過ちを担う主

イザヤ書53章7~12節

澤田直子師

主題聖句 「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」 イザヤ書53章11節b
 7節に2度「彼は口を開かなかった」と書かれます。この「開かなかった」が、イエス様がご自分の意志で十字架に向かわれたことを証しています。人を裁く資格を持つのはイエス様だけですが、ヨハネ3:17「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあるように、イエス様は誰をも裁かず、全ての人を救おうとされました。イエス様は、ご自分のためには何の力も、言葉一つさえも使いませんでした。イエス様が一言も弁明をしなかったために、罪は全てイエス様のものとされました。罪人が死ねば、罪は罪人と共に死にます。そのためにイエス様は十字架で死なれたのです。
 「屠り場に引かれる小羊」は出エジプト記の過ぎ越しの小羊を思い起こさせます。神を信じ、救いを求める者は、自らの手で小羊の血のしるしを家の鴨居と柱に塗りました。これは今のわたしたちで言えば洗礼、信仰告白です。イエス様がご自分の意志で神に従順であったように、わたしたちも自分の意志で自らに神のものであるしるしをつけるのです。
 数あるレントのメッセージの中で、弟子たちがイエス様に愛を表わすことが遅かったと責めているのを読んだことがあります。しかしわたしたちは、弟子たちの心の内の何も知りません。また、わたしたち自身が、イエス様に対して、あるいは隣人に対して、時を得て良い方法で愛を表わせているか、と問われれば、答えることは難しいと思います。罪には、してしまったという形の他に、しないで逃げたという形もあるのです。
 イエス様は、その弱さも弱い者の悲しみを十分に理解し、その罪をも背負う思いで十字架についてくださいました。第二コリント12:9「キリストの力がわたしに宿るように」わたしたちの弱さゆえの罪も十字架で死にました。ただ、神にも、人にも、愛を表わしていきましょう。
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彼が担ったのは

イザヤ書53章1~6節

澤田直子師

主題聖句 『彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』イザヤ書53章5節b
イザヤ書53章は十字架の預言ですが、実際は52章13節から始まっています。「はるかに高く上げられ」という御言葉から、ヨハネ3:14のイエス様のお言葉「人の子も上げられねばならない」が思い起こされます。
「誰が信じ得ようか」救い主は、誰が見てもとても救い主には見えない、ということです。これという家柄も血筋もない、取りえのない姿です。「軽蔑され人々に見捨てられ」は直訳すると「頭数に入らない」という意味です。イエス様はその誕生の時から、受け入れる部屋はなく数に入らない扱いを受けられました。今もって、イエス様の十字架の贖いを自分の人生の数には入れない人々がたくさんいます。
それでも神様は独り子を十字架につけられました。イエス様と3年の月日を共にした弟子たちは、イエス様の口から十字架と復活の予告を3回聞いています。しかし理解するにはほど遠かったのです。その弟子たちのために、神様が600年以上も前に十字架の意味をイザヤに命じて書き残させておられた、その愛に心を打たれます。
病、という言葉が何度か出てきます。具体的な病名ではなく、病気のために人が弱った状態を表す言葉です。心の状態にも使われます。わたしたちは、しばしば道に迷い、誤った方向へ進み、間違いを認めないために正しい道に戻ることができません。痛みや苦しみに騒ぎながら、傷を見せて手当を受ける痛みを恐れて、まことの癒し主のところへ行くことができません。知恵の木の実を食べて神様から隠れたアダムとエヴァの姿です。
イザヤ書53章は十字架預言であると同時に、わたしたちの病の処方箋のような働きがあります。病、弱さ、苦しみ、わたしたちが背を向けて関係ないと思いたい部分を、イエス様は背負ってくださいました。イエス様の痛みと引き換えに与えられている平安を思いつつ、レントの時を歩みましょう。
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しかし、お言葉ですから

ルカによる福音書5章1~11節

佐々木良子宣教師

主題聖句 「『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」 ルカによる福音書5章5節
 本日は、「しかし、」というお言葉に注目します。信仰者の歩みは、神さま側と人間側双方の「しかし」「にも拘わらず」によって支えられているといえます。イエスさまからの語りかけに躊躇しながらも最終的に「しかし」と従う私たち、そして神さまは、不信仰で情けない私たちである「にも拘わらず」「しかし」見捨てることはなさいませんから、おぼつかない危なっかしい信仰でも何とか支えられているのです。
 イエスさまが求めるのは、物分かりの良い信仰者ではありません。自分の思いが先立ち、イエスさまの語りかけに葛藤を覚え、迷いながらも、「しかし、お言葉ですから」と、最終的にイエスさまに信頼して従おう、と決断をした時に、従ってみてはじめて分かる大きな恵みを与えてくださいます。
 ペトロたちが漁に出て夜通し苦労しましたが、収穫はなく陸に上がって網を洗っている時、イエスさまは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)とペテロに声をかけられました。ペトロは、今更期待できない苦労はもう懲り懲りだ、と言わんばかりに「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節前半)と答えましたが、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節後半)と、従う決断をした時、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」(6節)と、記されています。
 ペトロは自分のこれまでの豊富な経験や思いを捨て去り、「しかし、お言葉ですから」と、イエスさまの語りかけに従った時に、絶望から希望の世界を見せて頂きました。ペトロはこのガリラヤ湖での出来事が出発点となって、イエスさまによって「人間をとる漁師」(10節)となり、初代教会の中心的な指導者へと、神さまのために大きな働きをなす人へと変えられていきました。
 私たちの人生も、努力しても労苦と虚しさしか残らない時があります。「しかし、お言葉ですから」と従って、神の恵みの世界へと導かれて参りたいです。
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幸い—心の清い人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」 マタイによる福音書5章8節
 イエス様は「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と語られました。心の清い人とは?イエス様のお言葉を素直に聞き、ぶれることなく、純粋に受け止めて応答する人、お言葉に何かを加えたり、引いたりしない人、そういう「清き人」は幸いです。その人々が神様を見ると宣言されます。イエス様が語られたお言葉は、信仰そのものを表していると言えます。
 私たちはイエス様のお言葉に、常に聞き従って歩んでいるでしょうか。罪の誘惑から、現実の困難から祈るべきだと知りつつも、祈れない自分の姿を見ます。省みれば信仰者として生かされていても、罪多き者であることには変わりません。神様はどこに居られるのか、遠くに離れて居られるのか、お姿を見失ってしまいます。
 詩編51編は、ダビデが不貞の罪を悔い改め、神様に赦しを求めた歌と言われています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」。ダビデは神様に「清い心」を創り上げてくださいと祈り求めます。私たちに、本当の「清い心」を与えてくださるのは、イエス様お一人です。
 イエス様は罪人である人間の汚れた心を、十字架の血潮によって洗い清めてくださったのです。私たちは自分自身の業で「清く」なれることは決してありません。しかしイエス様の十字架の死と復活があります。私たちの罪の赦しのために、十字架かかって死んでくださった神様を見る幸いがここにあるのです。
 小松川教会の礼拝堂の正面には十字架が掲げられています。周囲を見渡せば共に信仰に励む友が会衆席に座っています。礼拝で信仰者は「神様と出会う」経験をします。それは罪の贖いと復活の命を見ることです。生きて働いてくださる神様を、今、ここで、見るのです。それは、信仰に生かされている「心の清い人々」と共に生きる幸いに、私たちを導きます。
 罪の汚れを、イエス様の十字架によって清められたことを信じて歩むのが、主が望まれる信仰者の姿です。イエス様は「心の清さに生きる」という幸いを信仰者の集まりを通して伝えようとされているのです。
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