変わらぬ愛をもって

エフェソの信徒への手紙6章10~17節

澤田直子師

主題聖句 「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。」 エフェソ6章23節
 パウロの手紙のほとんどは、最後の部分に同労者への挨拶と祈りが記されています。ティキコは、パウロの最後のエルサレム旅行に同行した弟子で、初期の教会において重要な働きをしたと思われます。
 パウロが作り上げた教会はどれも、最初は2人、3人の集まりから始まったでしょう。そこにローマやユダヤ人の迫害がありました。そして、パウロはどんなにその教会を愛しても、留まることはできず、次の土地へと旅をしました。そういう使命だったのです。パウロの心は旅をしていても休まることはなかったでしょう。ティキコや、テモテ、テトスのような、信頼できる仲間もできましたが、一方で、一度は共に福音のために働きながら、この世の権力に心を惹かれたり、迫害に負けたりして、離れていった人たちも少なくありませんでした。今とは違って、書いた手紙は誰かに頼んで届けてもらうしかありませんでした。その間にも、何か良くないことが起こりはしないか、誰か働き人が病になったりはしないか。パウロはどんなに祈ったことかと思います。
 エフェソの信徒への手紙6章の前半は、そのまま読んだのでは消化しにくい、神学的な祈りです。そこから、愛する兄弟を思っての個人的な祈りになっていきます。パウロはこれを区別しません。パウロにとっては神学と生活とは同じもので、区切りも切れ目もないのです。パウロは祈りの最も大切なところをよく知っていました。それは、わたしたちが最初に「天の神様」と呼びかける、祈りは誰に向かうのか、というところです。
 24節「変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する」とありますが、わたしたちは、はたして変わらぬ愛で主を愛しているのでしょうか?そもそも、わたしたちは変わらぬ愛を持っているのでしょうか?変らぬ愛を持たないわたしたちが、「主よ」と祈る時、主の愛がわたしたちに与えられます。命さえ惜しまなかった主は、わたしたちに豊かに愛を注いでくださいます。主の愛を帯びて、世に踏み出して行きましょう。
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目を覚まして祈れ

エフェソの信徒への手紙6章18~20節

澤田直子師

主題聖句 「どのような時にも“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」 エフェソ6章18節

 パウロは信仰者にも神の武具が支給されていると考えたのですが、どのような良い武具も、身に着ける者が使い方を知らなければ役には立ちません。特に「真理の帯」や「正義の胸当て」は、誰の真理か、誰の正義か、よくよく気を付けないと、容易に自分の真理と正義にすり替えられてしまいます。
 イエス様は公生涯に入る前にサタンの誘惑を受けました。イエス様は3度の誘惑を聖書の御言葉で退けます。サタンの考えと神様のご計画との違いをはっきりさせ、ご自分はどちらを選ぶかを宣言したのです。信仰者の勝利は、相手を滅ぼす事ではなく、何が正しいか、何を選ぶかを見分けることにあります。
 パウロがいかに優れた伝道者であったとしても、人間である以上、その働きには必ず終わりがあります。パウロ一人が華々しく勝利しても何にもならない。パウロは教会に起こる問題を知り尽くしていました。ですからパウロから手紙が来なくなっても、エフェソの教会が神様の御旨から離れないように、そのために、自分の言葉がまっすぐに届くように祈ってほしいと言うのです。
 誰の祈りでも、祈りには力があります。私たちが「神様」と呼びかける時、心は、魂は、目を覚ましているでしょうか。たとえ話のように、思わぬ時に主人が帰ってきて、怠惰を見つけられる僕のようになってはいないか。思いを巡らせたいところです。
 20節、パウロは「語るべきことを大胆に語れるように」祈ってほしいと頼みますが、パウロが福音を大胆に語れないなどということが一度でもあったでしょうか。これは明らかに、祈ることを通して、エフェソの教会が励まされ力を与えられることを期待しているのです。
 祈りには力があります。わたしたちも、どのような時にも、霊に助けられながら、目を覚まして、祈り手として、遣わされましょう。
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神の武具を身に着け

エフェソの信徒への手紙6章10~17節

澤田 武師

主題聖句 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりない。」 エフェソの信徒への手紙6章10節
 この世に誕生したばかりのエフェソの教会が、この世の権威に飲み込まれないよう、信仰の戦いを戦いぬくことをパウロは命じます。
 パウロが示す武具は、当時のローマ兵の標準装備であったようです。ローマの強大な軍事力は、他民族の侵入を許さず、国内の反乱は直ちに鎮圧されて、平和な時代を作りました。しかし、それは支配されている者にとっては、“逆らうことが出来ない”、力の支配、見せかけの平和となっています。
「最後に言う。」手紙の結論に入ります。ここでのパウロの姿は、信仰の戦いを指揮する指揮官のようにも見えます。指揮官は最善の命令をもって、信仰の兵士たちに作戦を指示します。神様の平和を求める作戦を、パウロは命じます。
 パウロの作戦は、まず相手をよく知ることです。「悪魔の策略」これは罪のことです。罪は、ありとあらゆる手段を用いて、私たちに近づきます。罪は、私たちの弱さを知っています。必要としているものを知っています。闇を知っています。だから、そこに攻撃を仕掛けてくるのです。罪は手ごわい存在です。罪はまた誘惑にもなります。罪に対抗するには信仰の備えが必要です。
 信仰の戦いは、目に見えない敵を相手にするものです。「血肉を相手にしない」。パウロは戦うべき相手を記しています。この世を支配し、一人一人を支配しているもの。暗闇の支配者、悪の諸霊、とも呼んでいます。
 この世を覆う信仰の敵は、私たちの力だけでは到底対抗できません。兵士が戦いに備えて武具を整えるように、信仰者も、神から与えられた武具を着けて、それぞれの戦いに備えるよう命じられています。
 パウロは、本来は命を奪うための武器になぞらえて、人を生かすための信仰の武器として表しています。それは「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」とあるように、弱いままで、全てを信頼して、この身に着けた時に、初めてその力が発揮されるものです。私は弱くとも、私の信仰が強くなります。ローマの兵隊の武具は、そのすべてに限界があり、いずれは壊れたりさび付いたりするでしょう。しかし、神の武具は永遠に変わりません。
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神の国のメンバーシップ

エフェソの信徒への手紙6章1~9節

澤田 武師

主題聖句 「あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」 エフェソの信徒への手紙6章9節C
 古代ローマの時代の「支配者と被支配者の関係」、それは、法律として成立し、夫婦や親子の間にも影響を及ぼしていました。奴隷という階級は、自由人の生活を豊かにするための財産であり、道具、労働力として社会全体が必要としていた存在でした。この時代、「子供」「奴隷」という存在は、両親や主人の所有物であると認識されていました。現代では考えられない身分差別の世界です。その中にエフェソの教会は誕生しました。
 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(5:21)パウロは、エフェソの教会があるべき姿を伝えます。この邪悪な世界の中にも「福音は明確に示されている。それはこの社会に影響を与えるためである。」と、伝道者として確信をもって、パウロはエフェソの兄弟姉妹を励まします。
人としてはカウントされない、被支配者という立場の子供や奴隷に、また、支配する立場の両親や主人に対しても、「イエス・キリストに従う喜びを、互いに分かち合う。」教会を形成してゆく一員となるために、実践すべき事柄を勧めます。
 それは、神の国の住人となるための「メンバーシップ」を得ることを意味します。パウロは子供たちに、奴隷たちに「福音」を通して、この世を見ることを勧めます。あなた方を支配する「両親」「主人」も、神様が愛さなければ一瞬たりとも存在することはできない。また、神様は「分け隔てなさらない方」である。現実には身分の違いはあるが、神の国の住人として、神は誰をも平等に取り扱われる。だから、「人にではなく、主に仕えるように」と迫ります。
 私たちは「教会」のメンバーとして、信仰生活を歩んでいます。「イエス・キリストに従う喜びを、互いに分かち合う。」どのような時代となろうとも、変わらない教会の「メンバーシップ」であります。それは、「どのような立場の人たちとでも、互いに仕え合うこと。」神様の国、御国が来ますようにとの祈りが成就した世界を、パウロは既に見ていたのではないでしょうか。
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