相手に近づける人間

エフェソの信徒への手紙4章25~32節

 「神の聖霊を悲しませてはいけません」(30節)神は互いに愛し合いなさい、と繰り返し仰せられますが、人は自分の目の中の丸太が見えずに他人のおが屑が目につくもので、何らかの形で虚偽・怒り・盗み・悪い言葉(25 ~29節)等の罪を犯し続けています。そのような事を聖霊なる神は悲しまれます。聖霊なる神は、私をこれ程迄も愛し、私の為に働いてくださっている、という事を分からせてくださいますが、悲しませるなら本来の働きができずに沈黙されます。旧約時代、イスラエルの民が神に背き続け、神を求めない時がありましたが、長い間、神は沈黙されたと記されています。神なき時代です。人は神の愛を受けながら神の元でしか生きる事はできまません。神の元に立った時、見えるものは他人の姿ではなく、自分の罪ですから自ずと他者を否定するような事はできなくなり愛し合う者となります。信仰がそのようにさせます。
 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(31~32節)憐れみとは同情や共感するのではなく、原語では「共に苦しみ」とありますように、我が身を削って犠牲を払う事です。更に「赦し合いなさい」と、互いに分かり得ない、赦し合えないと嘆く者に対して神からの命令です。自分が本来もっている愛で努力し、必死に赦そうとしても到底無理な事です。神の愛を受け取りながら神の愛に応えようと信仰に生きた時、赦す者と変えて頂けます。私達を追いかけてくださるキリストの十字架の愛があるから可能なのです。「・・・キリストの愛の広さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(3:18~19)清めの実践は、キリストの愛を知り罪赦されられた者が教会の中で、兄弟姉妹の互いの違いを受け入れ、赦し愛し合い、相手に近づき励まし合いながら一つの神の民となる事です。