起き上がりなさい

ヨハネによる福音書5章1~13節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」 8節
「その水が動いた時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、癒される」この病人は「べトザタ」の池の奇跡を信じて、池の周りにある回廊に体を横たえながら、その時を待ち続けていました。しかしその一方で、自分一人では池の中に入る事さえもできない現実も知っています。
 その病人にイエス様は「良くなりたいか」と呼びかけられ、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と命じられました。この奇跡は、新たな「安息日」の議論を呼び起こし、最終的にはイエス様が十字架へと向かわれる道に続きます。
 この男の姿は、私たち信仰者の姿です。私たちも理由をつけて神様の「良くなりたいか」、のお言葉を信じられない時があります。究極の「良くなる」とは、神様が創造された人の姿に戻ること、罪に覆われ、神様との間に隔たりを作った者が、もう一度神様のもとへと戻ることです。創世記1:31「見よ、それは極めて良かった」この時の人間に戻ることを、神様は求めておられるのです。
 それは、病気の癒しだけではなく、新しく与えられた命を生きることです。神様は絶えず、私たちに「良くなりたいか」と、問いかけておられます。それは日々新たに生かされる「新生」の恵みであり、悔い改め、聖霊によって造り変えられる「聖化」の歩みです。
 「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」イエス様のお言葉により、この病人は自分の足で立ち上がり、自分の足で歩き始めます。それはこの病人を取り囲んでいた「隔たり」が打ち壊され、解放されたことになります。神様との新しい歩みを始めたこということです。
 この病人は38年間、ベトザタの池の水が動くことを見つめていました。そこにこそ癒しがある、そこに神様の救いがあると思っていました。その病人の視線を変えたのが、イエス様のお言葉です。ここから一人で立ち上がること。自分の足で歩くこと。これが病気からの癒しであると同時に、この人の救いの証しであることを示されました。
 イエス様は「良くなりたいか」と声をかけてくださいます。そして、この世で苦難の中に在る者に、今日も「起き上がりなさい」と励ましてくださいます。
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何をもって信じるか

ヨハネによる福音書4章43~54節

澤田直子師

 ヨハネによる福音書2~4章は、ユダヤ人だけが救われる時代は過ぎ去り、全ての人が神の救いに入ることを証ししています。2章のカナの婚礼では、水を汲んだ僕がまず奇跡を目にしました。3章では律法学者でユダヤの議員であるニコデモに「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」との真理の中の真理を教え、4章ではサマリアというユダヤ人が忌み嫌う中でさらにつまはじきにされている女性がイエス様に出会います。さらにその後で、ヘロデ王に仕える役人の息子を救います。
 父親は息子を助けたいと必死でした。頭を下げるのも、お叱りを受けるのも覚悟の上でイエス様に頼ったでしょう。逆に言うと、これくらいの必死さでなければ、イエス様のところには来なかったかもしれません。この父の苦しみを見たイエス様は「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言ってくださいました。父はそれを信じて帰りました。イエス様を信じることに賭けたのです。条件が揃えば信じましょうというのは「信用」、無条件で信じることを「信頼」と言います。父親は、自分の意志でイエス様を信頼することを選び取りました。
 帰り道で、家から来た僕に会うまで、父親は心の中で戦ったと思います。やはり頼み込んで一緒に来ていただくべきだった、いや、あの方のお言葉は信頼するに足るものだった、と、誰の目にも見えない心の中の戦いを繰り返しながら歩いて行ったでしょう。このチャレンジは成功しました。息子の命が助かっただけでなく、一家がこぞって主を信じ、永遠の命をいただく者となりました。使徒言行録16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」恵みは信じた者一人にとどまらず、さらに広がってゆくのです。
 わたしたちは、毎週礼拝に集います。礼拝の中で、祈りにも賛美にも、もちろん説教にも主の御言葉が満ち満ちています。御言葉を信じて帰る者でありたいと願います。条件が合えば、ではなく、自分の意志で信じることを選び取りましょう。
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主と心を一つにして

列王記上8章54~61節

澤田直子師

 列王記上8章は、神殿奉献の際にソロモン王が奉げた祈りが記されています。王の権威を誇示することなく、イスラエルの民への愛が満ち、足が地についた素晴らしい祈りです。
 ソロモン王が即位して4年目に基礎を据え、そこから7年かけて作り上げた壮麗な神殿に、神は「ここにわたしの名を置く」と言われました。もとより全知全能にして全てを支配される神をお納めする場所など、天地のどこにもあり得ませんが、神は、人と神との聖なる交わりの場として神殿にその名を置いてくださったのです。聖書においては、名前はその存在そのものを表すとされています。神の名が置かれる神殿は、神の臨在の場、祈りによって神と人とが結ばれる場に他なりません。
 現代では、教会がその役目を果たしています。わたしたちが主日ごとに教会に集い、祈りと賛美を献げ、献金をお献げするのは、ここに神の名が置かれているから、神様がわたしたちの祈りを近しく聞いてくださるところだから、そのためにこそ、ここが建てられたからです。祈りは、神様の存在を近いものにし、祈る者を変えていく力、祈る者を通して、世を変えていく力を持ちます。
 58節から60節まで、この990年後にイエス様が弟子に教えた「主の祈り」と何と似ていることでしょう。また61節『主と心を一つにし』とは何と真実で美しい祈りでしょう。それは、イエス様のゲツセマネでの『わたしの願いではなく、御心のままに』であり、十字架につけられながら『彼らをお赦しください、自分が何をしているか知らないのです』という祈りです。主と心を一つにしたいと願う時、わたしたちの外側の状況はどのようなものであれ、心の内には愛と平安が満ち満ちるのではないでしょうか。しかしながら、破れがあり傷を持つわたしたちの心を主と一つにするには、「明け渡し」「委ねる」ことが必要です。
 イエス様に息子の癒しを願った父親は『信じます。信仰のないわたしをお助けください』と叫びました。主に全てをお委ねしていきましょう。
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旅の終わりの朝

ヨハネによる福音書21章1~14節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と
        問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」  12節

 ヨハネによる福音書では、復活されたイエス様が弟子たちと再び出会ってくださったのは、ティベリアス湖畔であったと記しています。以前この湖の漁師だった弟子たちにとって、この朝の出来事はイエス様と一緒に歩んだ三年間を思い出させるように進んで行きます。「わたしは漁に行く」ペトロは生活の糧を得るために漁に行きましたが、何もとれませんでした。イエス様は失意の中にある弟子たちに、奇跡をもってご自分を現わされました。     
 3節~6節の出来事は、ルカによる福音書5章のペトロの召命記事の内容と似ています。ルカ福音書では「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、復活のイエス様は「網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と、生涯に2度、「漁をする」ことをペトロに命じます。イエス様は私たち一人一人にも「網を打て」と、命じておられます。イエス様の御旨であると信じても「ここで網を打つのか」と、戸惑いを感じる時があります。しかし、信じ従った者だけが、イエス様が備えてくださった糧を得ることができるのです。
 湖畔にはイエス様が用意してくださった朝ごはんがありました。ここに二つ目の奇跡があります。イエス様のお言葉が、信仰の糧を生み、その糧が、弟子たちの空腹を満たす肉の糧となりました。ヨハネ福音書は5千人の給食の時、一人の少年が献げたパンと魚が、豊かな糧となったことを記しています。献げられた糧は小さな物でありましたが、イエス様が誰にも不足なく、豊かに増やしてくださいました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、弟子たちはイエス様の食卓へと招かれます。ヨハネ福音書はイエス様が復活された最も確かな事として、迫害を逃れ、豊かな糧を与えられた朝の出来事を証ししています。しかし、弟子たちはここに留まっていることはできません。弟子としてイエス様と共に歩んだ旅は終わりました。ここから、新たに使徒として世界中に散らされて行くのです。私たちの生涯の旅が終わる時まで、復活のイエス様を証しする者として歩んで行きましょう。
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約束の復活

マタイによる福音書28章1~10節

澤田 武師

主題聖句 「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。
        さあ遺体の置いてあった場所を見なさい。」  6節

 自然界の中には一旦は死んだように見えても生き続ける、「再生力」の強い生物がいます。また、仮死状態から「蘇生」させる医療技術が進歩し続けていることを、私たちは知っています。しかしイエス様の復活は完全なる死からの復活でした。それは常識では受け止めることの出来ない事実として、女性たちに現わされました。
 イエス様が死から「復活」されたのは事実です。イエス様の復活を信じた時、それは神様のご計画が人類の歴史の中に、ただ一度与えてくださった出来事であることが分かります。
 マタイは「大きな地震、天使の降臨、墓が開けられた」と、イエス様が復活された朝の様子を記しています。「地震」は神様が起こされました。それはそこに居合わせた者たちだけに感じさせた、古い秩序が揺り動かされる、新しい時代が始まるという神様の証しです。天使は墓を塞いでいた石を転がします。墓が打ち破られた。死が打ち破られた。これらの出来事は、イエス様が復活されたことを証ししています。「復活」を目撃した兵士は「恐れ」に覆われ、「死人のようになった」と、記されています。屈強である兵士たちが、無力になってしまう。神様の前には、人の力は「無」となってしまう事実があります。
 女性たちもイエス様の死の前には無力でした。しかし天使は「恐れることはない。十字架につけられたイエスはここには居られない」。復活は「約束されたこと」であり、事実として「遺体の置いてあったところを見なさい」と女性たちにイエス様がここには居られないことを確認させます。そして、弟子たちに「先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と伝えることを托します。
 イエス様は女性たちに「おはよう」と挨拶をされました。この言葉の本来の意味は動詞の「喜ぶ」という言葉の命令形「カイレテ」です。イエス様は「喜べ」と女性たちに命じました。復活したわたしと出会った、その良き知らせを告げる者として新たな使命を与える。
 イエス様は十字架の死より、復活されました。復活は全ての恐れを喜びへと変えてくださいました。これこそが福音です。信じましょう。ここに良き知らせがあります。
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