「十字架に身を委ねる」 ルカによる福音書23章32~49節
イエス・キリストの十字架は信仰の中心ですが、本日の箇所には主イエスの十字架の他に二人の犯罪人が十字架に架けられた姿があります。この2本の十字架からも大いなるメッセージが語られています。
十字架上の主イエスの隣には十字架に架けられるしかない、救われようもない犯罪人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(42節)と、主イエスを信じ、主が神の子キリストである事を確信したキリスト者の姿が記されています。主イエスは私達が神を忘れようとも罪深い人間を覚えていてくださり悔い改めさせ赦しを与えるお方である、これが私達に対する保証であり確信です。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)と、主イエスの執り成しの祈りによって今迄神に顔を伏せていた犯罪人が神に立ち帰った瞬間でした。主イエスは死の間際まで神に従い通し、御自身を苦しめ罵る罪人達の為に愛を与え続けられたその真実なお姿に、犯罪人は主を信じる者に変えられました。この方が唯一赦してくださるお方、こんな自分が赦されるなら赦されたい、と願ったのです。キリストは罪人を滅ぼすのではなく悔い改めを起こさせ、御自身を犠牲にして最後迄その愛を与え続けて下さるお方です。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(43節)どんなに神から離れていようともキリストの愛の及ばない所はありません。この犯罪人は差し出された神の愛を感謝し、その身に受けながら残り僅かな地上での人生を十字架上に委ねました。既に十字架がこの上ないパラダイスに変わりました。ここには目に見えない神の赦しの世界・パラダイスを見た犯罪人と、主イエスを罵り裏切る罪に染まった世界しか見えない群衆の姿があります。神に覚えられている私達は罪の世界から神の赦しの世界に招かれている事を聖餐式毎に確信して感謝しながら歩んでいます。
カテゴリー: 2009年度
3月21日 礼拝説教概要
「保留するものなし」 創世記22章1~19節
イスラエル人の信仰の父祖となったアブラハムは、主なる神より「わたしが示す地に行きなさい。」(12:1)とのみ声に行く先の知らずに従っていきました。神はアブラハムに約束の通り大いなる祝福を与え、一層豊かな者となりました。諸国の人々も神の祝福を得ている者と認めているほどでした。妻サラによって大いなる約束の実現の息子イサクが誕生(21:1~2)するには、アブラハムが100歳となるまで実現されませんでした。息子イサクを与えられ、神様の約束の全てをいただいたアブラハムであります。どんなに大きな喜びであり、大きな期待をもって歩みはじめた事でしょう。主なる神の約束によって満たされている中に、神はアブラハムを試された(22:1)のです。神のアブラハムへの命令は、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを…焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22:2) イサクはアブラハムの未来を象徴するものでした。アブラハムはこれまでも神の約束の光の中を生きてきました。ところが今、神は彼の生涯をかけた約束さえもささげるようにと求められます。アブラハムは、手中に握っている最も貴重な二つを主に喜んで明け渡しました。息子と未来です。最も重要なものを明け渡す心の姿勢に立つまでは、真に御霊に満たされることはありません。心の中で無条件にキリストが第一となるまでは、御霊の満たしは実現しません。私たちが求めるべきことは、主イエス・キリストと共に歩むゆえに与えられる本当の自由・御霊の満たしです。私たちの信仰の歩みに支障を来す要素があるならば、神に与えられた祝福さえも神に差し出す決意が必要です。神が喜ばれるのは、すべてのもの、すなわち職業、財産、地位、そして家族などを自分で握りしめることなく、開いた手のひらに乗せ、神に差し出し続ける人です。心にしっかりと握り続けるべき唯一のものは、ただ神ご自身のみです。主は与え、主は取られることを、私たちが心から納得することを、神は願っておられます。キリストのみが私たちの保証です。
3月14日 礼拝説教概要
「わたしは主を愛する」 詩編116編1~19節
⑴ 詩編116はユダヤの伝統においては過ぎ越しの祭の際に、必ず食卓で歌われるものです。それ故にこの御言は彼らの信仰告白であると共に私達の信仰告白でもあります。イスラエルにとって重要な言葉は「シェマ」、「聞け」という言葉です。ローマ10:17に、「実に、信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とありますが、信仰はただ聞くだけではありません。語りかけてくださる主は、応答を求めて語りかけてくださるお方です。「シェマ」、「聞け」と語りかける主に対して詩人は、「わたしは主を愛する」(1)と応答しました。どうしてそう応えることができたかというと、「主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。」(1~2)お方であるからに他なりません。
⑵ 死線をさまようような状況の中、詩人は主に対する信仰の確信を告白します。死の綱がからみつき、陰府の脅威にさらされているどうしようもない危機的体験を彼はしたようです。そのような中、人が成しえることは唯一つ、「主の御名を呼ぶ」(4)ことです。彼は「わたしは信じる」(10)と宣言します。彼の立たされている状況は、主の存在をも疑いたくなるような危機的状況です。にも拘らず彼は、「わたしは信じる」と告白するのです。ある伝道者は、「信仰に生きるということは、信仰をもって不信仰を踏みつけることである。」と語りました。詩編の作者のように、「激しい苦しみに襲われている」、「不安がつのり、人は必ず欺く」(11)と思うときは正に不信仰が芽生えやすい状況です。しかしそのような状況であればこそ、「わたしは主を信じる」と宣言するべきです。信仰に生きるということは旗幟鮮明な生き様のことを言います。「わたしは出席者を愛する」、「わたしは主を信じる」という告白をもって自らの生き様を主と人の前に明らかにしましょう。そのようなはっきりとした信仰者として「主の御前を歩み続ける」(9)人を主は祝福してくださいます。
3月7日 礼拝説教概要
「最後の晩餐」 ルカによる福音書22章14~23節
最後の晩餐は3つの要素が含まれています。
1、弟子達が最後の晩餐を主イエスと共にする事(14~18)。
2、間近な主イエスの死を示しそれを象徴するパン(主の御身体)と葡萄酒(主の血)を主イエスが弟子達に授ける事(19.20節)。
旧約時代、罪の赦しの印として動物の血が流されましたが、新しい契約は神の子イエス・キリストが十字架の上で御自身の肉が裂かれ血を流されました(エレミヤ31:31~34)。それは全人類が罪から解放されて、神の真の約束である、神の国=天国に導かれるという、死の滅びから救いの新たな命に通じる道への招きです。
3、主イエスが弟子のユダの裏切り行為について語る事。
いよいよ十字架に架かられる時、その愛は頂点に達しましたが弟子のユダは不信と裏切りに到達しました(21~22節)。「ユダの心にサタンが入った」(22:3)と、彼は最後までサタン=神に敵対する悪に捕えられて生涯を終えました。自分の考えに固執し誤解と不満を持ち主イエスの心を学ぼうとしない時に、サタンに支配され罪を犯します。主イエスは全てをご存知でこの晩餐の時にユダに最後の機会を与え、信仰に立ち帰る事によってサタンに打ち勝つ可能性のある事を教えたかったのです。
主イエスを裏切る(21,22節)は渡すと同じ語源で、「使徒たちに与えて言われた『取って食べなさい。これは私の体です』」(19節)の与えてと同じ語源です。主イエスは御自身の体を物のように裂いてお与えになりました。全ての罪人が救われる為に最後まで私達を愛し抜かれて、御自身の尊い御身体を血を流して切り刻んで、キリストの命を惜しむ事なく与えてくださいました。その事により私達の不真実を主イエスの真実が覆い尽くされて救われている私達です。その尊い犠牲に対してどれ程の感謝をお献げしているでしょうか。救われた初めの愛に立ち帰り、頂いた命を喜びと感謝をもって毎回の聖餐式に臨みたいものです。
2月28日 礼拝説教概要
「あなたは礎の尊い石」 Ⅰペトロの手紙2章1~10節
イエス・キリストは私達が罪から救われて新しく生きる為に人々に軽蔑されても見捨てられても自ら十字架に架かってくださり「人に捨てられた石・隅のかしら石」(4節)となって教会の礎となってくださいました。信仰者は一人でキリストを求めて歩むものではなく、キリストの体なる教会に結びつく事によって、キリストの命に生かされてそれぞれが組み合わされて成長させて頂きながら歩むものです。
「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(5節)と記されている通り、主イエスは罪深い人間という岩から私達を切り出して、神の民としてくださり、神がお住まいになる教会の中に既に備えられている場所に私達をぴったりとはめる為に組み合わせてくだささいます。その為に牧師も信徒も自分の中の尖っている削るべき所は神が削ってくださり整えられていきます。削られる痛みを伴いますが、神の目的の為に光輝く価値ある道具とさせて頂く為であり、神がお住まいになる神の宮としての教会が建て上げられていきます。ダイヤモンドの原石は一見ゴツゴツした価値のないような石ですが削り磨かれて光り輝く価値ある美しい石へと造り変えられます。同じように人はひたすらキリストの体に結びつく事によって尊い生ける価値ある輝く石に変えられて行きます。その過程を愛する兄弟姉妹の姿を通して見せて頂く事は私達の大いなる喜びです。
永遠の神を信じ救われた私達は祭司役つまり、自分自身を神にお捧げして神に仕える為に神の民とさせて頂きました(9~10節)。旧約時代、祭司は耳・手・足に血を塗る事によって清められてその任に当たりましたが、今、私達は金や銀よりも尊いキリストの十字架の血潮によって私達を清めて神の為に仕える者としてくださいました。本来私達が神に捨てられる石ですが、救い出され神の働きの為に用いられています。今日も神は一つも欠けてはならない尊い石として、私達を求めております。
2月21日 礼拝説教概要
「心のオアシス」 詩編23編1~6節
詩編23編は信頼の歌であり、そのメッセージは一言でいえば「神を信頼しなさい」と言う事です。神は御自身を恵み深き羊飼いとして啓示しておられます。羊ほど無力で愚かな動物はいない。近視眼で目先の事しか見えずすぐに道に迷う。自分で水辺や牧草を見つけることもできない。身を守る武器もなくすぐに野獣に食べられてしまう。そんな無力で愚かな羊であっても牧者なる神に徹底的に依り頼んでいくならば安全で祝福された生活を送ることができます。自分は賢く能力があるので神の導きや助けなど必要ないと高ぶることが危険です。良い羊飼いである主イエスは愛する羊を守り祝福するためにその命を投げ出して下さいました。
私たちと神との正しい関係がその罪や汚れによって損なわれると神のいのちと祝福の流れが止められてしまいます。しかし、神は私たちの罪と汚れをその十字架の贖いによって赦しきよめ、もう一度神との関係を新しくして下さり私たちの魂を生き返らせて下さいます。私たちは毎聖日ごとに主の十字架を仰いでその汚れをきよめられ、その復活のいのちを頂いて新しく一週間をスタートすることができるのです。
「人生において最も幸いなことは主が共にいることである」とはウエスレーの辞世の言葉でした。私たちの人生は災いの日もあれば幸いの日もある。次年度もどんな困難や試練、病やトラブルに襲われるかわからない。しかし確かなことはどのような困難な場所を通過しようとも主が常に一緒にいて私たちを助け支えて下さるということであります。私たちを愛し支えて下さる人たちもやがては去っていかねばならない。しかし、主は最後まで一緒に人生の旅路を歩んで下さいます。わたしは決してあなたを見捨てず見放すこともしないと主は言われる。これほどうれしいことはない。人生の終わりに私たちが死の河を渡る時主は私たちの手を握って一緒に渡って下さいます。ですから天国への希望に満ち、平安と喜びに溢れて私たちは死の河を乗り越えていくことができるのです。
2月14日 礼拝説教概要
「人を癒す御言葉」 詩編107編19~43節
1.主は御言葉をもって癒されるお方です。私達は霊的存在として創造されましたから、霊的な飢え渇きを抱くのは当然のことです。もし霊的な飢え渇きを感じていないとするならば、肉体は生きていても霊的には生ける屍のような状態になっているのかもしれません。「無知であり」(17)とありますが、新改訳聖書では「愚か者」となっております。どうやらこの人物は罪に支配され、その犯した罪故に死の門近くまで来て苦しんでいるようです。しかしそのような彼にとって救いに至る大きな転換点がありました。それは苦難の中から主に救いを求めることでした。そのような彼に対して主がなされたのは、御言葉をもって癒すということでした。故にこの病は単なる肉体上の病ではなく、霊的な病に陥っていることが分かります。そのために、主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。」(20)、と作者は賛美を献げます。
2.「彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け」(26)とありますので、彼らは苦難を通して人間の本質的な部分、深淵の部分で取り扱いを受けたようです。その結果、「主の御業を、驚くべき御業を見た」(24)と告白します。何故、主は嵐を起こされたのか、それは苦難によって魂が溶けることを願い、このような御業をなされたのです。「どのような知恵も呑み込まれてしまった。」(27)とあるように、苦難を通らされることを通して、この世の知恵には何ら救いはない、主のみが救いであることを悟らせようとされたのです。苦難の中で酔っ払いのようによろめき、揺らいでしまったこの魂は、この世の知恵に救いを求めず、主に助けを求めて叫ぶと、波は静まり、彼は望みの港へと導かれて行きました。信仰に生きるとは知識や理解のレベルではなく、経験できる世界における生き様であると言えます。主は真の救いを与えるために、否救いの源である御自身を求めさせるために、苦難をお与えになられるのです。それは見せかけの救いではなく、真の救いを与えるためです。
2月7日 礼拝説教概要
「天の露を仰ぐ人生」 創世記27章18~40節
人生には二つの道の選択があります。一つは神の元で全てを神から与えて頂き人生の収穫を頂く道(27~29節)、もう一方は神から離れて自分で剣を持って戦って行く人生です(39~40節)。
イサクは年を重ねて死を自覚し、当時の慣習により跡継ぎを呼んで双子の兄エソウに祝福を与えようとしていましたが、弟のヤコブは以前兄を騙したように今度は父と兄を騙してまでも、神からの祝福を奪い取ってしまいました。ヤコブの人生のテーマは大地が天から露を頂いて収穫を得るように、何がなくとも天を仰いで神から露=恵みを受ける事でした(27~29節)。2度も兄を騙し更に年老いた父親をも騙してまでも、神からの祝福を奪うというヤコブの生き方は、何とひどいと思わされます。神学者も様々な見解を出していますが結局答えは出ません。しかしヤコブに関して記されている事は、神に対し人に対して顔向けできないような罪人にも関わらず神を求め続け、それに対して神は祝福されたという事です。
「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(ロマ10:13)と主イエスは良い行いをする人、誰から見ても善人が救われる、というのではなく、只「主の名を呼び求める者」が救われると語っております。主イエスが私達の罪の為に犠牲となって架かってくださった十字架は、人間の深く重い罪をも打ち砕き、神を呼び求める者を救ってくださいます。ヤコブの如く人を騙し、罪を犯し続ける私達人間を神は今日も憐れみの中で待っておられます。神のよって造られた人間だけが、神の息を吹きかけられ(創2:7)、日々神の創造の業を発見し、驚き、賛美する事ができる唯一の被造物ですから神を仰ぎ見て、祝福を求めるのが人間本来の姿ではないではないでしょうか。神を仰ぐ人生の中で罪人は清められ育てられていきます。人生の収穫は自力では得る事はできません。天の露を頂きながら永遠の命に繋がる命を求めて参りましょう。
1月31日 礼拝説教概要
「自分の井戸を掘る」 創世記26章15~25節
イサクは父アブラハムと同じように寄留者として他国に住み、そこでイサクは何度も井戸を掘り当てますが、横やりが入り邪魔されました(20~21節)。何か特別な理由がある訳ではなく根本的にあるのは敵意で、それらの事を通して色々な悲しみ、人間の中にある醜さを知りました。所謂人間の悲哀を味わったのですが、昔も今も変わらないものです。
人に理解されず敵意を表された時、平安を失い怒りに変わるものです。気が合う人・理解してくれる人と生きていけるなら幸いですが、むしろ無理解や逆境の中で忍耐を持って生きる事を通して人は育てられると、主イエスは種蒔きの譬で教えております。いくら良い地に落ちた良い種でも試練に遭うと身を引いてしまう人、耐え忍ぶ事なしに実を結ぶ事はできないと記されています(ルカ8:11~15)。忍耐とは正しい目的に向かってそれを獲得しよう、という希望と熱意の故に困難な事情を克服し自らの心を爆発から守る事だと言われています。芸術等の道は修業を積んだ分だけ身に付きますが、信仰の道は過去に何十年続けても、困難な時に信仰が破けたらそこまでの生涯は神から絶縁されてしまいます。
イサクは立ち止まって敵と争うのではなく、忍耐をもって自分の井戸を求めて掘り続けてついに神が与えてくださった祝福の広い場所に行き着きました(創26:22~25)。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)と主イエスが語っておられるように、忍耐と我慢で終わるのではありません。試練の只中尚、前に向かって掘り続ける労苦の中で人は変えられていき、神の恵みの世界に到達します。その日に続く労苦を今、担っています。主イエスは裏切られ、ののしられ、十字架の死を強いられても息を引き取るまで私達への愛は変わりませんでした。この世の全ての敵意も悪意も太刀打ちできない主イエスの十字架が私達を守ってくださっています。この事を感謝し信じているから弱い私達は神が与えてくださった道で忍耐を持って自分の井戸を掘り続けていけるのです。
1月24日 礼拝説教概要
「どこに満足を求めるか」 創世記25章19~34節
イサクにエソウよヤコブの双子が与えられました。弟のヤコブが、神から特別な祝福が約束されていた長子の特権(レビ21:17)を兄のエソウから奪う出来事が記され、二人の生きる姿勢の違いを示しています。
エソウが疲れと空腹の中、野原から帰ってくるとヤコブが煮物をしており、空腹を満たす為に大切な長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。「怠け者は自分の欲望によって殺される」(箴言21:25)と記されているように、他人の欲望によって自分が滅ぼされるのではなく、自分を殺すのは自分の欲望からです。欲望に負けるという事は神から離れるという事で、あらゆる事から神に背を向ける事になります。エソウは目の前にある今の欲望を満たす生き方を選びました。そのような歩みはせっかく用意された神からの祝福の人生の中身を失ってしまいます。
それに対してヤコブは神からの祝福の中で生きる事だけを求めました。祝福とは神そのものの命の満ち溢れた特別な中に生きる事です。そこには目に見えて何か得な事がある訳ではなく、途方に暮れるような事があったとしても、神の憐れみと特別の眼差しの中に自分の命があり、永遠の命に至る道に繋がって生きていける事が保障されています。
しかし弱い私達はエサウのように様々な誘惑があります。誘惑に打ち勝つには自分を守る生き方ではなく、絶えず神を求めつつ前進して行く事で、常にビジョンを求める事だと聖書は語っています。「幻がなければ民は堕落する」(箴言29:18)とありますが、ビジョンとは将来の計画ではなく神からの御言葉です。神の御声を聞かない時「民はほしいままに(欲のままに)振舞う」と別の訳では記されており、神の御声に耳を塞ぐ結果は自分の欲望に従って生きる事になります。主イエスも40日間の断食の空腹の後、誘惑を受けましたが毅然と神の御言葉によって勝利しました。神の御言葉は私達を制限するものではなく、守ってくださる祝福の命の御言葉です。御声を聞きつつ常に祝福を求めて参りましょう。