主の御名のゆえに

詩編143編

澤田直子師

主題聖句 『主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ 恵みの御業によって わたしの魂を災いから引き出してください。』  詩編143編11節
 詩編143編は、「悔い改め」の詩編に分類されます。何か悪い事をして悔い改めるのではなく、自分のありようがあまりにも神様から離れていることの悔い改めです。悔い改めは「悔い」と「改め」に分かれ、悔いることは誰でもできるが、改めることが難しい、と教えられました。
 また、悔いは過去、改めは未来であり、過去と未来をつなぐのは現在に生きる自分だけだとも教えられました。しかし、自分の事として考える時、わたしは本気で悔いることの難しさを思います。悔いることは悔いるのですが、一瞬の後には、自己弁護や自己憐憫に変わります。もし本当に真剣に悔いるなら、必ず何かが変わるでしょう。上辺の悔いだから同じ過ちを繰り返すのです。
 作者はそういう自分の姿を踏まえて神に祈ります。3節の「敵」とは、外の敵というよりも内なる敵、罪を認めない頑なさや、罪と戦えない弱さを表しているのではないでしょうか。しかしこの敵に負けたくありません。だから、「裁きにかけないでください」と神の憐みに希望をかけて祈ります。信仰者には、神の御業を見る目が与えられています。5節「いにしえの日々を思い起こし」この事にかけては、人生の日数の多い方々の方が、断然有利です。
 作者はひたすら神の応答を求めます。強い信頼は、相手が神様だからこそ生まれるものです。詩編23編3節には「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」とあります。神様はその御名のゆえに、信じる者を赦し、愛し、導いてくださいます。もし、神様から与えられる愛の大きさが、人の行いや信仰の深さによって決められるなら、受け取れるものなどなく、とても返せない借りがあるでしょう。しかしそんなことはあり得ません。神様は、神であるがゆえに、僕を見捨てることがありません。
 「いにしえの日々」をたくさんお持ちの方も、それほどではない方も、神様がわたしたちにしてくださった御業を思い返し、思い巡らしましょう。その恵みを神の御体なる教会において分かち合いましょう。御名のゆえに命を得る喜びを、わたしたちも増し加えていきましょう。
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忍耐強く走り抜く

ヘブライ人への手紙12章1~6節

澤田直子師

主題聖句 「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」 ヘブライ人への手紙12章3節
 ヘブライ書11章の「信仰者列伝」は12章の前振りです。この手紙を読む人々や、今のわたしたちを励ますために書かれています。1節「すべての重荷」とは、わたしたちが背負い込む、わたしたちの本質ではないものです。健康、美しさ、役に立つ、どれも良い事ですが、神の御心を聞くことに優先するものではありません。そして、その重荷を手放せないので、「絡みつく罪」に悩まされます。いらない重荷を捨てられないため足がふらつき、止まり、その足に罪が絡みつきます。神様が導いてくださる道を真っすぐに進めなくなります。
「定められている競争」とは一番を競うのではなく、完走を目指すものです。競争する相手は自分自身です。背負っている重荷や絡みつく罪が絶えず競争を放棄するようささやいてきます。その声には耳を貸さずに、神様の「わたしは、あなたと共にいる」という御声を選び取って聞き、その声に従う意志を握りしめて走り抜くのです。
 「忍耐」について、どのようなイメージを持たれるでしょうか。わたしは第一コリント13:4「愛は忍耐強い」を思い浮かべました。聖書が教える忍耐とは、ただ我慢することではありません。その時の状況に関わらず、自分の痛みや思い、信念を一度わきに置いて、周りの人の思いに寄り添う、ということだと思います。
 わたしたちは聖霊のお働きによって、イエス様がどのようにわたしたちを愛し、死んでくださったかを知っています。これを信じなければ、4・5節にあるように、罪と戦って血を流すまで抵抗することもできないまま、主の鍛錬を軽んじて「どうしてわたしがこんな目に遭うのか」とつぶやく事になるでしょう。十字架のお苦しみのさ中にも、愛を表してくださった主イエス様の忍耐をいただいて、それぞれの前に置かれた道をそれることなく、走り抜きましょう。
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私たちも信じます

ヘブライ人への手紙11章32~40節

澤田 武師

主題聖句 『神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったです。』 ヘブライ人への手紙11章40節
 ヘブライ人への手紙には「信仰によって」生かされた旧約の民の名前が次々と記され、この手紙を読むであろう者たちに、昔の信仰者もまた神様の働き人として用いられた人々であったことが伝えられます。彼らは神様のご計画の一端を担って、み旨に従い通して、この世の悪の支配と闘ってきました。神様は、弱き者たちを大胆に働く者へと変えられました。
 また、信仰者が経験してきた凄まじい迫害の様子をも記しています。著者は今迫害を実感しているこの手紙の読者たちに、この世を変える信仰を受継ぎ、迫害の歴史を受け入れ、「信仰によって」生きる者となることを勧めます。
 旧約の民には「信仰によって」神様に認められ者たちであるとの自負がありました。それは、彼らがカナンの地に入り、信仰共同体としてのイスラエルを建国したからです。彼らは、神様が約束されたものを手に入れました。
 しかし、神様は「更にまさったものを計画してくださったのです。」それは、私たちにはイエス様が与えられたということです。旧約の民は、神様が人の姿となって、この世界に来られることなど思いもつかなかったでしょう。神様は私たちが罪赦された者となるために、ご計画としてイエス様を与えてくださり、十字架の贖いの救いを示してくださいました。神様のご計画を感謝して受けましょう。
 ゴリアトに挑んだ「ダビデ」の神様への確信。さまよい歩いた預言者たち、奇跡の中に神様を見た者たち、キリシタン弾圧、1942年6月26日「昭和の弾圧」の中で信仰を守り礼拝を捧げておられた信仰の先達たちの、苦難や涙、喜びや感謝の思いを、私たちの信仰の支えとして生きて行きましょう。この後に続く信仰者のために、私たちの信仰が継承されるように、私たちの信仰を造り上げて行きましょう。共に告白いたしましょう。「私たちも信じます。」
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罪をすてて離れる

ヘブライ人への手紙11章23~31節

澤田 武師

主題聖句 『信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。』 ヘブライ人への手紙11章27節
 ヘブライ人への手紙の著者は、ユダヤ人なら誰でも、その生涯をよく知っている信仰者たちの名前を挙げて、それぞれが「信仰によって」どう生かされ、何を選びとっていったかを具体的に記します。信仰に生きた人々の傍らにも、目に見える恐れはありました。
 「モーセ」の生涯は、彼の両親の信仰によって始まりました。エジプトにおける唯一絶対の存在、自らを神と名乗るファラオが支配する世界にモーセは生まれました。人が作る絶対は「恐れ」と姿を変え、「恐れ」が世界を覆います。
 彼の両親は我が子の中に「美しさ」を見つけます。モーセの美しさは、両親を「神様に委ねる」信仰を選ぶ者へと変えました。神様はモーセの両親の信仰に応えて、エジプトの王女にモーセを託します。
 「信仰によって」モーセは出エジプトの困難な道を歩み続けます。出エジプトの出来事は、モーセが求めてやまないエジプトという罪からの解放を、それを拒むファラオの姿は、罪との戦いの激しさ、執拗さを表しています。
 私たちも初めて聖書を読んだ時、教会に来た時、洗礼を決意した時、既に「信仰によって」その後の歩みを選んでいます。
 招きの言葉、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」どれほど神様はモーセを愛されたか。モーセと共に居られることをどれほど望まれたかが分かるお言葉です。
 そして今手紙を読んでいる私たちも、現実の中に恐れを見ます。この手紙は、再び福音によって「信仰に生きる者」となることの勧めです。如何なる時代、如何なる恐れも超えて、信仰に生きるための励ましの言葉です。聖霊によって、私たち一人一人の心に、神様は語りかけてくださいます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」イエス様を十字架にかけてまでも、私たちを「信仰に生きる者」に変えてくださっています。「罪をすてて離れる」信仰者として歩んでまいりましょう。
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