主の力が及ぶ

ルカによる福音書1章39~45節

澤田直子師

主題聖句 『この子には主の力が及んでいたのである。』 ルカによる福音書1章66節より
 ザカリアは祭司でありながら、主の天使の言葉を信じなかったがために言葉を奪われました。そして、ザカリアとエリサベトに男の子が誕生し、その名づけの日に、天使の言葉に従って「ヨハネ」と名付けたその時に言葉が返されました。ヨハネとは「神の贈り物」という意味です。お祝いに来た親類の人々は、今までそういう名の人がいないからと、ザカリアと名付けようとします。「今まで」にこだわる親類に対して、エリサベトもザカリアも「この子の名はヨハネ」と言い切りました。
 教会も「今まで」に固執して変化を嫌うことがあります。神の贈り物は、いつも、思いがけない、全く新しい形をとって与えられます。「今まで」にこだわることなく、神の御心を聞いていきたいものです。
 マリアもザカリアもシメオンも信仰の篤い人たちでした。しかし、信仰者の生涯は決して楽しい事だけ、嬉しい事だけでできているわけではありません。それはわたしたちも同じです。「主の力が及ぶ」ここは、他の聖書では「主の御手が彼と共にあった」と訳されています。神様の使命を受け取る時、神様は絶対にわたしたちを孤独にはしないのです。何よりも使命と共に神の御手があり、主の力が信仰者に及びます。
 ザカリアとエリサベトは、おそらくヨハネが成人する姿を見なかったでしょう。祭司の家にようやく与えられた跡継ぎの息子は、救い主の道を備える使命を与えられ、祭司にはなりませんでした。イエス様を「神の子羊だ」と指さしたヨハネ自身も、十字架も復活も見ずにヘロデ王に殺されました。主の御手が共にある生涯とは、こういうものです。
 わたしたちにも、主の御手が共にあり、主の力が及びます。わたしたちは弱く貧しい者であり、神の力は弱さの中に完全に働くからです。幼子イエス様が来られたのは、貧しく暗い家畜小屋であり、名もなく権力もないヨセフとマリアの家でした。クリスマスが近づいてきます。主の御手にゆだね、期待して、世に出て行きましょう。
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