羊になるか、山羊になるか

マタイによる福音書25章31~46節

 やがて主イエスがこの世においでになった時、羊飼いが羊と山羊を分けるように、私達を祝福された者として用意されている天の御国か(34~40節)、呪われた者として永遠の火に投げ込まれるか、分けられます(41節以下)。その基準は「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し・・・」(35,36節)と、善い業を行ったか、否か、という事です。善い業とは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)と、主イエスに対して行った事だと言われます。
 となると「善い業を行わなくては」と、慌てますが天の御国に招かれる人は、行いではなく信仰による、と聖書に記されています(ロマ書3章他)。ここで求めておられる事は、一切の打算や邪心から解放され、純粋に心の底から神に感謝し、その結果として生まれた行為です。善い業、愛の行動の源は「救われる為の行為」ではなく、救われようもない、どうしようもない罪人であるにも関わらず、この私を愛して救ってくださったという「恵みに対しての神への感謝の行為」です。つまらない罪人のこの私が、只々、神の憐れみによって赦しを得て、このように生かされている、という感謝の確信からくるものです。人の原動力はその人の心がどこにあるか、一番大切にしている事は何か、で定まってきます。生きている時も死ぬ時にも、唯一つの慰めは、キリストの救いです。故に十字架に架かられた主イエスに感謝し、賛美する者に変えられて、顧みを求めない善い業を無意識にできるようにして頂けます(37~39節)。「神に仕える人は、どのような善い業をも行う事ができるように、十分に整えられます」(Ⅱテモテ3:17)と、あらゆる事を通して主イエスの為にのみ行動した結果が、善い業となって現れてきます。
 人に対して善い事をしても、相手に顧みを期待し、失望し果ては疲れてしまいます。しかし、神に対しての喜びによる感謝の行為は、益々恵みが加わり30倍,60倍,100倍の実を結ばせて頂きます。天国へ行く努力を自分でするのではなく、自分を誇りたがる者から、報いを求めず感謝して「喜んで仕えさせて頂いた」という者に造り変えられた時に、神が必ず導いてくださいます。

妊婦がこどもを産むように

テサロニケの信徒への手紙一5章1~11節

 人生には終わりの日がやってきますが、何となく終わるのではなく、キリストの再臨という、はっきりとした形で到来します。主イエスは天にお帰りになる前に、私達の場所の備えが終わったら、迎える為にお出でになると約束されました(ヨハネ14:1~3)。備えの時間は無制限ではなく、定められています。「・・・ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(2節) お産は日にちは分かりませんが、確実に子供が生まれる時がやって来ます。同じようにキリストの再臨は、時は分かりませんが、盗人が夜やって来るように、確実に到来します。神を計算に入れず、真実な悔い改めを伴わない安易な思いでいる時に、その意表をつくようにおいでになります(3節)。ですから「目を覚まし、身を慎む」(5節)事が求められています。身を慎むとは自制する事ではなく、神に心を止めて心が動かない事を意味し、常に神によって信仰生活を整えて頂く事です。
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたは、すべて光の子、昼の子だからです。」(4~5節)と、キリストのもとにある終わりの日は喜びの日・恵みの日で、計り知れない祝福へと招かれています。神は、赦し難い罪深い人間を憐れんで、イエス・キリストを与えてくださいました。「・・世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない」(ヨハネ3:17~18)
 神の愛を知った全ての人は、主イエスの十字架によって、暗闇から光の中へ、昼の子・神の子とされましたから恐れは無用です。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリ16:22)と、厳しいお言葉ですが裏返していうなら、神を愛する者は見放さないという事です。救われようのない者が救われたのですから、神を愛し感謝が湧き出てくるのは当然といえましょう。神を賛美し感謝を献げる日々は、自ずと神を悲しませる言動はなくなっていきます。同じ希望と目標を持った者として、神の恵みを語り、徳を高める建徳的な言葉を交わしながら主の再臨を心から待ち望みましょう。神を喜ばせる事につながります。

これだけはぜひ知っていてほしい

テサロニケの信徒への手紙一4章13~18節

 主イエスのことばに基づいて終末に関する事が記されています。「・・・主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにしていつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」(16~17節)キリスト者を空中へ携え上げられるという神秘的な状況が記されていますが、私達が命を頂いてこの世に誕生した時も神秘の中でした。誰もが神の御計画によって良く分からないままこの世へと引き出されました。同じように最後の時も神秘の中、神によって復活させて頂き天に引き上げられます。人の最初と最後は、私達の常識では理解できない神の御手の中にあります。
 聖書に記されている希望はイエス・キリストが再びお出でになり、私達を復活させてくださる事です。ですから礼拝時に世界中の教会が「・・・主の再び来たりたまふ日を待ち望む」と告白しています。信仰とは平安で、そこそこ幸せな生活を求めがちですが、主イエスがこの世に再びお出でになって復活させて頂く事が究極の求めです。罪の中に遭難し、死にかけているような私達ですが、そこから何としても助け、光のもとに永遠に生きる事ができるようにと、主イエスが再びお出でになって復活させてくださるのです。究極の救いです。
 主イエスがおいでになる時は、合図の号令がかかり、ラッパが鳴り響きます。先ずキリストと結ばれて死んだ者が最初に復活され、引き上げられます。その時「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」(ヨハネ5:28~29)と、最後の審判がくだされそれぞれの行いに報われますが、神の御意志は全ての人が滅びないで、尽きない恵みへと救い出したいと、再臨を遅らせています。残された者の悲劇に恐れるのではなく「いつまでも主と共にいる」(17飾)事ができるように悔い改めと共に、喜びと希望を持って備えるなら、神が私達を裁きより神の深い愛に目を向けさせてくださいます。

神癒

マタイによる福音書8章14~17節

「神癒」はホーリネス信仰の強調点、四重の福音(新生・聖化・神癒・再臨)のひとつである。今朝、私たちは神癒について学び、更なる信仰を求めよう。
【神の約束 1 】「わたしはあなたをいやす主である。」(先週の招詞 出15:26)
ヘブル語「いやす(ラーファー)」には、体や家などを「治療、癒し、回復、修復」する以外に罪や汚れから「清める、清くする」という意味がある。先週の交読文 詩103:3-4に謳われるように、神は私たちの肉体の病気や傷を癒やし、私たちを罪・汚れから清め、神との正しい関係へと回復させて下さる唯一のお方なのである。
【神の約束 2 】「主イエスこそ、私たちの究極のいやし主、救い主である。」
マタイ8:17はイザヤ53の引用である。主イエスは私たちの肉体を癒すと同時に、罪を赦して魂を癒されるお方である。ギリシャ語「いやす(セラピュオー)」は元来の意味「仕える、奉仕する」から転じて「治療する、看病する、手当てする、癒す」を意味する。それは、預言者イザヤを通して言われていたこと(神のご計画…イザヤ53章「苦難の僕」)が実現するためであり(マタイ8:17)、主イエスの十字架、「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(イザヤ 53:5b)」のである。主イエスの十字架は、死に至るまで父なる神に仕え、私たち全ての人々に仕えて下さった究極の癒しの御業である。
【神の約束 3 】「信仰に基づく私たちの祈り、正しい人の祈りに応え、主が病人を救い、主が病人を起き上がらせ、主が病人を癒して下さる。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださる。」
ヤコブ5:13-16によると、神癒とは私たちの祈りの力が病を癒すのではなく、主なる神が祈りに応えて癒やして下さるのである。その主が応えて下さる力ある祈りとは、信仰に基づく祈り、正しい人の祈りである。信仰に基づく祈りとは「主が必ず癒やして下さる!主が確実に許して下さる!」と主を確信する祈りである。あなたは正しい人か。正しい人とは隠れた罪を告白し合い、互いのために祈り、神に赦された人である。さあ、主を信じよう!苦しむ兄弟姉妹のために神癒を求めて祈り合おう。

聖霊に満たされる

エフェソの信徒への手紙5章6~20節

 神の恵みは、キリストの救いに始まって、聖霊に満たされるという連続性があります。そのように大いなる恵みは大きく分けて二つあります。
1. まず、キリストと結ばれて罪あるものが暗闇から光の中へと新しく生まれ変わった時に与えられる罪の赦しの恵みです。「・・・暗闇の業に加わらないで・・・明るみに出しなさい」(11節)隠しておきたい暗闇の部分を神の御前に出した時、イエス・キリストに結ばれ罪赦されます。神の前に立たせて頂いた時に初めて罪が分かり、自分の問題が見え始め、神の光のもとで実を結んでいくように、人間は変えられていきます。罪との関係において信仰生活のスタート時点となります。暗闇から光の中へと、誰もがこの出発点が与えられています(6~14節)。
2. 更にもう一段進むと罪赦された喜びから、神のご臨在の力と実りが我が内に満たされる喜び、という積極的な面に導かれます。これを「聖霊に満たされる」とも言いますが、決して霊的高揚という心の状態ではなく、清められて神のご性質に与かれるような状態、キリストの似姿となる事を求め、神を賛美し崇める状態を現します。常に神と親しく交わり自分が生きるのではなく、キリストが我が内に生きるよう神に明け渡し求める事です。
「・・・わたしが来たのは、羊が命をうけるため、しかも豊かに受けるため」(ヨハネ10:10)罪から救われた、という初めの恵みに留まる事なく、聖霊によって喜びあふれる信仰生活を送り続ける事が、神の目的でもあり神の確実な約束です。ですから「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18~19節)と、光の中で神を褒め称え、賛美と喜びの中を歩みなさいと仰せられます。キリスト教はあれもダメ、これもダメ、という縛られるものではなく、内なる喜びと賛美の宗教です。
しかし、クリスチャン生活を続けて行くうちに、自分は清められていない罪の性質が内側に残っている事に気づきがっかりしますが、それは神が与えるもので、私達が神の助けと満たしを求める為です。そして徐々にキリストを喜ばせる生活がしたい、と願うように変えられていきます。神を賛美し神の恵みで満たされ続ける豊かな信仰生活を送っていきたいものです。