復活の主が待つ

ヨハネによる福音書21章1~14節

澤田直子師

主題聖句 「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」 ヨハネによる福音書21章13節
 天使の「ガリラヤでお目にかかれる」という言葉を聞いて、弟子たちはガリラヤ湖に行き、日ごとの糧を得るために漁に出ます。ガリラヤは弟子たちにとって特別な場所でした。ここでイエス様と出会い、弟子になり、多くの癒しの奇跡を見たのです。ペトロはイエス様と共に湖の上を歩いたこともありました。水の匂い、波の音、舟のきしみ、全てがイエス様の思い出と強くつながっていたでしょう。
 一晩の不漁の後で、弟子たちは岸辺に立つ人を見ます。当時は夜の漁から帰る舟を待って、魚を買い付ける人がいました。そういう人たちが舟にかける言葉を用いてイエス様は話しかけます。イエス様はいつでも相手に合わせてくださるお方です。
 言われた通りに舟の右側に網を打つと、実に153匹の大漁となりました。ここで、漁に出た7人のうちの3人は、同じことを思い出したでしょう。ペトロが弟子になった朝、やはり一晩の不漁の後で「お言葉ですから」と網をおろした時、一艘の舟には載せられないほどの魚が獲れ、ヤコブとヨハネの舟が応援に行った出来事です。この朝も、それほどの大漁でも網は破れませんでした。このことは、福音の完全性を示しています。犠牲は既に支払われ、もう損なわれるものはありません。
 わたしたちは、それぞれが遣わされた場で、神様から託された働きをしています。時にはうまく行かないこともあり、間違うことも、力不足を感じることもあるでしょう。そういうわたしたちをも、主は待っていてくださいます。この朝、ペトロは上着をまとって水に飛び込みました。ヨハネは重い網を引いて、岸に向かいました。どんなやり方で主のもとに行くかは問われません。待っていてくださる主のところに行くことが重要なのです。岸辺で待つ主のお姿を見つける者となりましょう。
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復活の朝

ルカによる福音書24章1~12節

澤田 武師

主題聖句 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」 ルカによる福音書24章6節
 安息日が明けるのを待って、週の初めの日、朝早く墓に向かう女性の弟子たちは、イエス様の死という現実を受け止めることに精一杯でした。イエス様の葬りを成し遂げたいとの思いから香料と香油を持参して、再びイエス様が葬られた墓のへと戻ってきました。
 そこで彼女たちが見たものは、墓を塞いでいた石が動かされている、イエス様のご遺体が見つからない。この事実に彼女たちは絶望を覚えます。
 その彼女らに「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」と、御使いは問いかけます。あなたの狭い視野の中にイエス様を探しても、そこにはおられない。死をも打ち破り、イエス様は復活されたのだと御使いは知らせます。
 御使いの言葉は、私たちにも向けられています。あなたの絶望、苦難、困難から、あなたの目を離しなさい、と言われます。生きて働いてくださる復活のイエス様は、あなたの全ての苦しみをご存じです。生ける福音として、イエス様は今も働かれています。
 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と、御使いは宣言します。ルカは、イエス様のクリスマスの知らせもベツレヘムの人々には不思議な事でしかなかった、と記しています。空の墓を見た女性たちは、御使いの言葉を信じ、男性の弟子たちに知らせましたが、ただ一人、ペトロだけが墓に走り、「たわごと」ではないことを自分の目で確かめます。イエス様がこの世に来られたこと、そして、十字架の死から復活されたことは、いずれも神様が私たちへの救いの御業を完成された、ただ一度のことです。それは、私たちの思いを超えた神様の御業として、私たちに知らされた福音、良き知らせなのです。
 信仰の目をもって「十字架の死と復活」を知ろうとするならば、神様のご計画が人の歴史の中に置かれた唯一の「死からの復活」イースターの出来事として、与えられたことであると分かります。私たちのために、イエス様が復活してくださったという事を信じた時に、復活のイエス様にお会いすることができるのです。復活を信じてください。そしてイエス様にお会いして下さい。復活の主に私は出会った。その確信に私は生かされる。イエス様は待っておられます。ハレルヤ。
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ゴルゴタへ行く

マルコによる福音書15章21~32節

澤田 武師

主題聖句 「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」 マルコによる福音書15章21節
 イエス様は、十字架刑執行日の朝、「ユダヤ人の王」と罪状書きを掲げたローマ兵に先導され、四名の兵隊に囲まれ、自らが付けられる十字架を担いで、ゴルゴタの刑場へと向かって行かれます。それは、十字架刑の最後まで、神様の御心に従い続けておられるお姿です。
 その後から祭司長、律法学者、一緒に十字架につけられる二人の強盗が続きます。そしてガリラヤからイエス様に従い続けてきた女性の弟子たちも、興味本位な群衆もゴルゴタの刑場へと向かっています。
 昨夜の裁判、鞭打ちの刑は、イエス様のお体を傷つけ、十字架を担ぎ続ける力を失わせていました。共観福音書には、キレネ人シモンという人物が、イエス様が担げない十字架を、刑執行のため強制的に担がされたと記されています。
 彼は一刻も早くこの理不尽な事態から解放されたいと願っていました。そして、無理に担がせたローマ兵と、倒れて担ぐことが出来なくなった罪人に対して、怒りを覚えました。シモンには、最悪な出来事と感じられたでしょう。しかし、彼がこの出来事の本当の意味を知った時、彼の生き方は変えられました。
 彼がどの様に救われたのかを聖書は記していませんが、聖書には彼の名が、使徒言行録、ローマの信徒への手紙の中で、教会の中心的人物、パウロが頼りにしている者として記されています。彼は唯一、イエス様の十字架を直接担った者、イエス様に直接愛を表すことができた者であることを知りました。後、彼はイエス様を宣べ伝え、証し続ける者へと変えられました。
 今日「ゴルゴタ」を「礼拝」と読み替えることもできると思います。主よ、どうか「礼拝」に招かれ、ここから家路に帰る私たちも、キレネ人シモンのようにはっきりと十字架の贖いと永遠の命に生かされている喜びを分かるようにしてください。信仰はそれぞれ与えられた十字架を運ぶ時です。
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背負ったのは十字架

マルコによる福音書15章6~15節

澤田 武師

主題聖句 「ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」 マルコによる福音書15章14節
 まもなくイエス様には十字架刑が言い渡されます。裁判に関わった者たちは、十字架の横木を背負って刑場に向かう罪人イエスの姿を思い描きます。しかし誰もが、そこに自分の十字架があるとは思いもよりません。イエス様が背負われた十字架、そこに彼らの十字架もありました。
 そこには「ピラトの十字架」があります。イエス様の裁判が始まった時、唯一判決を言い渡す権威を持つ者としてピラトは存在していました。今ピラトを捕らえているのは彼の中の弱さです。この弱さは、ピラトが仕えるローマ皇帝の権力、人間の「作られた権威の下にある者」の、保身を選ぶ弱さです。
 彼は群衆に問います。「あの者は、どうしてほしいのか。」彼の心の中に、自分の信念を貫くことのできない「弱い心」が現われました。群衆の言葉がピラトに迫り、ピラトは自分の思いとは異なる判決を言い渡す結果となりました。
 そこには「祭司長たちの十字架」があります。祭司長たちは、群衆を扇動して「人をねたむ」思いへと変えてしまいました。それは、人々の間に敵意を生み出し支配されてしまう、重大な罪を犯すことにつながります。本来なら、彼らが罪人として十字架に打ち付けられるはずが、イエス様は彼らの十字架をも背負われたのです。イエス様は祭司長たちの「心の闇」を背負われました。
 そこには「群衆の十字架」があります。これは「神の十字架」とも言えます。実際にイエス様が背負われたのは木の柱です。バラバ・イエスだけは、イエス様が背負われている十字架の意味を知っていたと思います。唯ひとり、目に見える、木の十字架で救われた者。本来なら自分が背負う十字架を、歩むはずの道をイエス様が身代わりになってくださった。イエス様の十字架の罪の贖いを経験した者として、彼はイエス様の十字架の証人として存在しています。
 「神の十字架」は、本来なら私たちも担うはずの十字架です。しかし、全ての者の罪を背負ってイエス様は歩まれます。
 ピラトは問います。「いったいどんな悪事を働いたというのか」全ての人を悪事から、罪から救い出すために、イエス様は十字架に向かわれます。
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