主に望みを置いたから

イザヤ書40章27~31節

佐々木良子師

 「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(31節)今年教会に与えられた御言葉です。改めて主イエスから頂いた恵みを思い起こしながら、感謝をもって2016年に向かって力強く羽ばたいていきたいです。
 この時代のイスラエルの民は、敵国のバビロンに捕虜として捕らわれ希望を失くし、神に忘れられたと不信仰に陥っていました。これに対し神は仰せになります。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのもの造り主。」(28節)地の果てでも何時も生きて働いておられ、私たちの破れや苦しみを担われるだけではなく、そこの最も深い暗闇の中で支えてくださっておられるのが神です。暗闇があまりにも長いと人は神に見放されたと思いがちですが、それは私たちの思い込みであって、神は決して忘れたりなさいません。羊飼いとしていつも私たちの群れを養ってくださり、一人一人の名を呼び関わってくださっているのです(11節)。
 キリスト教は希望の宗教と言われていますが、その希望は真昼の光ではなく「夜明けの光」だといいます。夜明け前が一番深い暗闇ですが、正にそこに一筋の光となって、私たちと共におられるためにイエス・キリストがクリスマスに人となってこの世にご誕生され、十字架の道を歩んでくださいました。
 主イエスは力強く語っておられます。「・・・あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)主イエスは全世界の罪と死を担われ、十字架にお架かりになり勝利を得られました。ゆえに私たちはその救いの恵みの元に生きる者とされているから、大丈夫と宣言してくださっています。聖書でいう勇気とは、私たちが苦しみの中から忍耐して得た力ではなく、キリストと結ばれて生きる時に与えられる揺るがない救いの喜びに満たされている力です。ルターという人物は「勇気」という言葉を「慰められてあれ」と語っています。慰めとは「傍らに立って支える」という意味で、勝利された主イエスがいつも私たちの傍らにおられ、私たちの全存在を受け止め支えてくださっていますから恐れることはありません。自分は何ができるかを数えることなく「何もできない」ことを受け止め、勝利された主イエスから頂く力に期待して歩んできました。この力に満たされた一年に感謝いたします。

クリスマスを求めた旅人

マタイによる福音書2章1~12節

佐々木良子師

 信仰問答集というもの中に「人間最上の幸福は何ですか?」という問いがありますが、その答えは「神を知ることです」とあります。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)と、仰せになっておられます。正にその主イエスのご誕生の前に、東の国からエルサレムを目指して旅する3人の占星術の学者たちが、イエス・キリストを求めて旅した事が記されています。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2節)神はこの星によって彼らを導かれました。彼らはその導きに従うために、今まで住み慣れた家や仕事、積み上げてきた名誉や財産などに執着することなく、その場から一歩踏み出したのです。
 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。・・・幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(11節)彼らは主イエスとお会いし、喜びに溢れて礼拝をおささげして、献身の徴として最高の献げものをしたことが、クリスマスの時に代々語り継げられています。彼らはこの時当然、「人間最上の幸福は何か」という明確な答えを握りしめていた訳ではなかったことでしょう。彼らの思いは「イエス様にお会いしたい」というその一点でした。その結果、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」のです。
 この喜びとは厳密にいうなら「非常に大きな喜びを喜んだ」ということで、今まで味わったことのない、この世にはない喜びだったのです。つまり、「人間最上の幸福」に出会ったのです。イエス・キリストに出会うということは、このような特別な喜び、人間として最上の喜びなのです。神はこのことを占星術の学者たちを通して、クリスマスに私たちに示しておられます。
 それとは対照的に「不安」に怯えるヘロデ王とエルサレムの人々の姿が記されています(3節)。不安の理由はそれぞれ違いますが、共通するのは今の自分たちの生活、立場を守ることに固執し一歩踏み出せない事です。信仰とは確固たる保証があって進むものではなく、「主イエスにお会いしたい」と、神との出会いに期待する事から始まります。そこには既に大きな喜びが準備されています。

クリスマスがわかる

ルカによる福音書2章1~21節

佐々木良子師

 「いと高きとこには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)最初のクリスマスの夜、ユダの野原で野宿しながら夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたちの上に天使たちの賛美が響き渡りました。そして今度は彼ら自らが主を賛美するものとなりました。暗闇の中で誰にも目を留められないような彼らが世の光となった瞬間です。それは羊飼いたちのもとに、今まで聞いたこともなかったような喜びのニュースが届けられたからです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」(11節)
 イエス・キリストの誕生のニュースは、それは聞いただけでは「不思議な出来事」で終わってしまい、そこには何も起きません。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」(15節)彼らは伝えられたその言葉に従ったのです。
 クリスマスの出来事はこのように、羊飼いたちが語られた言葉を疑うことなく、直ちに行動を開始した所から始まりました。神は「光あれ」との言葉によって、天地創造の業を完成されました。神の語られる言葉は必ず現実の出来事となって成し遂げられ真実です。「…わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)
 更にそれは特別な人々や特別な場所で語られるのではなく、羊飼いたちの日常の生活の中で起きました。神が彼らの近くにあって関わってくださり、救いの業を示されたのです。神はいつも私たちの生活の場に介入されて御業を行われ、そこで私たちは神と出会います。そうして神の語りかけを聞きながら歩み続けていくのが信仰の道です。
 「羊飼いたちは見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)羊飼いたちは日常の生活の場で神の語りかけを聞き、そこから一歩踏みだし、又、自分たちの生活の場へ賛美して戻って行きました。私たちも暗闇の中で主が語りかけてくださったから、教会に集い礼拝をお捧げし、神と出会い、感動と賛美をもって日常の生活の場に戻るという、毎日がクリスマスの出来事を体験させて頂いているのです。

クリスマスはどこから

イザヤ書9章1~7節

佐々木良子師

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1節)イザヤという預言者は、最も深い暗闇の中にある人々に向かって大きな光が照り輝くと預言し、実際に人知を超えるほどの天上の光の大きな喜びが明るく輝いたのです(2~4節)。
 神から特別な民として選ばれたイスラエルの民は、神に背き続けた結果、繰り返し敵国からの侵略を受け、次々と諸外国の支配下に置かれるという悲惨な歴史を刻むこととなりました。そのため、北イスラエル地方は宗教的に純粋性が失われ、神の救い・祝福からほど遠い「異邦人のガリラヤ」(8:22)と、軽蔑された呼び名がつけられるほどになってしまいました。
 闇とは神を失い不信仰な状態を指しています。神がどんなに私たちを愛して呼びかけてくださっていても、応えようとしないことを聖書では罪といいます。イスラエルの民のように不信仰な状態は、正に暗闇の中にいるということで、本来の人間のあるべき姿ではないのです。
 そのような暗闇に住む人々の救いのために「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。・・・」(5節)と、神の愛の実現としてクリスマスにご誕生されたのがイエス・キリストです。全人類に対する完全な罪の赦しのために、既に成し遂げられましたから誰一人暗闇の中を歩む必要はなくなったのです。
 「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(6節)と記されている如く、神の熱意、熱心、情熱によって成し遂げられるものです。私たちが必死に努力するものでもなく、又、人の不信仰も妨害できない「永遠」に変わることのない一方的な神の愛によって与えてくださった希望です。私たちは神から差し出された愛を感謝して受け取るだけで、神の真実の愛の中に永遠に生きることができます。
 今、私たちの世界も当時のイスラエルのように、暗闇の危機的状況の中にあります。預言者イザヤは現代のこの世にも向かって語っています。「ひとりのみどりご」を通して与えられているこの希望を全ての人々が受け取ることを。世界中に大きな光が輝き、命と平和がもたらされることが神の御心です。イエス・キリストによる救いとご支配がこの私に、教会に、そしてこの地上になされますように祈ります。