背負ったのは十字架

マルコによる福音書15章6~15節

澤田 武師

主題聖句 「ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」 マルコによる福音書15章14節
 まもなくイエス様には十字架刑が言い渡されます。裁判に関わった者たちは、十字架の横木を背負って刑場に向かう罪人イエスの姿を思い描きます。しかし誰もが、そこに自分の十字架があるとは思いもよりません。イエス様が背負われた十字架、そこに彼らの十字架もありました。
 そこには「ピラトの十字架」があります。イエス様の裁判が始まった時、唯一判決を言い渡す権威を持つ者としてピラトは存在していました。今ピラトを捕らえているのは彼の中の弱さです。この弱さは、ピラトが仕えるローマ皇帝の権力、人間の「作られた権威の下にある者」の、保身を選ぶ弱さです。
 彼は群衆に問います。「あの者は、どうしてほしいのか。」彼の心の中に、自分の信念を貫くことのできない「弱い心」が現われました。群衆の言葉がピラトに迫り、ピラトは自分の思いとは異なる判決を言い渡す結果となりました。
 そこには「祭司長たちの十字架」があります。祭司長たちは、群衆を扇動して「人をねたむ」思いへと変えてしまいました。それは、人々の間に敵意を生み出し支配されてしまう、重大な罪を犯すことにつながります。本来なら、彼らが罪人として十字架に打ち付けられるはずが、イエス様は彼らの十字架をも背負われたのです。イエス様は祭司長たちの「心の闇」を背負われました。
 そこには「群衆の十字架」があります。これは「神の十字架」とも言えます。実際にイエス様が背負われたのは木の柱です。バラバ・イエスだけは、イエス様が背負われている十字架の意味を知っていたと思います。唯ひとり、目に見える、木の十字架で救われた者。本来なら自分が背負う十字架を、歩むはずの道をイエス様が身代わりになってくださった。イエス様の十字架の罪の贖いを経験した者として、彼はイエス様の十字架の証人として存在しています。
 「神の十字架」は、本来なら私たちも担うはずの十字架です。しかし、全ての者の罪を背負ってイエス様は歩まれます。
 ピラトは問います。「いったいどんな悪事を働いたというのか」全ての人を悪事から、罪から救い出すために、イエス様は十字架に向かわれます。
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