妊婦がこどもを産むように

テサロニケの信徒への手紙一5章1~11節

 人生には終わりの日がやってきますが、何となく終わるのではなく、キリストの再臨という、はっきりとした形で到来します。主イエスは天にお帰りになる前に、私達の場所の備えが終わったら、迎える為にお出でになると約束されました(ヨハネ14:1~3)。備えの時間は無制限ではなく、定められています。「・・・ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(2節) お産は日にちは分かりませんが、確実に子供が生まれる時がやって来ます。同じようにキリストの再臨は、時は分かりませんが、盗人が夜やって来るように、確実に到来します。神を計算に入れず、真実な悔い改めを伴わない安易な思いでいる時に、その意表をつくようにおいでになります(3節)。ですから「目を覚まし、身を慎む」(5節)事が求められています。身を慎むとは自制する事ではなく、神に心を止めて心が動かない事を意味し、常に神によって信仰生活を整えて頂く事です。
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたは、すべて光の子、昼の子だからです。」(4~5節)と、キリストのもとにある終わりの日は喜びの日・恵みの日で、計り知れない祝福へと招かれています。神は、赦し難い罪深い人間を憐れんで、イエス・キリストを与えてくださいました。「・・世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない」(ヨハネ3:17~18)
 神の愛を知った全ての人は、主イエスの十字架によって、暗闇から光の中へ、昼の子・神の子とされましたから恐れは無用です。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリ16:22)と、厳しいお言葉ですが裏返していうなら、神を愛する者は見放さないという事です。救われようのない者が救われたのですから、神を愛し感謝が湧き出てくるのは当然といえましょう。神を賛美し感謝を献げる日々は、自ずと神を悲しませる言動はなくなっていきます。同じ希望と目標を持った者として、神の恵みを語り、徳を高める建徳的な言葉を交わしながら主の再臨を心から待ち望みましょう。神を喜ばせる事につながります。