その悲しみは喜びに

ヨハネによる福音書16章16~24節

澤田直子師

主題聖句 『しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。』
         ヨハネによる福音書16章22節b

 ヨハネによる福音書の14章からは、イエス様の「告別説教」と言われます。16章16節でイエス様が言われる「しばらく」はギリシャ語では「ミクロン」1ミリの千分の一を表す単位です。ですから、あっという間に、という感じです。イエス様は、これから十字架の死を迎える時に打ちひしがれるであろう弟子たちを励まそうとして、こう言われたのでしょう。
 創世記でエヴァが知恵の木の実を食べた時、神様は「苦しんで子を産む」またアダムには「塵に返る」と言われました。新しい命が生まれる時には大きな苦しみがあり、死によって分かれることが運命づけられました。わたしたちが新しい命を得るためにイエス様は苦しまれたのです。しかしイエス様は「また会う」と言われました。イエス様の死と復活は、わたしたちの死と復活です。ローマ6:4「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
 これを自分の事として受け入れる時、弟子たちの、わたしたちの祈りは変えられます。弟子たちは最後の晩餐の席上でさえ、「誰が一番偉いか」と議論をしていました。しかし、復活のイエス様に会ったその後は違います。何になるかではなく、どう生きるかに知恵と力を注ぐように変えられます。イエス様のお心を理解したからです。
 その時に悲しみは喜びに変わるのです。悲しみがなくなるのではありません。悲しみは悲しみとしてそこにありますが、その意味を理解するのです。悲しみはただ悲しみだけでできていたのではなく、その中に確かに主が居られた、それは喜びだったのではないか、と理解するのです。わたしたちの悲しみを共に悲しみ、喜びに変えてくださるお方を信じましょう。
したちはどのようにお応えできるでしょうか。
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これから始まる

ヨハネによる福音書9章1~3節

(ケルン・ボン日本語キリスト教会) 佐々木良子宣教師

主題聖句 『そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。』
         ヨハネによる福音書10章38b節

『「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』ヨハネによる福音書9章2~3節
 弟子たちの関心は目の不自由な人に対して、出来事の原因を過去に遡ることで、主イエスにその理由と説明を迫りました。しかし主イエスはそのことには一切触れず、「神の御業が現れるためである」と、一言だけ仰せになりました。
 主イエスの眼差しは、生まれつき目がみえないという現実に立ち止まらず、未来に開けている道筋・神がそこから御業を行ってくださる始まりをご覧になっていたのです。そして現代に生きる私たちにも、その御業を具体的にみることができるように、既にその道備えをしてくださっています。
 本当に目が見えなかったのは、弟子たちやその廻りの人々であったと言えます。そして私たちも同じです。目の前の困難やこの世のことに心捉われて信仰の目が閉ざされ、盲目になることが多々あります。私たちは真実に見るべきものを見ているでしょうか。見るべきものを見ていないのではないかと、主が問うておられる気がいたします。
 私たちにとっての不幸とは、人生に様々の苦しみや病や多くの問題を抱えていることではありません。この世でマイナスと思えるような出来事に盲目になり、神なき世界の暗闇の中に生きることです。私たちは弱い者ですから、困難なことに直面すると、後ろを振り返って原因探しをしたり、「・・・だったら」と、これまでの歩みを後悔したりします。しかしそのような時にこそ主イエスが見ておられる神の世界に焦点を合わせる必要があります。
 そのような歩みを通して、神様のご計画を知ることができ、キリストの愛の確かさ・恵みの力強さ・憐れみの深さを味わいながら信仰生活を歩ませて頂けるようになります。更にこの世に「希望の神」を指し示し、お証しできるように成長させてくださるのです。
 私たちの人生は様々な課題、苦しみ、時には病が与えられます。しかし、そこから始まる「神の御業」を見ることを可能にしてくださる主の力に希望を抱くことができることに感謝いたします。
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復活であり、命である

ヨハネによる福音書11章17~27節

澤田直子師

主題聖句 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」
        ヨハネによる福音書11章25節

 イエス様がベタニアに着いた時、ラザロは墓に収められて既に4日が経っていました。マルタの言葉には、イエス様に対する恨みの気持ちが見て取れます。神の愛のあらわれは「願いがすぐにかなえられる」という形をとるとは限りません。わたしたちは、愛の神様ならわたしの願いをすぐに聞いてくれるはず、と勘違いすることがあります。
 しかし、わたしたちには「時」が必要なのです。神様、なぜですか、どうすれば良いのですか、と祈りつつ、神様の「時」を信じて待つことが求められます。この時、これからエルサレムでどのような事が起こるのかを知っているのは、ただイエス様だけでした。イエス様は、ラザロの死を通して、死が終わりではないことを人々に教えておきたかったのではないでしょうか。
 マルタの信仰にも「死者の復活」という概念がありました。ユダヤ教徒として幼い時から教えられ、信じていたそれは、最後の審判の日には全ての被造物は神の前に立ち、裁きを受けるというものでした。その日にはラザロも自分も神の御前でもう一度出会うということでした。しかしイエス様の言われる「わたしは復活であり命である。」は全く意味が違います。
 イエス様は続けて「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われます。もちろんこれは肉体の命ではなく聖書的な死と命です。イエス様はこの後、十字架の上で神との断絶を受け止め、そして復活されました。「死んでも生きる」ことを、身をもって見せてくださいました。
 この時点で、マルタにはイエス様の言われたことは理解できなかったでしょう。しかしマルタは、そのゆえに、イエス様を信じると決意します。それが27節のマルタの信仰告白です。神はわたしたちに、神の無償の愛を理解してほしいとは思っておられません。ただ信じてほしいと願っておられるのです。
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神の栄光のためである

ヨハネによる福音書11章1~16節

澤田 武師

主題聖句 『わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。』
         ヨハネによる福音書11章11b節

 11章には「無名のキリスト者の死と復活の奇跡」が記されています。イエス様が友ラザロを生き返らせた奇跡は、イエス様が私たちの罪の贖いとしての十字架へと向かわれる、確かな第一歩であったということです。
 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエス様のお言葉は不思議です。愛するラザロのもとへ急ぐこともなく、また、マルタ、マリア姉妹への慰めのお言葉もありません。イエス様の御心を知ろうとする時に、戸惑いを覚えることがあります。私たちにも、苦難を選ばなければならない、担いきれない困難を神様は備えられたと、思う時があります。しかし神様の御心に不安を覚える時こそが、私たちの信仰が成長し、忍耐力が強められる時です。イエス様が私たちに求めておられる「時」なのです。
 二日の後「わたしは彼を起こしに行く」と、神様の栄光を現すためにイエス様は弟子たちとラザロの元に向かいます。病の知らせを聞いてから二日間待たれたこと、そして、今になって出かけようとされるイエス様の思いは、私たちには理解できません。強いて言えば「神様の時」であると言えます。
 被造物全ての最後は「死」です。決して免れない時です。イエス様の思いはラザロの死が完全になった時、誰もがラザロの死を受け止めた時、「死では終わらない」神様が介入される事実があることを示めされるために、イエス様が選ばれた最善の時であったと思われます。
 突然のラザロの死は、マルタ、マリア、彼らと共に生きる人々には、深い悲しみや嘆きを与えました。しかし、イエス様はこの死の悲しみ、嘆きを超えたところに、復活があることを知らされます。弟子たちに、絶望を感じる者たちに、この事実を見届けさせるために出かけます。
 私たちも、神様の試練の意味を知りたいと思います。祈りがかなえられない、苦難からの救いが遅いと嘆く時にこそ、深い神様の御心「神様の栄光」が現わされるためであることを覚えたいと思います。
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その業を信じなさい

ヨハネによる福音書10章31~42節

澤田 武師

主題聖句 『そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。』
         ヨハネによる福音書10章38b節

 再び石を取り上げたユダヤ人に、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」とイエス様は問います。
 ユダヤ人は「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」と答えます。
 この論争は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」と、受肉されたイエス様の本質を証しするために記されたものです。
 神様によって創られた被造物には、神様のすべてを知る事はできません。イエス様は「父なる神様から遣わされた方」であり、「神様の独り子として神様のすべてを知っておられる方」です。神様への冒涜を指摘出来るお方はイエス様の他にはおられません。
 ユダヤ人には律法の教えは絶対です。しかし、自分たちに都合の良いように、自己の正当を示すために用いているのも律法です。ここにユダヤ人の間違いがあります。ユダヤ人は生まれながら目が見えなかった人の癒しを、最後まで神様の業としてイエス様が行った奇跡と認めることはできませんでした。
 「その業を信じなさい」ある人物を本当に分かるのは「言葉と業」とによってです。それゆえに、イエス様の業だけでなく、イエス様のお言葉の内に神様の創造的、贖罪的な力が働いていることを信じる者たちは、イエス様が父なる神様と一体であることを知ります。
 この世を創られた神様は、全てを支配されてもおられます。それ故にこの世で起こることは全て神様の業であると言えます。私たちが感謝する心をもってこの世を見た時に、日常の出来事の中に神様のお働きがあることに気付かされます。イエス様は、再びユダヤ人の元から逃れます。「民は受け入れなかった。」ここに事実があります。
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永遠の命を与える

ヨハネによる福音書10章22~30節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。』
         ヨハネによる福音書10章28節

 22節の「神殿奉献記念祭」(別名「宮きよめの祭り」)とは、紀元前2世紀半ばに、アレキサンダー大王の影響で世界にヘレニズム文化が広がり、エルサレム神殿にギリシャのゼウス像が運び込まれ、ユダヤ人が偶像崇拝を強いられた事が始まりです。マカベア家のユダがこれを打ち破り、神殿を清めてユダヤ人の手に取り戻しました。
 このような、勝利の記念祭でしたから、気分が高ぶったユダヤ人はイエス様に詰め寄ります。「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエス様は、既に何度もご自分がメシアであることを言い表しています。しかしユダヤ人は、自分が聞きたいことしか聞いていなかった。イエス様との関係を自分から断ち切っていたからです。彼らほど真理を求め、懸命に律法を学び守った人々はいませんでした。しかし、彼らは自分が正しい、と思い込んでしまいました。だから、真の羊飼いであるイエス様の声を聞くことができなかったのです。
 わたしたち羊が、イエス様という羊飼いの声を聞き分けられるのはなぜでしょうか。それはおそらく、自信がないからです。自分は愚かで頑なな羊だ、正しいことを見分けられない羊だとわかっていれば、生きるためには羊飼いを頼るしかありません。羊は、羊飼いの庇護の元にさえいれば安全です。昨日のことを悩まなくてもいいし、明日のことを心配しなくても大丈夫です。しかし、そうとわかっていても、羊飼いの声だけを聞き、ただ羊飼いについて行くのが、何と難しいことでしょう。
 その愚かな羊に、イエス様は「彼らに永遠の命を与える」と言われます。「わたしは羊のために命を捨てる」と言われます。わたしたちの常識で考えたら意味がわかりません。永遠の命とは、決して途切れることのない神様の愛、深い絆です。わたしたちはどのようにお応えできるでしょうか。
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主は羊飼い

ヨハネによる福音書10章7~21節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』  ヨハネによる福音書10章11節
 羊飼いは、羊を高地へ連れて行き、何週間も留まって栄養のある草を食べさせます。夜には低い石垣の囲いの中に羊を入れ、入り口に自分が横になって番をします。これが「羊の門」です。イエス様は、ご自分のことを羊の導き手(羊飼い)であり、守り手(門)であると言われます。10節『羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』の「豊か」は、必要以上に、ありあまってあふれるほどに、という意味の言葉です。
 イエス様に飼われる羊である私たちが、豊かになるために、イエス様は命を捨てる、と言われます。この「捨てる」は、本来持っていなければならないものを、誰かのために自分の意志で手放す行為を表します。
 良い羊飼いであるイエス様は、ご自分の羊を知っておられるし、羊の方でも誰が羊飼いかを知っています。聖書で言うところの「知る」は、単に知識として知っているだけではなく、離れがたく結びつく深い関係を意味します。ですから、天の父なる神と独り子イエス様が深くつながっているように、イエス様と私たちも、離れがたく深い結びつきの中にあるのです。
 かつては囲いの中にいない他の羊であったパウロは、ガラテヤ2:20『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』と書いています。羊が羊飼いを見失って荒れ野に迷い出たら、生きていけません。イエス様の十字架を見失ってしまったら、命からどんどん離れて行ってしまいます。
 しかし、9節には『その人は、門を出入りして牧草を見つける』とあります。私たち羊は、イエス様につながる一方で、世にも出て行かなければなりません。ですから私たちは、礼拝に集い、祈りと賛美と御言葉に養われて、世に出て行き、そしてまたイエス様という門をくぐるのです。
 囲いに入っていない他の羊にも、私の羊飼いはこういうお方です、と証して歩む信仰者でありたい、と願います。
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先頭に立って行く

ヨハネによる福音書10章1~6節

澤田 武師

主題聖句 『自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
        羊はその声を知っているので、ついて行く。』  ヨハネによる福音書10章4節

 旧約聖書では、「羊飼いと羊」の姿を、「神様と人間の関係」に何度も譬えています。羊飼いは、羊を守るためには絶えず見守り、羊に名前を付けて慈しむ愛の資質が要求されます。そこに「羊飼い」が、神様のご性質の譬えに用いられている理由があります。
 羊は「私たち」の姿です。羊は近視なので遠くを見ることはできません。そのため迷ってしまうことがあります。羊は、荒野では、羊飼いの声を聞き逃しては生きてはいけません。だからこそ「羊飼いと羊」の姿が、神様と人間との関係の譬えとなると言えます。
 門が開かれて、聞きなれた羊飼いの声に外に出てくる羊の姿は、ユダヤではありふれた光景です。それはまた、「神様と人間との理想の関係」でもあります。目の見えなかった人が癒しの奇跡によって変えられ、イエス様との新しい関係となったことにも表されています。
 イエス様は、羊飼いは「門から入る者」であり、「羊の名を知っている者」であると言われます。目の見えなかった人は、この世の偏見という「囲」に閉じ込められていました。彼を閉じ込めていた苦しみや悲しみにイエス様は近づかれ、癒しの奇跡を行われました。「あなたは人の子を信じるか」との声を彼は聞きます。聞き覚えのある声に、「主よ、信じます」と、彼は信仰告白をもって応答します。
 この譬えは、私たちの信仰生活の戦いをも表しています。イエス様は私たちの名前を呼び、恵みへと導いてくださいます。しかし、そのお声が分からなくなる時があります。周りの声に消されてしまう時があります。心の声が勝る時があります。ここに信仰の戦いがあります。羊である私たちがどんな状況にあっても「イエス様は止むことなく見守っていてくださる」ということを大切にしてゆきましょう。この事実に私たちも「主よ、信じます」と応答してゆきましょう。イエス様はいつでも、全ての者を導くために「先頭に立って行く」準備をして待っておられます。
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あなたは見ている

ヨハネによる福音書9章35~41節 

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』
         ヨハネによる福音書9章37節

 癒された事実を証詞し続けた結果、目が見えなかった人へのファリサイ派の判決は、会堂から追放するということでした。イエス様の癒しの奇跡により、生まれて初めて光を見ることができた彼の喜びは、すぐ元の闇の中に閉じ込められることになりました。当時のユダヤ社会では宗教と生活は一体です。会堂から追放されることは、彼が社会との交わりから断たれた生活に戻ることをも意味しています。しかしこの出来事によって「神の業がこの人に現われるためである」とのイエス様の約束は、成就する時を迎えます。
 「あなたは人の子を信じるか」、聞き覚えのある声に彼は驚いたと思います。しかし、その声の主(ぬし)の姿は、彼には分かりません。イエス様の呼びかけは、信仰の迫りです。それは彼にとっては突然であったとしても、イエス様のご計画では、彼の救いは既に備えられた事でした。
 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」イエス様のお言葉は、彼の信仰の目をしっかりと開かせ、「主よ、信じます」と、彼を信仰告白へと導きました。彼はイエス様をハッキリと見つけました。 
 彼はユダヤで生きるすべを失う覚悟で、自分に起こった癒しを証し続けました。これまでの彼の生活は、与えてもらうことが全てでしたが、イエス様との出会いは、全てを捨てる覚悟を彼に与えました。彼は、何が一番大切なのかを見極めることができたのでした。
 ファリサイ派の「我々も見えないということか」との言葉に、イエス様は応答されます。彼らは知識を学び、確かに信仰熱心でした。しかし、目の前のイエス様の本質を見ることはできませんでした。自分たちの信仰の知識が、イエス様を遠ざけてしまいます。イエス様は、信じる者と信じない者とを分けます。「見ようとしない者」イエス様に裁かれた罪人の姿があります。
 私たちは聖書の中で、いつもイエス様と出会い、イエス様のお言葉を聞いています。聖書には一人一人が必要な時に、ふさわしい御言葉が備えられています。聖書の中に、イエス様のお姿をしっかりと見つめて行きましょう。
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ただ一つ知っているのは

ヨハネによる福音書9章24~34節

澤田直子師

主題聖句 『ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』
        ヨハネによる福音書9章25節

 「お前の目をどうやって開けたのか」ファリサイ派のように、「どうやって」にこだわると、聖書のメッセージを受け取る事ができなくなります。聖書を読む時は「どうやって」ではなく「なぜ」で読むと良いのです。なぜ、イエス様はこの人の目を開けたのか。それは、彼を憐れみ、癒してやりたいと思ったからです。彼の目はなぜ開いたのか。それは、イエス様のお言葉を信じて命じられた通りに行動したからです。
 ファリサイ派は「我々はモーセの弟子だ」と言いますが、本当の意味でモーセに従っているのならば、同時にイエス様の弟子ともなれるはずです。出エジプト記を読むと、ヘブライ人がどれほど頑なで愚かで、神に逆らってきたか、モーセがどんな思いでそのヘブライ人を率いとりなしたか、よくわかります。ファリサイ派は「どうやって」モーセの弟子のように見えるか、にこだわっているのです。
 目が開かれた人は、たとえ目が見えるようになったとしても、ユダヤ人社会の中では貧しく数に入らないような自分の姿をよく知っていました。おそらく平均的な教育も受けられなかったでしょう。それでも、30節からの信仰告白は見事なものです。彼は、自分に起こった事実だけ、自分を憐れんでくださったイエス様の愛だけを頼りに、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と言い切ります。もう見えるようになったのですから、うまく言い逃れて逃げてしまっても良かったのです。しかし、この人は勇敢にファリサイ派の前に立ちます。自分の身をもって経験し、握りしめたことは誰にも奪えません。
 わたしたちは、この現代に生きて、たくさんの情報を得ています。さて、その中で「ただ一つ知っているのは」と顔を上げて言うべきことは何でしょうか。それを、いつ、誰に言うのでしょうか。本当に知らなければならない真理を知り、証しすることができるよう祈りましょう。
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