神の陰に宿る人よ

詩編91編

澤田直子師

主題聖句 『彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え 苦難の襲うとき、彼と共にいて助け 彼に名誉を与えよう。』 詩編91編15節
 詩編91編の主題は、「わたしの故郷は神」ということです。わたしたち信仰者は、自分がどこから来て、最後はどこへ帰るかを知っている者です。聖書には、この世を歩むことは一時の旅路、人は寄留者に過ぎない、という考え方が出てきます。これは、世で試練や悲しみの中にある時に助けになる一方で、それならなおのこと、この限られた時、場所で、誠実に生きようという気持ちを起こさせます。
 1~13節は、神様がどのような場面でも様々な形でわたしたちを守ってくださると記されます。苦難は必ず来ます。しかし、その時、その場に神様は共にいてくださり、そこに、守りの盾を置いてくださいます。7~8節は出エジプトの夜になぞらえて、神の子羊のしるしをつけた家は、神の裁きが過ぎ越していったことを思い出させます。今もなお、十字架の血のしるしを額につけている者たちの上を、神の裁きは過ぎ越していきます。
 14節からは、祈りに答えて神様が直接語りかけてくださる言葉としてお読みください。「彼」とありますが、言うまでもなく男性限定ではありません。14節「わたしの名を知る者だから」知るとは、聖書では、その人と深いつながりを持っている関係を表します。特にここでは、「名」という言葉が「足跡」と訳すこともできる言葉を使っていますので、ずっと一緒に歩んできたという意味になります。ですから15節は、未来のことではなく、今までも「彼と共にいて助け」てきた、これからも助ける、ということです。
 その神様とわたしとの関係が行き着くところが16節です。「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」何に満ち足りているか、ここが恵みの分かれ目です。わたしたちは、どうかすると、今持っていないものを探して、それを手に入れれば幸せになるような気になる。しかし、信仰者は、神の陰に宿って歩み、どこへ帰るかを知る者です。満ち足りるべきものは、いつも満ち足りていた、このことを証ししましょう。
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仕える者の恵み

エフェソの信徒への手紙3章1~13節

澤田直子師

主題聖句 「これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」  エフェソ3章11節
 パウロは、エフェソの教会への手紙を、カイサリアに幽閉されている間に書いたと言われます。訪ねてくれた人に手紙を託して届けてもらう時代です。もしかしたら、今この時エフェソの教会は迫害されているかもしれない。その時には、ローマやユダヤ人を呪い恨むのではなく、自分パウロと同じようにキリスト・イエスに囚われた者と考えて誇らしく受け止めてほしい、とパウロは願います。
 聖書の「恵み」という言葉には、神から一方的に与えられるという法則性があります。パウロは、キリストに召され、使命を帯びて遣わされることを「恵み」と記します。この恵みは、世的には必ずしも利益には見えないのですが、試練を超えてあまりある喜びがあります。だからこそ、使徒たちも、後に続く信仰者も、あらゆる国と時代を通じて福音を宣べ伝えてきたのです。
 10節「いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知られるようになった。」教会が世に存在することによって、天の父なる神は、ご自分の愛の計画が進んでいることをご覧になり、喜ばれ、祝福されます。天と地の交流があり、恵みが与えられ、栄光をお返しする、教会は天と地のありようを実現する地の要です。自分が救われた喜びをゴールとしない、これはキリスト教の大きな特徴の一つです。わたしたちは、イエス様がそうであったように、隣り人に自分を明け渡し、神の救いの喜びを分かち合うことを求められています。
 人間が生きるとは、何かしらに仕えるということです。それは、パウロが言うように神から与えられた恵みです。仕えたから恵みが与えられるのではなく、仕えることそのものが、神のご計画に参与する恵みなのです。用いられる喜びを携えて、世に出て行きましょう。
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平和の福音を告げる

エフェソの信徒への手紙2章17~22節

澤田 武師

主題聖句 「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」
エフェソの信徒への手紙2章17節

 「キリストはおいでになった。」それは私たちには喜びのクリスマスとなりました。私たちと同じ試練を、苦難をも経験されるために、イエス様は来られました。神様が人となられました。そしてイエス様は十字架へと向かわれました。
 「遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」私たちは「平和の福音」を聞くために呼び集められて「教会」が生まれました。イエス様は十字架でご自身を捧げてくださり、この世の分け隔てを滅ぼされ、恵みの「礼拝」へと、どんな人も招いてくださったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」神様が主導権をとり、私たちが招かれたのです。ここに「教会」による新しい時代の始まりを見ることができます。
 コロナ禍の今は、改めて教会の本質を見る時になりました。教会にとって、「成長する」とは何か、この答えを各教会は求めています。今、パウロのお言葉は私たちへの励ましと聞こえます。
「教会はキリストにより組み合わされてこそ力を発揮し、そして、成長し続ける。」コロナ禍は、教会に働かれるイエス様のお姿を、改めて知るように促される時です。そして、この困難に兄弟姉妹が一致して臨むことが、教会が成長してゆく原動力となり得ると、パウロは時代を超えて語りかけています。
 私たちは今日礼拝へと招かれています。そして共に御言葉を受けて、霊的な力と養いを受けます。成長させてくださるのは神様です。そしてパウロは、私たちでさえも「神の住まい」となることができる、と呼びかけます。
 確認しましょう。私たちはイエス様によって、生かされ今日も立っています。ゆるぎない御言葉の「土台」に立っています。私たちは平和の福音を伝えるために、今日も世に出てゆきます。私たちの「成長」は止まりません。
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敵意を滅ぼす

エフェソの信徒への手紙2章11~16節

澤田 武師

主題聖句 「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」  エフェソの信徒への手紙2章16節
 パウロは、エフェソの兄弟姉妹に示します。「イエス様を信じる以前」は、「キリストと関りなく、神様を知らずに生きていた時」であった。そして「今イエス様を信じ」、「キリストの平和に生きる者」として新しい人に創り変えられた。これを改めて「心に留めておきなさい」と教えます。
 パウロは世界が一つとなるため、「平和」を創り出すイエス様のお姿を記しています。それは「ご自分の肉において」とあるように、イエス様が自らをお献げになって初めて得られた真の「平和」です。
自分の正義をかざす時、「敵意」はそこに潜んで相手を攻撃します。それは人と人を分離し、隔たりを創ります。パウロは、神様の御心である「世界が一つになる」ために、イエス様が敵意を滅ぼしに来られたことを再度記しています。
 十字架刑は大変残酷です。それゆえ十字架刑につけられる犯罪人は大抵、周囲にいる群衆をののしり、怒りをぶつけ、自分の運命を嘆いて死んでゆきました。ルカはイエス様が十字架につけられた時、二人の強盗がイエス様の左右につけられたと伝えています。一人の強盗は、イエス様を罵り、怒ります。しかし、もう一人の強盗は「わたしを思い出してください」と、イエス様に願います。彼は平安に死を迎えようとしています。隣に、共に十字架につけられているイエス様のお姿を見た時、彼の怒り、失望、敵意は、平安へと変えられました。実際にイエス様はご自分の十字架で、敵意を滅ぼされ、新しく生まれ変わった者を創られたのです。彼は、神様から和解を得たのです。
 私たちも「心に留めておきましょう。」イエス様が私の「敵意」も、十字架で滅ぼしてくださったことを。それは人と人の隔てを壊し、国と国の争いさえも終わらせる力を持ちます。世界の人々が一つになって、新しい人として創り変えられる者がたくさん生まれます。すべての者が共に生きる新しい世界となります。そのために、イエス様は来られました。神様と人、人と人の間の隔たりを壊すために。
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