3月14日 礼拝説教概要

「わたしは主を愛する」 詩編116編1~19節
⑴ 詩編116はユダヤの伝統においては過ぎ越しの祭の際に、必ず食卓で歌われるものです。それ故にこの御言は彼らの信仰告白であると共に私達の信仰告白でもあります。イスラエルにとって重要な言葉は「シェマ」、「聞け」という言葉です。ローマ10:17に、「実に、信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とありますが、信仰はただ聞くだけではありません。語りかけてくださる主は、応答を求めて語りかけてくださるお方です。「シェマ」、「聞け」と語りかける主に対して詩人は、「わたしは主を愛する」(1)と応答しました。どうしてそう応えることができたかというと、「主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。」(1~2)お方であるからに他なりません。
⑵ 死線をさまようような状況の中、詩人は主に対する信仰の確信を告白します。死の綱がからみつき、陰府の脅威にさらされているどうしようもない危機的体験を彼はしたようです。そのような中、人が成しえることは唯一つ、「主の御名を呼ぶ」(4)ことです。彼は「わたしは信じる」(10)と宣言します。彼の立たされている状況は、主の存在をも疑いたくなるような危機的状況です。にも拘らず彼は、「わたしは信じる」と告白するのです。ある伝道者は、「信仰に生きるということは、信仰をもって不信仰を踏みつけることである。」と語りました。詩編の作者のように、「激しい苦しみに襲われている」、「不安がつのり、人は必ず欺く」(11)と思うときは正に不信仰が芽生えやすい状況です。しかしそのような状況であればこそ、「わたしは主を信じる」と宣言するべきです。信仰に生きるということは旗幟鮮明な生き様のことを言います。「わたしは出席者を愛する」、「わたしは主を信じる」という告白をもって自らの生き様を主と人の前に明らかにしましょう。そのようなはっきりとした信仰者として「主の御前を歩み続ける」(9)人を主は祝福してくださいます。