十字架に何を見る

イザヤ書53章1~12節

澤田直子師

受難週は、神のご計画が粛々と進んで行き、しかしイエス様の他には誰もその意味が分からない、そういう一週間です。それは聖書の時代に限らず、今この現代でも、聖書もイエス・キリストも十字架も知っている、でも自分には関係ないと考える人はたくさんいるのです。
 イエス様は、ここまでに3度も十字架の予告をされました。しかし弟子たちはそれを自分たちに関わることとして受け止めていません。これは4節にある「彼が担ったのはわたしたちの病」そのものです。心を、思いを、神様ではなく自分に向けてしまう病です。
 そういう無理解の中でも、イエス様はご自分の周りにいる全ての人に愛の眼差しを注ぎました。何もわからない弟子たちに、付き添ってきた婦人たちに、果ては、ご自分を十字架に釘づけたローマ兵にまで、最後の最後まで、ただ愛することに全力を尽くされました。
 ゲツセマネの園では眠りこける弟子を赦し、傷を負わされた大祭司の手下を癒し、ユダの裏切りの接吻を黙って受けられました。イエス様を知らないと言い張ったペトロをじっと見つめ、大祭司の傲慢やピラトの無知にも何も言われず、隣の十字架で死にかけている強盗の信仰告白に、あなたは今日天国に入る、と救いの宣言をされました。
 6節にあるように、わたしたちはしばしば道を誤り、過ちを認められないがゆえに、正しい道に戻ることができません。それら全てを背負ってイエス様は死なれました。7節「彼は口を開かなかった」ご自分のためには、言葉一つさえも使わなかったイエス様。そのゆえに罪はイエス様のものとされ、イエス様の死と共に罪も死にました。
 それほどの愛を、弟子たちは容易に信じられなかったでしょう。しかしイザヤ書53章11~12節には、それが神の僕の強い意志であり、その結果に満足していることが記されています。罪から最も遠いところにおられた方が、自ら望んで、多くの人の過ちを担ってくださった。それはわたしたちに対する大いなる愛のゆえでした。
📢音声

これはわたしの体である

マタイによる福音書26章26~30節
澤田 武師

主題聖句 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、
        弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」 26節

 イエス様は過越しの食事の作法に従い、「パンを取って食べよ」と命じます。そして「これはわたしの体である」とのお言葉を付け加えられました。ここに新たな解放の宣言があります。イエス様は過越しのパンが、エジプトでの苦難からの解放を意味していることをさらに深め、人々の罪からの解放を示されました。それこそが、あなたの罪のために十字架で裂かれるわたしの体であると。この体をあなたに与えると言われます。それ以外に罪からの解放はあり得ない。ここに罪の赦し、真実の救いがあります。
 過越しの食事ではぶどう酒の入った4杯の杯を飲みます。これは奴隷時代、「重労働からの解放、贖い、救い、あなたたちの神となる」との、神様の4つの約束を意味します。「杯を取り、感謝の祈りを唱え」、これは3杯目の杯です。
 「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」イエス様が付け加えてくださった約束です。過越しの夜、イスラエル人の家の鴨居と柱に塗られた小羊の血が、民を守りました。神様とイスラエルの民との間の約束です。しかし、イエス様は十字架で流されるわたしの血こそが、神様と人々の新しい契約であると宣言されました。イエス様が生き、そして死ぬことによってあなた方と神様の間に新しい関係が生まれ、契約が結ばれることを宣言されました。新しい契約、ここに福音があります。
 「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」このお言葉は、イエス様が今どこを見ておられるかを示しています。イエス様は目の前に迫った十字架を見つめながら、最初の聖餐を行いました。罪からの解放、救いの新しい契約、それは十字架に架けられたイエス様のお体と血によって備えられるものである。そして、十字架の先にある神の国、父の国で弟子たちと共に歩むことを見ておられました。
 イエス様は過越しの食事を、新しい契約に変えてくださいました。聖餐はパンとぶどう液を、イエス様のお体と血を象徴するものとしていただきます。罪赦された者の幸いと、新しい契約を与えてくださった神様への感謝の時です。
📢音声

まさか私のことでは

マタイによる福音書26章17~25節
澤田 武師

主題聖句 「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、
        イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ』」 25節

 「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」イエス様のお言葉は、過越しの食事を楽しみしていた弟子たちに、衝撃を与えました。
 過越しの食事では、エジプトでの苦難を思い起こすために、塩水を入れた鉢にレタスやパセリを浸して、それを前菜として食べます。既に弟子たちは食べ終えていました。イエス様を主として、共に弟子として歩んで来た者たちには、なぜイエス様がこのようなことを「今」言われたのかは理解できません。「わたしの時が近づいた」イエス様だけが、十字架が確かに近づいて来ていることを知っています。
 「主よ、まさかわたしのことでは。」弟子たちは代わる代わる言います。マタイによる福音書では「主よ」との呼びかけは、イエス様を信じる者が呼びかける時に用いられています。お言葉は弟子たち自身の信仰、イエス様への信頼を激しく揺さぶります。弟子たちは不安、弱さを改めて見せられました。それでも、イエス様と共に生きることを願った者たちの、弟子としての精一杯の応答です。
 ユダも「先生、まさかわたしのことでは。」と応答しますが、ユダには分かっていました。既に裏切りを決めていた自分自身の言葉には真実は無い。マタイによる福音書では、「先生」との呼びかけは、イエス様を信じない者、敵対する者が使う言葉です。ここに、他人には見えない、ユダの心の事実が現されています。
 ユダはイエス様を裏切った者です。しかし、その動機から、またユダが最後に選んだことから見て、イエス様の命までも奪うつもりは無かったとも考えられます。
 「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者ためにはよかった。」このお言葉は、イエス様を否定する者、神様を否定する者すべてに向けられた言葉です。このお言葉が自分に向けて語られたと知っていたのはユダでした。最後の晩餐にユダが招かれたことは、神様のご計画として十字架への道が確かに開かれたこと、罪の赦しの御心が、ここでも現されたことを意味しています。イエス様はユダを支配している「この世」から、「先生」と呼びかける者から、もう一度「主よ」と呼びかけ、まことの主に立ち帰る機会を与えたのではないでしょうか。
 私たちもユダと同じ罪人です。私たちの中のユダを見ましょう。そして、主よ、と告白して十字架を見上げる者として、生かされて行きましょう。
📢音声

知る力と見抜く力

出エジプト記2章1~10節  フィリピの信徒への手紙1章9~11節
ケルン・ボン日本語キリスト教会牧師  佐々木良子師

 出エジプト記1章~2章には、モーセの誕生にまつわることが記されています。イスラエルの民にとって、その時代は暗黒で最悪な時でした。
 本日の聖書箇所はそれぞれの独自性をもった多くの人々が登場しています。残虐なエジプト王・ファラオ、神を畏れる尊い信仰をもったヘブライ人の助産婦、憐れみの情をもったファラオの王女、信仰と賢さをもったモーセの母と姉のミリアム・・・等。これらの人物が誰一人欠けても、のちの指導者モーセという人物はあり得なかったことでした。
 イスラエルの民の人口はエジプトに移住して400年ほど経った頃には驚異的に膨れ上がったのでエジプト人は恐れ、苛酷な労働を課して人口増加を食い止めようとしましたが益々増え続けました。そこでファラオは「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうりこめ・・・」(1:22)と、男児殺害の恐ろしい命令を出したのです。しかし、そこで神は先ほど挙げた人物を豊かに用いてモーセは王女の子としてエジプトの教育を受け、成人した時はあくまでも神に仕えるヘブライ人の指導者へと成長していきました。
 このようにモーセが指導者となっていく過程に、神は敢えて最悪の時代を用い、その壮大なご計画の実現と共に神ご自身がどのような方であるかということを示されました。そのことはモーセがイスラエルの民を率いる指導者になってから知ることとなります。エジプトの王女のもとで育てられること自体が奇跡ですが、更にモーセ自身が信仰を受け継いだヘブライ人として成人したことは常識的に考えられないことです。しかし、そのあり得ないことをされるのが神です。
 聖書に記されている出来事は常に時間差で後になって「なるほど!」と驚きと感動をもって神の御業を仰ぎ見ることになります。私たちが考えることができない程に味わい深く豊かですから神なのです。ですから私たちはそのような神にお委ねしてワクワクしがら次のステップへと踏み出していけるのです。そこに私たちの希望があります。
 モーセ誕生にまつわる出来事に思いを馳せる時、私たちは神に焦点を合わせていくならば、本当に大切なことを知る力と見抜く力が与えられて、神の御業に目覚めていくことを悟ります。このような仕方で神の深い神秘を知っていき信仰生活が前進していくものです。
📢音声

わたしたちは信じる

ヨハネによる福音書4章39~42節
澤田直子師

 ヨハネ4章の大部分を占める「サマリアの女」の話は、単に出来事を記したのではなく、神様のご計画として神学的な意味を表そうとしています。
 井戸の傍で女を待つイエス様の姿は「キリスト論」です。救い主とはどのようなお方か。また、イエス様と女の会話は「救済論」、救われるということは、内に枯れることのない泉が開かれるようなものであるという事です。
 女が礼拝について問う「礼拝論」イエス様は、まことの礼拝は「霊と真理」によって奉げられると教えます。霊とは神からの聖霊、真理はイエス様そのものです。最後は「宣教論」神の働きが現れる時には、種蒔きと刈り入れが同時に行なわれるような、わたしたちの常識とかけはなれたことが起こり得ます。
 使徒言行録8章にもう一度サマリアの町が出て来ます。ここではイエス様の弟子フィリポが福音を告げ知らせますが、この時にはシモンという魔術師がサマリアの町で人気を得て「神の力だ」などと言われています。どうも、サマリアの人々は信じるのも早かったけれども長続きしなかったようです。ペトロとヨハネが加わって、「聖霊を受けるようにとその人々のために祈った」信じたらそれで終わりではなく、聖霊のお働きを祈って、信仰がより深くより新しくされるよう努めなければなりません。
 サマリアの出来事は、わたしたちが信仰を持つ道筋を教えると同時に、それで、その後はどうしますか?ということを問うているのではないでしょうか。信仰の告白、洗礼を受けることは、ゴールではなくスタートです。イエス様の十字架と復活を信じ、罪赦されて新しい命をいただいてからが、信仰者の勝負どころなのです。
 ローマ 12:2「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」また、 14:8「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」信仰を告白した後の歩みが全て、主に栄光をお返しするものとなりますように。
📢音声

永遠の命に至る

ヨハネによる福音書4章27~38節

澤田直子師

 弟子たちはサマリアの町から食べものを買って帰ります。入れ替わりにサマリアの女は町の人々を呼びに行きます。弟子たちから食事を勧められたイエス様は 『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』 と言われます。まだ使徒として遣わされていない弟子たちには、この言葉の真意はわかりません。キリスト教には、頭で学んでもわからない、実際に自分の身に起こったこととして受け入れなければ理解できないことが多くあります。それを、わかりませんから信じられません、というのではなく、わかりませんが信じます、というところに信仰の力があります。
 35節 『刈り入れまでまだ4か月ある』 とはユダヤの諺で、何事もすぐに結果は出ない、という意味で使われます。ここでは、遠くの方に、サマリアの町から女に連れられてやってくる人々の姿が見えたのかもしれません。霊的な成長は、時を待たずに起こり得ることを示しています。ついさっき、ひとりの女性が救われました。もうすぐ、何人ものサマリアの町の人が救われ、2~3日後にはほとんどの人が救われるでしょう。
 イエス様は全き人でありながら全き神ですから、天に用意されている刈り入れの報酬が見えているのですが、地に住む人間にはそうはいきません。ヨハネ14:2~3にある、イエス様が天に用意してくださる父の家が、刈り入れ人の報酬です。この報酬のために、旧約聖書の預言者たちも命がけの働きを捧げました。地上の生活で働きが報われた人は多くありませんでしたが、皆、天上の報酬を信じて神に従い通し、その働きは今も手から手へと途切れることなく受け継がれているのです。
 サマリアの女の話を通して、目に見える奇跡はおこりませんでした。イエス様が疲れて座っておられた。サマリアの女と話した。女が町の人に話した。イエス様がそこにおられる、イエス様にお会いするというのは、これほどの力を生むのです。サマリアの女は、たった一度イエス様にお会いして、立派に刈り入れ人として用いられました。わたしたちにも、報酬は既に用意されています。召しに答える弟子となりましょう。
📢音声

渇きを潤す

ヨハネによる福音書4章16~26節

澤田 武師

主題聖句 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 24節
 ヨハネは10節~26節に、イエス様とサマリアの女性との間に交わされた言葉だけを記しています。それは読者に、話された言葉にのみに集中して、私たちも一緒に立ち会っているような緊張感を与えることを意図して書かれたと思います。イエス様が女性に問いかけた言葉を、私への問いかけとして聞く、それはこの記事を読むたびにサマリアの女性が救われた事実を、私の救いとして追体験することです。イエス様が私に何を求めておられるのかを、繰り返し知ることを、ヨハネは私たちに求めていると思います。
 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」イエス様の問いは、サマリアの女性に「わたしには夫はいません」との現実を告白させます。「あなたは、ありのままを言っただけだ。」イエス様の応答は女性の過去、現在を否定せず、裁きの言葉でもありません。女性が今連れ添っているのは夫ではない事実を全てご存じであって、そのために渇きを覚える女性にかけられたイエス様の優しさを感じられます。
 女性は赦しを求めてイエス様に迫ります。「婦人よ、わたしを信じなさい」。このお言葉の中に女性が求めていた答えは全てあります。イエス様は神様を礼拝する場所を整えてくだる、その時が来ることを示してくださいました。
 「霊と真理をもって礼拝する」とイエス様は繰り返されます。とても大切な事です。「霊」とは、言い換えれば「こころを込めて」という意味です。形式や儀式、外見だけでなく、そこに神様に真剣に祈る心を、献げる礼拝を現しています。「真理」とは、イエス様の十字架は神様と直接に出会う道を、イエス様を信じる者すべての者に開いてくださいました。そのイエス様を通して献げられる礼拝です。ここに「その水をください」との女性の最初の祈りの答え、赦され者への救いが与えられる約束があることが示されています。
 イエス様は今はっきりとサマリアの女性に話されました。サマリアの女性の渇きは潤されました。彼女は命の水を与えられている喜びに気付かされました。目の前にいるイエス様に気付かされました。
📢音声

その水をください

ヨハネによる福音書4章11~15節

澤田 武師

主題聖句 「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。』」 15節
 イエス様は御言葉を通してサマリアの女性に「生きた水」を与えられました。「生きた水」は女性の心を変えて行きます。女性は、この見知らぬこの旅人の言葉によって、自分でもよくわからない、何か特別な思いが与えられたことに気付きました。しかし女性はすぐには現実から離れることができません。昔からあったヤコブの井戸は深く、ここに住む者たちを生かし続けて来た、それ以外の水を「どこから手に入れるのですか」と、イエス様に問います。
 13節イエス様の御言葉「この水を飲む」とは「律法」を現していると言えます。律法を守る、その行いによって救いが与えられる。しかし、時間が立てばまた喉が渇くように、律法を守らなければ、救いから外れてしまう。それは、「この水を飲んでも」心の渇きからは完全には解放されないということです。
 「生きた水」とは「福音」です。イエス様を信じて「わたしが与える水」を飲むことにより、自分の内側に豊かに湧き出る泉のごとくに、人に永遠の命を与え、「再び生かされる」。完全に潤されるとういことです。
 女性は答えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。彼女が全てを理解し受け入れたのではありません。しかしここには本当に求めているものが示された者の言葉、信仰の告白があります。女性はもうこれ以上、渇きを覚える生活を繰り返したくない、やめてしまいたいと強く願うようになっています。その力となったのが、泉となって心の渇きを潤す「生きた水」です。「その水をください」 サマリアの女性が、初めて祈り求めた言葉です。それはイエス様を隣人として受け入れ、また、救い主と信じた者の祈りの言葉となりました。
 皆さんはイエス様に、最初に何を祈り求めたかを覚えておられますか。その時が、皆さんとイエス様が隣人となった時、救い主であると知った時です。サマリア伝道は、この女性の、生き返る喜び、救いの喜びを求めた祈りが、第一歩となったことを記しています。真っ直ぐにイエス様に切に祈り求める心が、祈り手だけでなく、世をも変えていく力を持つということです。
📢音声

生ける水を求めよ

ヨハネによる福音書4章1~10節

澤田直子師

ユダヤ地方からガリラヤへ行こうとすると、途中にサマリアがあります。当時のユダヤ人は、サマリアを嫌ってわざわざヨルダン川沿いの回り道を通りました。サマリアは北イスラエル王国の首都でしたが、紀元前722年にアッシリアに滅ぼされて後は、混血が進みました。ユダヤ人はそんな所を通ったら汚れると考えたのです。しかしイエス様はあえてサマリアを通ります。
 5節に出てくるシカルの井戸は、創世記にも何度か記される「シケム」です。イエス様はここに、旅に疲れて座っておられました。神の独り子として、疲れや飢え渇きを克服することはできたでしょう。しかし、後で来るサマリアの女の目に、立派すぎて近寄りがたく見えないように、疲れて渇いている必要があったのだと思います。まことに主は、わたしたちのところまで降りて来てくださるお方です。
 水を汲むのは女性の仕事ですが、重労働なので、朝早くまだ暑さが来ない内に、何人かで連れ立って助け合うことが普通でした。ですから、真昼に一人で水を汲みに来るのは異例のことです。そこでイエス様の方から声をかけるのも、異例中の異例です。ユダヤ人の宗教指導者は、家族以外の女性に声をかけることはなかったそうです。イエス様は「水を飲ませてください」と話しかけました。上から目線で、教えてやろう、助けてやろう、というのではなく、女性の親切を求めたのです。
 また8節では、弟子たちが食べ物を買いに行っていたとありますが、これは明らかにイエス様がそうお命じになったのでしょう。もしこの場に弟子たちがいたら、サマリアの女は、怖気づき、心を閉ざしてしまったでしょう。イエス様は、この女性と一対一で話をしたかったのです。
 イエス様は、たった一人の女性を救うためになんと綿密な、思いやりのあるご計画を立てたことでしょうか。同じように、わたしを、あなたを救うために、主はどれほどのことを計画し実行してくださったでしょう。主と出会った時を思い起こし、生きた水を求めて歩みだしましょう。
📢音声

神の言葉を話す

ヨハネによる福音書3章31~36節

澤田直子師

ヨハネによる福音書3章の終わりは、洗礼者ヨハネによる証です。洗礼者ヨハネ自身が祭司の家系に生まれた奇跡の子どもでした。しかしヨハネにとっては、自分のところに留まられては困るのです。何とかしてイエス様の方へ行ってもらわなくてはなりません。
 イエス様の方でも、ご自身には分かり切っていることが、愛する弟子たちには理解できないという難しさを持っておられる。福音書には、イエス様がご自身を証しされている言葉が記されていますし、十字架と復活についても3度も話されていますが、弟子たちは理解しません。結局、洗礼者ヨハネの証しであれイエス様のお言葉であれ、受ける側の問題なのです。
 32節「だれもその証しを受け入れない。」は、ゼロではなく、ほんのわずかな者が該当することを表す言葉です。そのわずかな者だけが33節 「神が真実であることを確認したことになる。」 この「確認」は、普段使いではなく、重要な書類や証文を一字一句確かめてサインをして責任を持つくらいの重い意味を持つ言葉です。
 キリスト教は関係性を作っていく教えですから、自分一人が理解しても救われても、それだけでは不十分です。その福音を、あなたは誰にどのように伝えますか、と問われます。その方法論を知るために、わたしたちは何かというと聖書を読み、御言葉から学ぶのです。
 イエス様が天に属するお方でありながら、この地上に来られたのは、最も高い所から低い所へ来てくださったということです。癒しの奇跡を多く行われたのは、痛みや苦しみを憐れんでくださるお方である証です。 「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話す。」 イエス様の言動は神の御心そのものでした。しかし、もともと地に属する私たちも、主の十字架の贖いによって神の子と呼ばれる以上は、やはり神の霊をいただいて、神の言葉を話すのです。申命記30:14「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」 できる、と主は言われます。「神の言葉を語る」日々を歩みましょう。
📢音声