和解の使者として

コリントの信徒への手紙二 5章16~21節

澤田直子師

主題聖句 『だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。
        古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』  コリント 二5:17

 一年の最後の礼拝に、毎週の週報表紙に印刷され、祈祷会でははじめに暗唱してきた御言葉を分かち合いましょう。
 パウロは手紙の中でたびたび、教会を一つの体に例えています。(ローマ12:4~5、エフェソ4:16)パウロは、教会のあるべき姿として、能力や財産で差別されない、互いに罪を赦し合う、喜んで献げるなどを勧めました。しかしコリントの教会には派閥争いがあり、貧富・身分差別があり、パウロを泣かせました。パウロは、「あなた方は新しく生まれた者ではないか」と呼びかけます。
 わたしたちの体は、常に部分的な死と再生とを繰り返します。神様は、霊的な死と再生、罪に死に、新しい命に生きることを、見える形でわかりやすく体験させてくださっているのです。それは何のためか。18節『神は、キリストを通してわたしたちを神と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。』とあるように、わたしたちを世に遣わして和解の使者とするためです。
 「和解」の「和」は足し算の答えのごとく、まとまることを意味します。「解」はほどくことです。逆の意味を持つこの二つの漢字がくっつくと、平和と理解を表す言葉になります。イエス様の言葉に置き換えれば、「和」は神の平安、その土台は無償の愛です。「解」はマタイ16:19によれば、罪の赦しを表します。「和解」はイエス様において「愛と赦し」です。
 東京神学大学編纂「組織神学辞典」には、「和解」と「贖罪」は同義と考えてよい、と書かれていました。わたしたちがその使者となるべき和解と、神の独り子イエス様の十字架の贖いは、神にあって同じ意味だというのです。21節『罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。』和解の使者として、主と共に歩みましょう。
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主イエスは生まれた

ルカによる福音書2章8~20節

澤田 武師

主題聖句 「これがあなたがたへのしるしである。」 ルカによる福音書2章12節b
 「クリスマス」と聞いた時、世間では華やかなイベントや、イルミネーションの輝きを連想する人が多いのではないでしょうか。しかしこのイメージは、クリスマスの季節に、かえって孤独感や淋しさを強く意識する人を産み出していることも事実です。ある人たちには、楽しさよりも苦しみを感じる季節となっているのです。“誰”と“どのように過ごすのか”、普段なら気にもならないことが心に留まって、外が美しいほど自分を惨めに感じてしまうのです。
 神様のご計画により、クリスマスの出来事はただ一度、世に与えられました。教会は、全ての人に向けて、その心の罪の暗闇から救うために、イエス様のお誕生は事実起こったのだと、クリスマスを伝え続けています。
神様は「ヨセフ」、「マリア」、そして「羊飼いたち」に、クリスマスの重要な役割を託されました。何故彼らが選ばれたのかは、私たちには分かりません。しかし、彼らは神様からの「しるし」をそれぞれ見て、信じました。
 羊飼いたちに与えられた「しるし」は、救い主イエス様は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」としてあるということです。彼らは神様のお言葉を信じてすぐに立ち上がり、彼らに与えられた「しるし」をベツレヘムの村へ探しに出かけて、ついに探し当てました。
 神様は、私たちが見たいものではなく、見なければならないものを示されます。クリスマスもそうでした。神様が人として、飼い葉桶の中に生まれ、さらに十字架で死なれた、復活された、信じられないことです。しかし、そのあり得ない出来事こそが、私たちに救いが与えられた「しるし」としての事実なのです。「これがあなたがたへのしるしである」、この知らせは全人類に与えられた救いの「しるし」でした。「主イエスは生まれた」この喜ばしい知らせは、全世界で祝われ、永遠に伝えられます。
 主イエス様のお誕生を最初に知らされた羊飼いたちは、このしるしを確認した後、日常の仕事に戻りました。羊飼いたちと同じように、私たちも神様をあがめ賛美しながら、それぞれの生活の場に帰りましょう。
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主の力が及ぶ

ルカによる福音書1章39~45節

澤田直子師

主題聖句 『この子には主の力が及んでいたのである。』 ルカによる福音書1章66節より
 ザカリアは祭司でありながら、主の天使の言葉を信じなかったがために言葉を奪われました。そして、ザカリアとエリサベトに男の子が誕生し、その名づけの日に、天使の言葉に従って「ヨハネ」と名付けたその時に言葉が返されました。ヨハネとは「神の贈り物」という意味です。お祝いに来た親類の人々は、今までそういう名の人がいないからと、ザカリアと名付けようとします。「今まで」にこだわる親類に対して、エリサベトもザカリアも「この子の名はヨハネ」と言い切りました。
 教会も「今まで」に固執して変化を嫌うことがあります。神の贈り物は、いつも、思いがけない、全く新しい形をとって与えられます。「今まで」にこだわることなく、神の御心を聞いていきたいものです。
 マリアもザカリアもシメオンも信仰の篤い人たちでした。しかし、信仰者の生涯は決して楽しい事だけ、嬉しい事だけでできているわけではありません。それはわたしたちも同じです。「主の力が及ぶ」ここは、他の聖書では「主の御手が彼と共にあった」と訳されています。神様の使命を受け取る時、神様は絶対にわたしたちを孤独にはしないのです。何よりも使命と共に神の御手があり、主の力が信仰者に及びます。
 ザカリアとエリサベトは、おそらくヨハネが成人する姿を見なかったでしょう。祭司の家にようやく与えられた跡継ぎの息子は、救い主の道を備える使命を与えられ、祭司にはなりませんでした。イエス様を「神の子羊だ」と指さしたヨハネ自身も、十字架も復活も見ずにヘロデ王に殺されました。主の御手が共にある生涯とは、こういうものです。
 わたしたちにも、主の御手が共にあり、主の力が及びます。わたしたちは弱く貧しい者であり、神の力は弱さの中に完全に働くからです。幼子イエス様が来られたのは、貧しく暗い家畜小屋であり、名もなく権力もないヨセフとマリアの家でした。クリスマスが近づいてきます。主の御手にゆだね、期待して、世に出て行きましょう。
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なんと幸いでしょう

ルカによる福音書1章39~45節

澤田 武師

主題聖句 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
        ルカによる福音書1章45節

 クリスマスの出来事は、特別な者でなく普通の人が、突然の神様からの知らせを信じて受け入れ、御心に従って主の御業を担う者へと変えられた事実です。聖書はそう記しています。それはなぜか。神様は天地創造の時から、御心に一緒に働く者として、人を用いようとされているからです。神様のご計画が無理難題のように思える者には「信仰の励まし」をも与えてくださいます。
 天使ガブリエルはマリアに、親類のエリサベトも不思議な体験をしていることを知らせました。マリアは急ぎエリサベトの元へ向かいます。神様はエリサベトとの出会いを備えてくださいました。マリアを励ますために、確信を持たせるために、エリサベトを用いられました。
 神様が創られ支配されるこの世で、時代が変わるしるしとして、この二人の女性が出会います。それは同時に、救い主と、主の道筋を整える者とが出会ったことを意味します。エリサベトのお腹の子、後の洗礼者ヨハネは、母の胎内からイエス様と出会った喜びを伝えます。エリサベトは、天使が知らせた我が子ヨハネの働きを今知りました。エリサベトは声高らかに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」このエリザベトの言葉こそが、マリアへの信仰の励ましになりました。二人の出会いは、彼女たちが、救い主イエス様のお誕生を、確信をもって待ち望む者となったことを証ししています。恐らく彼女たちの身に起った事実は、誰に話しても信じてはもらえなかったでしょう。しかし神のお取り扱いを受けた者同士はそれと分かるのです。
 エリサベトの言葉は私たちへの励ましの言葉です。私たちも「幸いな者」なのです。先にイエス様を信じた者のアドベントの歩みは、クリスマスへの喜びの歩みです。私たちの罪の贖いのため、自ら十字架に掛かってくださったイエス様と出会った者、イエス様を信じた者の出会いは、互いに「なんと幸いでしょう」と、励まし合うことができるということなのです。
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神は共におられる

マタイによる福音書1章18~23節

澤田 武師

主題聖句 「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 マタイによる福音書1章23節c
 「夫ヨセフ」の苦悩は、婚約中のマリアが聖霊によって身ごもったことが明らかになったことから始まりました。ヨセフは律法を守る 「正しい人」でした。律法に従えば姦淫の罪の裁きは石打の刑、訴えた者が裁きの最初の石を投げることになります。ヨセフが最初にマリアに石を投げなれければなりません。苦悩は深まります。
 「正しい」という言葉には「憐み」という意味もあります。ヨセフは「表ざたにすることを望まず」マリアを隠して、その後、離縁しようと決心します。これは、ヨセフの精一杯の「憐み」として、マリアに対する愛の証しとしての、心の表われでした。
 その夜、ヨセフは夢の中で主の天使に「ダビデの子ヨセフ」と呼ばれました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。…その子をイエスと名付けなさい。…自分の民を罪から救うからである。」この呼びかけは、突然に、クリスマスを担う者としてのヨセフの歩みが始まったことを表しています。神様に託された一人の人間ヨセフが、お言葉を信じ、自らの「恐れ」を乗り越えた時に、イエス様の十字架へと続くイエス様のお誕生、クリスマスを担う使命が与えられたことを表しています。
 使命とは、その目的のために、命を使うことです。命を削る、命を捨てて生きることの覚悟です。それが復活の勝利と栄光に至る道であったとしても、この時はまだ、だれも神様のご計画であるとは理解できません。
 マタイはヨセフの言葉を一切記していませんが、ベツレヘムへの旅、宿屋を探す夜更け。イエス様がお生まれになった後でも、親子の命を守るためにエジプトへ逃げ、新たな土地で生活することを、神様はヨセフに託されました。そこには忠実に与えられた使命を担う、ヨセフの姿が記されています。
 ここに、ヨセフの「神は我々と共におられる」とのお言葉を信じて、その生涯をかけた者の生き様があります。
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