主は羊飼い

ヨハネによる福音書10章7~21節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』  ヨハネによる福音書10章11節
 羊飼いは、羊を高地へ連れて行き、何週間も留まって栄養のある草を食べさせます。夜には低い石垣の囲いの中に羊を入れ、入り口に自分が横になって番をします。これが「羊の門」です。イエス様は、ご自分のことを羊の導き手(羊飼い)であり、守り手(門)であると言われます。10節『羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』の「豊か」は、必要以上に、ありあまってあふれるほどに、という意味の言葉です。
 イエス様に飼われる羊である私たちが、豊かになるために、イエス様は命を捨てる、と言われます。この「捨てる」は、本来持っていなければならないものを、誰かのために自分の意志で手放す行為を表します。
 良い羊飼いであるイエス様は、ご自分の羊を知っておられるし、羊の方でも誰が羊飼いかを知っています。聖書で言うところの「知る」は、単に知識として知っているだけではなく、離れがたく結びつく深い関係を意味します。ですから、天の父なる神と独り子イエス様が深くつながっているように、イエス様と私たちも、離れがたく深い結びつきの中にあるのです。
 かつては囲いの中にいない他の羊であったパウロは、ガラテヤ2:20『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』と書いています。羊が羊飼いを見失って荒れ野に迷い出たら、生きていけません。イエス様の十字架を見失ってしまったら、命からどんどん離れて行ってしまいます。
 しかし、9節には『その人は、門を出入りして牧草を見つける』とあります。私たち羊は、イエス様につながる一方で、世にも出て行かなければなりません。ですから私たちは、礼拝に集い、祈りと賛美と御言葉に養われて、世に出て行き、そしてまたイエス様という門をくぐるのです。
 囲いに入っていない他の羊にも、私の羊飼いはこういうお方です、と証して歩む信仰者でありたい、と願います。
📢音声