を知り罪赦されられた者が教会の中で、兄弟姉妹の互いの違いを受け入れ、赦し愛し合い、相手に近づき励まし合いながら一つの神の民となる事です。

キリストを見つめ、キリストに充たされる教会

エフェソの信徒への手紙4章1~16節

 エフェソの教会の人々に「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(3節)とパウロは語っています。一致を保つように、という事は教会は既に一致は与えられているという事です。「体は一つ、霊は一つ・・・一つの希望・・信仰は一つ」(4~6節)と神の支配の雄大なる一致、キリストにある一致の豊かさです。教会は私達が造り出したのではなく、神によって建てられたもので私達は後から加えられ、キリストを見上げるように、キリストを仰ぐように私達は招かれています。教会が貫いているのは個人の思いや個性でもなく、主イエスの御心です。御心をなして行く為に教会に存在する私達です。
 「こうして聖なる者たちは、奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついにはわたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(12節)教会内に大牧者イエス・キリストを現す為に、神は特別な人の才能を用いるのではなく、漁師の網を繕うように、全ての人を繕い整えて造り上げて、それぞれに相応しい賜物を与えて用いてくださり(7節)、ちっぽけな私達がキリストの豊かさに与り、キリストの身の丈に成長させてくださいます。
 「むしろ愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(15節)聖書には「成長」という言葉が繰り返されていますが私達への神の願いで、神から与えられたこの命が絶えず育っていく事を期待しておられます。既に神に愛されて神の物とされた私達ですから、只一筋にキリストを見つめて従うなら、私が何をしたいのかではなく、神が私に何を求めておられるのか、聖書からお聞きし共に祈り合って一致を保っていきます。そうしてキリストの愛に根ざした建設的な言葉によって、それぞれが成長しキリストに充たされた一つの体なる教会を建て上げていきます。それがキリストの力です。

神のミステリー 

エフェソの信徒への手紙3章1~13節

 「秘められた計画が啓示によって私に知らされました。」(3節)
 異邦人は神から選らばれていない故に汚れた民だと、ユダヤ人より差別されていましたが、神のご計画はユダヤ人のみならずイエス・キリストにおいて異邦人も同じように神の民とされると、パウロは神の秘められた奥義を示されました。異邦人に福音を伝える事が主から委ねられた使命であると、パウロは自らを「キリスト・イエスの囚人」(1節)と称して異邦人伝道に命を献げ尽くしました。
 「・・・異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(6節)同じ集団というレベルを超えて、一つの同じ体に属し共に異邦人も神の民とされます。主イエスは自らを医者に譬えて、罪人はそのままでは滅びに至るので、罪という病を治す為にこの世に来られたと仰せられました(マタイ9:9~13節)。キリストの元にあっては何の差別もありません。恵みを受け取るのに同じ体であり、共に永遠の命を受け継ぐ者です。私達もそのようにして神の憐れみによって招かれ、罪から救われた者です。
 パウロはローマ帝国によって捕らわれ、囚人の身でありながらも「キリストの十字架のほかに、誇るものが決してってはならない」と、生涯に亘って全存在をもって福音伝道に命をかけました。私達が誇るものは何でしょうか。どのような功績を残したか、どのような仕事をしてきたか、どのような名誉を頂いたか、ではありません。何者でもない者が、神の憐れみによって罪から救われ、神の民にされた事、それだけが誇りです。あらゆる差別や偏見の心を打ち砕いて頂き謙虚にされ、共に一つの体としての教会を建て上げて行く為に、神の御栄光を現す為に教会に遣わされています。それが神の秘められた奥義です。教会に遣われされている、という事はその一事だけです。

安息日の主

ルカによる福音書6章1~11節

 ユダヤ教では安息日である土曜日に礼拝するが、キリスト教では主イエスが復活された日曜日を安息日として礼拝を守っている。
●安息日は神が私たちに与えて下さった休息の日である。
「そして、彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」(ルカ6:5)
安息日は人類に対する神の愛の現れであり、出20:10b、出23:12b、出31:13bなどにその精神が記されている。ファリサイ派はモーセの律法に様々な規定(口伝律法)を加えてイスラエルの民を束縛し滅びへ向かわせたが、主イエスは父なる神から頂いた愛の精神に基づく律法解釈(マタ22:37-40)を説き人々を救いへと導かれた。安息日は神が私たちに与えて下さった休息の日である。休息を与え給うた神に感謝しよう。
●安息日には善を行い、生命を救うべし。
「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』」(ルカ6:9)。
主イエスほど神の目に善なることを追い求めたお方はいない。どんな時にも躊躇なく私たちに善を行い、私たちの生命を救われた。人々に善をせず人々の生命を救わないことは、主イエスの目には即ち悪を行い滅ぼすように映る。私たちにもキリスト者だからこそ出来る善がある。躊躇することなく世の人々を教会にお招きし、生命と魂の救いへ導こう。
●『人の子は安息日の主である。』
私たちが熱き信仰を以てこの御言葉を振り返る時、「人の子」とは私たちの救い主、主イエス・キリストであることを確信する。私たちの罪を全て担い、御自ら十字架に架かって私たちを贖われたお方である。イエス・キリストこそ私たちの主である。そのお方が復活された日はなんと素晴らしい日か。私たちは日曜日を安息日として礼拝を捧げ、主の復活を祝うのである。
ハレルヤ!『人の子は安息日の主である。』

キリストにある平和

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 キリストの血による和解について記されていますが、初めにイスラエルの民と異邦人との和解が記されています。イスラエルの民は神から選ばれた民という間違った選民意識・プライドから異邦人を蔑視し、敵意という壁を作っていましたが(11~13節)、十字架によって民族の隔てが取り除かれ、外国人も寄留人の差別もなく聖なる神の家族となって教会を建て上げていく姿が描かれています(14~22節)。
 イスラエルの民のみならず人は「汝と我、神と私」の関係を結ばず、人との関係の中で自分の立場を守ろうと、人と比較しながら壁を作って優位な立ち場を得ようとして、敵を作りながら歩みます。主イエスは、神の律法を必死に守って自らを誇るファリサイ人と、罪を悔い改める徴税人の話をされました。ファリサイ人はプライドを守る為に常に背伸びをして傲慢になり、人との比較の内に壁を作り蔑視していました。徴税人は「神さま、こんな罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と、罪の赦しを願う対照的な姿が描かれています。この二通りの姿が教える事は神との関係で罪の赦しを乞う生き方か、人との関係で自分を正当化するかの違いです。アダムが罪を犯した時、罪を認めず「女が」と、言い訳をし、女は「蛇が」と言い訳しましたように、神と直結できない私達人間です。このように神に対して罪を犯し、神の栄光を受けるに相応しくない者となった人間に対して、神自らが敵意を打ち壊し交わりの回復の和解の道を開いてく為に十字架に架かってくださいました(14~18節)。主イエスが望んでおられる事は、互いの敵意と罪を悔い改めて、和解する事です。主イエスは最後迄ご自分の身を守ろうとせず、不義を甘んじ、奪われるままにその身を差し出して息を引き取られました。私達の傲慢と敵意を打ち砕く為です。徴税人の如く「罪びとの私を憐れんでください」と、傲慢と敵意をキリストの恵みによって打ち砕かれるよう祈り、キリストにある平和を作り出し神の家族とさせて頂きましょう。

死から命に至る道

エフェソの信徒への手紙2章1~10節

 罪からの救いについて記されています。神から救われる以前は神との正しい関係を結ぶ事が出来ずに神に背を向け、自分の肉の欲望に支配され罪を犯し、神の怒りを受けるべき身でした(1~3節)。このような状態は肉体は生きていても心は死んでいる状態です。「しかし」と4節から「憐れみ、恵み、慈しみ」「キリストと共に、キリストによって」という言葉が続きます。人が死と滅びの暗黒の世界の中にいるのは神の御心ではありませんから、憐れみ豊かな神の一方的な恵みにより罪から救い出され、復活の恵みに与りました。それだけではなく、神がおられる天の同じ席にまで着かせて頂けるように、既に予約までされています(4~8節)。救いの業は完結していますから、私達がしなくてはならない事は何一つありません。感謝する事だけです。救いは人間が勝ち取ったのではなく、人が誇る事のないように只、神の一方的な愛、恵みです(9節)。
 「・・わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(10節)「業」は複数形で記されており様々な善い業です。罪ある肉のままでは善い業を行う事は不可能ですが、神の愛と憐れみを受けて罪赦された者は、神によって様々な善い業を行う事ができるように造られています。救われた者として、神に感謝し神の愛に応える生き方が善い業となっていきます。主イエスは「あなたがたは地の塩である・・・世の光である」と、権威を持って宣言しております。神の憐れみを受けて遣わされた地において、神の御栄光を廻りの人々に輝かせて証しする事に繋がっていきます。「こんな自分をも赦してくださった」と、罪から買い取られ、この命を頂いた事を感謝し続け、神の偉大さをこの身で証し続ける為にこの世に存在しています。神が期待されている善い業は、救われた者としての輝きを世に照らし続ける事です。

絶大な働きをなさる神の力

エフェソの信徒への手紙1章15~23節

 「・・・あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知る事ができるようにし、心の目を開いてくださるように・・神の招きによってどのような希望が与えられているか・・絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものであるか悟らせてくださるように」(17~19節)心の目が開かれて肉の目では見えない神の恵みの世界・神の御業の世界を、主イエスを通して体験させて頂き、絶大な働きをなさる神の力を知ってほしいと、パウロの切なる祈りが記されています。
 神を知るとは「厳密で正確なしかも体験的」な事を意味しています。イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、救いに与る体験を通して希望が与えられる事を知る事が神を知るという事です。
 かつてパウロはキリスト者を迫害する者でしたが、イエス・キリストによって180度変えられて偉大な伝道者となりました。迫害している最中彼はキリストに打ち倒され目が見えなくなりましたが、その後キリストの赦しを体験し「目からうろこのようなものが落ち」目が開かれ、目の前に神の御業が展開している希望の世界が見えるようになりました(使徒9:1~20)。この体験を通してエフェソの教会の人々にも、目が開かれて神の恵みと配慮の世界をその目で見てほしいと願っています。目が開かれた世界は一度知ったから全てが分かるものではなく、知れば知るほど、絶大な働きをなさる神の世界が深く展開していく世界です。天国に帰る時まで毎回「目からうろこ」の世界を見させて頂き、味わい深い希望の人生を歩ませて頂いている事に感謝を献げる者とさせて頂きます。尚、混沌とした中にいますが主イエスとの交わりを通して、絶大な働きをなさる神の力を益々悟らせて頂けます。「教会はすべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23節)聖霊の働きにより御言葉を悟り、主イエスを復活させた力と希望が与えられる場が教会です。週毎の礼拝において全ての恵みの招きに与っている私達です。