キリストの日に備えて 

フィリピの信徒への手紙1章1~11節

 人は自分の死の為の準備をしますが、聖書ではもっと重要な日を迎える準備をするように、と語っています。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)キリストが再び私達の元においでになる日を指しています。兆候として戦争や地震、飢餓等が起こると、福音書やヨハネの黙示録等に記されています。日本を襲った大地震を初め、戦争や混乱した世界状況等を見ますと、いよいよ再び主イエスがおいでになるように思います。本日の箇所では「キリスト・イエスの日までに」(6節)「キリストの日に備えて」(10節)と記されています。
 その備えは「善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(6節)罪から救われたのはイエス・キリストの十字架による神の一方的な恵みのみです。同じように「義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(11節)と、主イエスがお出でになる迄に神が責任を持って成し遂げてくださいます。神の教えと恵みに留まり続け、信頼して祈り続けていくのみです。「知る力と見抜く力とを身につけて・・・愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように・・キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり・・」(9~10節)愛とは感情的なものではなく、最終的には何が本当に重要な事か、冷静な鋭い判断力が必要です。清い者とは「太陽のもとにおいて調べられた者」という意味で、光にさらされても大丈夫な事をいいます。自分にある愛を調べられたら恥ずかしいばかりですが嘆くのではなく、主イエスは十字架にお架かりになる迄、いつものようにいつもの場所で祈られたように(ルカ22:39)私達はキリストの日迄、愛が深くなるように祈り続ける事が最大の備えと言えます。やがてキリストの日には、神が仕上げてくださいますから期待しましょう。