目覚ましが鳴っています

マタイによる福音書24章36~44節

 佐々木 馨神学生

主題聖句「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたは分からないからである。」 マタイによる福音書24章42節
 キリスト教の暦ではこの日から新しい主の年となるアドベントを迎えました。すでに降誕された救い主イエス・キリストを喜びお迎えする思いに、次に再び来られる主との再会を強く待ち望む思いを重ね合わせていく二重の待望の大事な時なのです。イースターを待ち望む受難節と対をなし、共に深い悔い改めと大いなる神様の出来事を待望する時期でもあります。
 イエス様の再臨される日を私たちはどのように過ごし待てばいいのでしょうか?イエス様は端的に明瞭に「目を覚ましていなさい」と教えてくださいました。
 オリーブ山でイエス様は弟子達に終末の日の話をされました。その日その時はいつかわからないが普段の生活の只中に突然に来るとおっしゃる。だからこそ目を覚ましている必要がある。そのことにつながるジョン・ウェスレーの重要な教え「恵みの手段」があります。その中の3つを特に取り上げます。まず「聖書」。聖書こそ神様が私たちに神様とイエス様の真実を理解させるために与えてくださった御言葉です。その御言葉の神の声に魂が目を覚まし、聖霊の光によりより覚醒し、心から打ち震える衝動が与えられ神様とイエス様のために何かをしたいとの思いを与えられるのです。そして「聖餐」によりイエス様とつながり続け確信をいただき、「祈り」によって神様に近づいていく。そして私たちはその「手段」を通していかに神様が私たちを愛してくださっているのかを知るのです。その愛に応え、私たちも神様を愛し、隣人を愛していく。そのことが「目を覚まし」て歩んでいくことにつながるのではないでしょうか。しかし私たちは罪の中にあり、心弱い者です。イエス様を見失いがちです。悔い改めにより常にイエス様の元へ立ち帰り、そして改めて前進していくのです。兄弟姉妹、目を覚まし合いながら主との再会を待望し歩み続けましょう。
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喜びの歌が響く

詩編65編

澤田直子師

主題聖句『恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって わたしたちが満ち足りますように。』 詩編65編5節b
 詩編65編は、ユダヤの三大祭りの一つ「仮庵祭」で朗誦されたと言われます。豊かな収穫は神に祝福されている証でもありました。4節には「罪の数々がわたしを圧倒します」とあります。自分の罪を示され、深く悔い改めて、願をかけて祈ったのでしょう。そのような自分を神は贖い、豊かに赦してくださり、神の庭に宿ることを許されました。何と慈愛に満ち憐れみ深いお方であることか。
 この詩に描かれる豊かさは、神の家・神の庭のものです。わたしたちのものではありません。信仰者は、神と子羊の玉座から流れ出る豊かな水を受けて、それがどこから来るのかを知ることはできますが、時が満ちていない今、まだその庭に行くことはできないのです。
 わたしたちは、この世で苦難や試練に遭う時、神様なぜですか、と問いながら、首をかしげてしまうことがあります。神様が愛の神なら、なぜわたしには、わたしの家には、わたしの教会には、恵みが溢れていないのか。これはおかしい、何が悪いのか、誰のせいなのか、と言いたくなる。
 神は高ぶる者を引き下げ、へりくだる者を高く上げる、と聖書には繰り返し書かれていますが、これは真実です。自分の力が及ばない苦難の中で、なぜですか、と問いながら、もしや自分の内側に「なぜ」の答えがあるのではないか、と恐れをいだく時、たとえそうであっても、神は豊かに赦してくださるお方です。罪びとを招き、食卓を共にしてくださるお方です。
 わたしたちは、その約束を知っています。そこから溢れて流れてくる清らかな水が、わたしたちに届き、渇きを癒して、神の家がどんなに豊かで明るいところかを教えてくれます。わたしたち、という、小さく欠けのある収穫物を、神様は「聖なる生ける捧げもの」として喜んで受けてくださいます。わたしたちも、耳を澄ませ、心を澄ませて、神の庭から聞こえてくる喜びの歌の響きを聞きましょう。
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心は喜び躍った

エレミヤ書15章16節

澤田直子師

主題聖句 「あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。」 エレミヤ書15章16節b
 預言者エレミヤの生涯をたどる時、この世的には恵まれることの少なかった、苦難と悲劇の預言者であったことを思います。
 15章は、神とエレミヤとの対話です。神は「もはやユダヤ人を憐れまない」と言われ、エレミヤは、敵対する者のために執り成しの祈りをしたのに、と嘆きます。エレミヤが預言者として立った最初の頃は、神の御言葉に従って宗教改革をしようとしたヨシヤ王がいたのですが、ヨシヤ王がエジプトとの戦いで死ぬと、次の2代の王は、世の権威に頼り、神の言葉を軽んじました。
 その中でも神の御言葉を取り次ごうとするエレミヤは迫害を受け、一方で、神から離れ、世の権威におもねって偽りの預言をする者たちは、王に厚遇され安楽な暮らしをしています。エレミヤは、なおも彼らのために祈りながらも、神の御言葉に対して激しい飢え渇きを覚えています。
 わたしたちは、これほどの飢え渇きをもって御言葉をむさぼるでしょうか。人間は、満ち足りた生活の中では、たとえ心の底が荒れ野になっていても気づかないものです。表面的な豊かさでごまかされるのです。しかし、与えられたものがそぎ落とされ、もうどうにもならなくなって祈る時、今更のように神の愛に気づき、その豊かな御言葉の力に奮い立たされるのではないでしょうか。エレミヤは、をむさぼり食べた「あなたの御言葉はわたしのものとなり」と言います。主イエスが囚われる前の夜「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」と祈られたように、学んだ知識ではなく、エレミヤの血肉となったのです。その時エレミヤは気づきます。そうだ、自分は「主の御名をもって呼ばれる者」であった、と。わたしたちもまた、「主の御名をもって呼ばれる者」クリスチャンです。御言葉を求め、むさぼり食べるようにわがものとして、心が喜び躍る歩みをしていきましょう。
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幼子を腕に抱き

ルカによる福音書2章22~35節

澤田 武師

主題聖句 『わたしはこの目であなたの救いを見たからです。』 ルカによる福音書2章30節
 子ども祝福式のメッセージです。イエス様のお誕生は、ベツレヘムの家畜小屋での出来事でした。そこにはヨセフとマリア以外誰もいません。父と母は生まれたばかりの幼子を「飼い葉桶」に寝かせます。赤ちゃんにふさわしい揺りかごではなくても、ひと時の「安心」が与えられました。
 そして今、シメオンは神殿の境内で、マリアに抱かれている幼子と出会いました。彼は幼子を救い主と信じ、自分の腕に抱きました。その時彼は「喜び」で満たされました。
 私たち自身も、親の愛により安心なところに「寝かされて」、喜びをもって「腕に抱かれて」成長してきました。また、私たちは親になっても同じことを思います。どの時代でも変わらない、子どもの成長を願う親の姿です。神様はマリアを選ばれて、イエス様の母とし、ヨセフを選ばれてイエス様の肉の父とされました。
 シメオンは幼子が救い主と気付くと、この出会いこそが聖霊の導きであり約束の成就であることを確信します。シメオンは思わず幼子を抱き上げたのでしょう。理屈ではない、肌の感覚をもって神様の約束の成就を見ることができたのです。この腕に抱き上げた幼子を見ただけでシメオンは満足でした。長い信仰生活を感謝の内に終わる事ができる喜びで溢れました。シメオンの死は、メシア誕生の証詞となります。シメオンが歩んできた全てを今、引き受けてくださる方と出会えた喜びになりました。「抱き上げる信仰」それは体感です。
 信仰は頭で理解した事だけでは躓きます。確かにイエス様に触れた体験。この感覚が信仰を強めます。何時の時代でも、子どもの成長と幸いは親の願いです。この日、子どもたちがイエス様と出会うために、私たちは礼拝へ招かれました。子どもたちがイエス様の十字架と復活が示す神様の愛を、神様の子どもとして、その生涯に、神様が関り続けてくださることを一番の希望とするようにと。変わらぬ成長と祝福を神様に委ねるために、信仰の継承のために、私たちは子どもたちを連れて来たのです。
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イエスの命が現れる

コリントの信徒への手紙二4章7~14節

澤田 武師

主題聖句 『主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。』 コリントの信徒への手紙二4章14節
 「聖徒の日」には特に思います。イエス・キリストを信じ、そして天に帰った聖徒の誰お一人として、同じ信仰生活を歩まれた方はおられない。年齢、性別、受洗の時期、導かれ方、神様はお一人お一人と出会ってくださり、お一人お一人にオーダーメイドの信仰を備えてくださっています。
 パウロは、「土の器」を信仰者の生き方の譬えとして用います。「土の器」その中には、陶芸家が丹精込めて創りあげる高価な芸術作品としての「器」もあります。しかし、ほとんどの「器」は日常生活で使うために、おのずと形も大きさも決まってきます。「器」の価値は用いられ方で決まります。
 神様は、特別ではない「土の器」である私たちに「宝」を納めてくださいました。パウロは、あなたが神様によって生かされていると分かった時、そこに神様の並外れて偉大な力が発揮され、「イエス・キリストの命が現れる」。私たちが神様の栄光を知るために、私たちを用いてくださると言います。
 パウロは、すでにイエス様の御力をいただいています。だから行き詰まらない、失望しない、見捨てられない、滅ぼされない。並外れて偉大な力が与えられ、伝道者として歩み続けられる力となった。パウロは神様の栄光が自分に与えられていることを、生き方によって表しています。
 「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉3:11)神様は最もふさわしい時に、私たちをイエス様と出会わせてくださいます。それは「永遠を思う心」を納めた、器としての歩みが始まることです。宝を納める器としての歩みです。
 信仰者の生活は、イエス様の十字架と共にあります。信仰者にとっては、苦しみや死そのものが何か価値を持っているわけではありません。それがイエス様のためである時にのみ、そこに意味を見出します。「土の器」として生かされているからこそ知ることのできる真理です。
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