命をかち取りなさい

ルカによる福音書21章7~19節

澤田直子師

 ルカの福音書21章のほとんどは「終わりの日」について語られています。弟子たちも民衆もエルサレム神殿が崩れるのは世の終わりの時だと信じ込んでいました。しかし、エルサレム神殿はソロモン、ゼルバベル、ヘロデと3回建てられたものです。イエス様と弟子たちが今語らっている神殿も、紀元66~67年にはローマ軍に徹底的に破壊されました。
 イエス様が言われた「世の終わりの徴」を読むと、現代に生きる私たちも、これは世の終わりは近いのではないかという気持ちになります。しかしイエス様ははっきりと「すぐには来ない」と言われます。イエス様が弟子たちに教えておきたかったのは、これから「世の終わりではないか」と思うような苦難が来るが、備えは十分になされているのだから大丈夫、ということだったのではないでしょうか。
 天変地異や戦争は恐ろしいものですが、それが必ず世界を、人を破壊して滅亡させるかというと、そうではない。世の終わりの話を、息を詰めて聞いていた弟子たちは、イエス様が捕らえられた時我先に逃げてしまいました。この事実が教えてくれるのは、本物の試練は外側からは来ないという事です。これに対して、私たちの内側、意志や心を揺さぶるのが、真に恐れなければならない試練なのです。イエス様は迫害を 『あなたがたにとって証しをする機会となる』 チャンスである、と言われました。弟子たちはチャンスを捨てて逃げますが、復活のイエス様は再び弟子たちの真ん中に立って、チャンスは一度きりではないことを教えてくださいました。
 『あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない』 とは、文字通りの意味ではなく、霊的に滅びるものは何一つないという事でしょう。イエス様は、捕らえられ、裁判にかけられ、叩かれ嘲られながら、何も言わず静かに立っておられました。それは戦いでした。十字架に死んで全ての人の罪を贖うために、イエス様はご自分のためには一切の力を使わず、意志の力を振り絞って忍耐して、ついには命を勝ち取られました。私たちも忍耐によって命を勝ち取りましょう。

何を見て生きるか

ルカによる福音書20章9~19節

澤田直子師

 イザヤ書以降、「ぶどう園」はイスラエル民族を表す言葉とされています。
ぶどう園の主人が送り込んだ僕とは旧約聖書の預言者たちを、最後に送った愛する息子はイエス様を表します。
 パレスチナでは不在地主の存在は珍しくはなく、実際の労働者に手厚い律法が定められていました。地主は土地の賃貸料ではなく、収穫物の3割程度を取り分としましたから、豊作でも不作でも、収穫を農夫と分け合いました。しかし、収穫物の全てを得たいと願う農夫たちは、主人から送られてくる僕や息子を拒絶します。神の御声を聴かず、聴いても従わないのは創世記以来の人間の姿です。
 ここでもまだ民衆はイエス様に期待し、喜んで話を聞いていますが、数十時間後には「十字架につけろ」と叫びだすのです。『家を建てる者の捨てた石これが隅の親石となった』 とは詩編118編22節の引用です。隅の親石については主に①アーチ門の一番上の石、②大きな建造物の角に使う石、の2説あります。どちらにしても、二方向からの力に耐えうる、傷や割れのない固い石が選ばれます。この世の富、権威を求める者たちが捨てた石がまことの隅の親石となったのです。ダニエル書2章にある、巨大な像の夢を思い起こさせます。
 ぶどう園を預けられた農夫が見ていたのは、自分たちの働きだけでした。律法学者たちが見ていたのは、この世の権威でした。民衆は、自分たちは何もせずに、強大な力でローマから解放してくれる指導者を見ていました。イエス様は何を見ておられたでしょうか。福音書を読めば誰にでもわかることです。イエス様は、いつも、どこでも、弱い者、虐げられた者、貧しい者に目を留められました。そういう人たちこそ、神の国に招き入れられる、と教えてくださいました。
 第一コリント6:19 『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。』 私たちは神の宮です。その隅の親石から決して目を離さずに歩みましょう。

チャレンジャー

ルカによる福音書5章1~11節

ケルンボン日本語キリスト教会 佐々木良子牧師

 新たな召命を受けて、13年間実家のように慣れ親しんだ小松川教会から、皆さまのお祈りに支えられてドイツの地に赴任して、早いもので1年になろうとしています。ドイツへの派遣自体が大きなチャレンジでしたが、赴任してからは更に「沖に漕ぎ出しなさい」と主に背中を押されています。その事により主が御業をなさっている世界を、見せて頂いている毎日です。常識の限界、そして自分の限界が引き上げられ、信仰が新たにされ深められる幸いに感謝しています。
 本日はペトロを通して、沖へ漕ぎ出すことの幸いを共に学びたいと思います。ペトロたちは夜通し網を降ろしていましたが、収穫はありませんでした。そこで主はペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と、呼びかけられました。そうして「・・・しかし、お言葉ですから」と、従った結果「・・・おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」(6節)と、記されています。
 そこには他の漁師たちもいましたが、主が声をかけられたのは先ずペトロです。主は具体的なことは語らず、今の場所から離れて網をおろしなさい、と仰せになっただけです。ペトロは先ず、この方にかけて従ってみようと一歩踏み出した結果、舟が沈みそうになる程の収穫を得ることができました。プロの漁師たちの経験からしてみれば到底あり得ない結果でした。
 しかし、主は人の価値観を破るお方です。そうでなければ、私たちの信仰の歩みは当にどこかで終わっています。主が書き換えてくださった人生設計へ方向転換していく時に、豊かな深みの世界へと広がっていくのが信仰生活の醍醐味と言えます。キリスト教は「この世の非常識が常識」と言われているように、正に主にある非常識を逸脱した世界が信仰の世界ですから、大いなる希望と期待をもつことができるのです。限界を覚えた所がチャレンジャーとしての新たな出発点となり、こうして何度もチャレンジしながら、私たちの信仰は育まれているのです。
 その後主は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と宣言されています。私たちが努力してなるのではなく、主がそのようにしてくださるという確固たる約束です。主の為に用いられるということは、自力でできるものではありません。全面的信頼を置いて従って行った時に主がその働きを助けてくださいます。私たちは遣わされている場は違いますが、それぞれの場においてチャレンジャーとして一筋の導きの光を求めていきたいものです。

わたしが選んだ器

使徒言行録25章23~27節

澤田 武師

主題聖句 『しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることが出来ません。』

使徒言行録25章26a節

 最近、国宝にも指定されています「曜変天目茶碗」(ようへんてんもくちゃわん)が新たに発見されたとの報道がありました。「器の中に宇宙が見える」と言われる、その深い世界観ゆえに高い価値を持った「器」です。しかし偽物ではないかとの指摘もあります。本物か偽物か、それぞれは「真実」を主張していますが、「事実」としては一つ「器」がここにあるということです。
 聖書には「器」という言葉が結構多く使われています。わたしたちは神様に作られた、間違いなく世界で一つのオリジナルな「器」です。イエス様を一番宣べ伝えた人物パウロは、イエス様に一番用いられた「器」、これは事実です。
 フェストゥスは、パウロがローマでの裁判を望んでいることに「戸惑い」を感じています。上級裁判に送るのには罪状が必要だったからです。フェストゥスはアグリッパ王を利用してパウロの罪状を求めようとしました。
 彼には分りませんが、この出会いこそは、イエス様が「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒9:15)と語られた御言葉の成就です。さらに「ローマでも証をしなければならない」(使徒23:11)パウロは伝道に用いられた「器」であるとの神の決意が示されたものです。
 神様はイエス様を飼葉桶の中に生まれさせてくださいました。飼葉桶は、子どもを寝かす「器」ではありませんが、神様はあえて用いられました。
 イエス様がかけられた十字架は、人の命を奪う「道具」であって、「罪の赦しと永遠の命」を表すものではありませんでした。しかし、神様はこれらを用いて、福音を表してくださいました。これが事実です。
 私たちは神様が作ってくださった「器」です。「復活」を信じる者として作り変えてくださった。私たち自身には何の価値もありませんが、私たちが神様に用いられた時、私たちは「高価で貴い器」となることが出来ます。これも事実です。

イエスが生きている

使徒言行録25章13~22節

澤田直子師

 ずっと動きのなかった場面に新しい登場人物です。アグリッパ王とその妹ベルニケは、ユダヤの王家の最後の兄妹でした。王の父は使徒言行録12章で『蛆に食い荒らされて死んだ』ヘロデ・アグリッパ、曽祖父がイエス様降誕の際に幼児虐殺令を出したヘロデ王、曽叔父が十字架の時のヘロデ王です。意識はしていなかったかもしれませんが、キリスト教と深い関りがある王でした。しかし王とは名ばかりで実際の権力はローマの総督の方がずっと大きかったので、新任のフェストゥスに早々に挨拶に訪れたのでした。
 総督フェストゥスは、アグリッパにパウロのことを話します。その言葉の中に 『このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです』 とあります。いつこの話を聞いたのかわかりませんが、ローマの総督をして『イエスが生きている』と言わしめる福音の力に驚かされます。イエス様が生きておられるとは真理そのものです。イエス様ご自身も 『わたしは道であり、真理であり、命である』 と言われました。
 信仰者にとって何より大切な真理『イエスが生きている』これをどんな時でも握りしめていきたいものです。コリントの信徒への手紙第一15章17節 『キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。』 しかしイエス様は生きておられます。私たちの罪は完全に贖われ、神の子、主の栄光の相続者として天に名前が記されている者とされました。
 ですから私たちは、試練の中でも、病の中でも、弱さの中でも、主の愛をいただいて、隣人を愛することができます。赦された者として赦すことができます。それは神の平安、平和を作り出す者の歩みです。ガラテヤの信徒への手紙2章20節 『生きているのはもはや、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』 生ける主と共に生きましょう!

主の御旨のみが

使徒言行録25章1~12節

澤田直子師

 パウロがカイサリアに2年も留置されている間、エルサレムのユダヤ人たちの計画は全く変わりませんでした。何とかしてパウロをエルサレムに送ってもらい、その途上で暗殺しようとしたのです。サタンのやり方はしつこく、絶対に自分が正しい、正しい目的のためには少しくらい悪いことをしてもいいと思い込ませ、このやり方しかないと信じ込ませます。
 このようなサタンの業は、イエス様の十字架の時も、最初の殉教者ステファノの時も同じでした。しかしイエス様は死んで復活され、ステファノはイエス様の元に上っていきます。パウロは生きてローマに連行されます。あらゆる命、あらゆる死に神様のご計画があります。同じようなサタンの業で始まっても、最後には神のご計画に変えられていきます。その示され方、表され方は、その時々、当事者によって違います。神様の御業は、一人一人、完全なオリジナルですから、自分と神様にしかわからないのです。
 わたしたちは信仰者として神様に「忠実な良い僕よ」と喜んでいただきたいと心から思っています。でもそこにはいつもサタンの誘惑があって、一生どころか一日も、一時間でさえも難しいのです。ところがわたしたちの全てをご存じの神様は、どのような道の途中でも、祈りに応えて、道を正してくださいます。思いがけない出来事から、思いがけない人の助けから、理不尽な試練からさえ、正しい道に導いてくださるのです。ヨハネの黙示録3章8節 『わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしを知らないと言わなかった。』 神は人を分け隔てなさいませんから、パウロのような大伝道者でなくとも、必ず、祈る者を用いてくださいます。
箴言19章21節 『人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。』 すべてを主にお委ねし、信頼して平安のうちに歩みましょう。

パウロに聞け

使徒言行録24章24~27節

澤田 武師

主題聖句 「数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。」 24節
 カイサリアでの裁判が止まってから数日後、ローマ総督フェリクスと妻ドルシラは再びパウロを呼び出します。この尋問はフェリクスの個人的な行動であったと考えられます。
 彼らは、パウロと「出会った」ことによって、今まで胡麻化してきたことや、解決できると思っていたことが、実は自分たちではどうすることも出来ない「心の暗闇」であることに気づかされました。そして、あらためてパウロからキリスト・イエスへの信仰について話を聞きに来ました。彼らは自分たちと全く異なる歩みをされたイエス様と出会いました。
 今パウロは伝道者としてイエス様の御名を宣べ伝えます。パウロの姿は終始一貫変わりません。伝道者となった最初から、伝える事はただ一つ「見聞きしたことを証しする」ことだけなのです。
 パウロの話は、信仰の核心に迫ります。それは彼らの「暗闇」そのものです。彼らは神様の前には「罪人」であり、「自制」に欠け、再臨のときには「裁き」を受ける者である。
 フェリクスは、自らの「暗闇」に真剣に向きあうことが出来ずに、パウロの言葉に「恐れ」を感じました。フェリクスはあと一歩、イエス様に近づくことが出来ませんでした。イエス様に心を開くことが出来ませんでした。自分を捨て去ることが出来ませんでした。
 フェリクスは判決を保留したままにしていますが、パウロの言葉は彼らに「悔い改め」を迫ります。人の思いが勝る時、神様の言葉は受け入られません。フェリクスの自己義認への「執着」は、パウロとの間を、神様との間を裂きました。ここにこの裁判の判決があります。
 神様は悔い改める者には、いつも語りかけてくださいます。ここに帰れと、再び会おうと語りかけてくださっています。イエス様を十字架に架けられても、私たちに救いを与えてくださいました。静まって神様の声を聞いてください。

喜んで弁明いたします

使徒言行録24章10~23節

澤田 武師

主題聖句 「しかしここで、はっきり申し上げます。私は彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」    24章14節
 テルティロの「偽り」の告発を、パウロは聞きました。パウロは、「喜び」をもってイエス様の復活、その「事実」を弁明します。生き生きと語るパウロの姿が見えるような気がします。
 パウロは「ナザレ人の分派」と呼ばれたこの名こそが、イエス様の福音に生きる者として、「主の道に従っている者」の名であると、「はっきりと、確信をもって」語ります。
 一方、ローマ総督フェリクスは「この道についてかなり詳しく知っていた」と、既に「福音」は知っていたようです。地位も権威もある。でも、今彼には喜びはありません。彼が判決を延ばしたのも、パウロからイエス様を信じる「真の喜び」とは、何であるかを聞こうと考えていたからではないでしょうか。
 私たちも経験します。信仰の初穂。福音は、家庭内に一時的な「騒動」を起こします。また、信仰生活に「つまづき」を感じる時は、「信仰の喜び」は、「心の騒動」へと変わってしまいます。
 
 キリスト教は、迫害の歴史から一つの事を証詞しています。それは、その時代の信仰者はどのような状況であろうとも「喜びをもってキリスト伝え続けた」、という事実です。
 パウロは“なぜ”ここまで前向きなのか。それはイエス様にこそ、「望み、平安、希望」があると確信していたからです。信仰生活のキーワードは「御言葉を信じ、復活に希望を抱き、再臨を待ち望みつつ、この道を歩む」ことであると、パウロは私たちにも語っています。それは「この道」の内に在ります。
 ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は…、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」私たちの話を最も「聞いて」くださっているのはイエス様です。事実の言葉を語る時、それは福音として誰かの心に届きます。福音を告げる言葉を喜んでこの世に響かせましょう。

騒動を引き起こす者

使徒言行録24章1~10節

澤田 武師

主題聖句 「実はこの男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者『ナザレ人の分派』の主謀者であります。 24章5節
 カイサリアは異邦人の町、ユダヤ人の影響を受けない町です。この町へ、パウロを訴えるために、大祭司アナニアは弁護士テルティロをも同行させて行きます。裁判の勝利に対する執念を感じさせます。
 テルティロの告発は、ローマ総督フェリックスに対して最大級の褒め言葉から始まります。そしてパウロを3つの罪で訴えます。「騒動」を引き越している。「ナザレの分派」の主謀者である。「神殿を汚した。」という罪です。ここに、テルティロの人の心を支配する、巧みな技があると思います。
 事実、歴史はフェリクスがローマ総督であった時、彼が冷酷な態度でユダヤ人の反乱を鎮圧したために、さらなる反乱を招いていたと記しています。反乱は増え、世は不安でした。フェリクスへの称賛の言葉はかえって、彼に不安を与えたのではないでしょうか。それは他人ごととしてではなく、フェリクスは「自分自身への裁きの言葉」とも聞こえたのではないでしょうか。
 パウロの罪状は大祭司アナニアたちの「自分たちの真実」から作られました。それは「偽りと事実を混ぜ合わせて作った真実」です。テルティロはそれを聞きましが、彼にはそれが偽りであることはわかっていたと思います。テルティロの言葉は大祭司アンナスの思いを実現させるために、フェリクスを動かすために訴え続けられた計算された言葉です。彼の言葉からは事実は聞けません。
 マタイによる福音書では、番兵たちは復活の「事実」を祭司長たちに報告しましが、彼らは自分たちの「真実」へと変えてしまいました。
 パウロは「復活の主」の事実を伝え続けて来ました。事実をこの世は受け入れません。信じません。排除しようとします。そこに「騒動」は起きます。
 騒動は私たちの心の中にも起きます。もし騒動が起きなければ、何も感じなければ、それはこの世に従って生きているということです。「騒動を引き起こす者」、その名前はイエス様の福音を聞き、生きる者の栄誉ある名前です。福音はこの世に騒動を起こすために響きます。福音を聞いてゆきましょう。

動き出す時

使徒言行録23章23~35節

澤田直子師

 パウロを殺そうとするユダヤ人の陰謀を知った千人隊長は迅速に動きます。パウロ一人につく護衛の数は470人。エルサレムに駐屯しているローマ兵の半分近くです。もし、パウロがローマの市民権を持っていなかったら死刑になっていたかもしれません。『主の山に備えあり』パウロはローマ軍に命を守られただけでなく、ローマの公費で、護衛付きでローマへの旅を始めたわけです。
 物事が動く時というのは、わたしたちの想像を超え、人間的な思いを吹き飛ばすようにして動くものです。2016年の小松川教会のクリスマスシーズンは、まさにそういう時ではなかったでしょうか。白百合保育園のページェント礼拝、教会のクリスマス愛餐会、原登名誉牧師のご葬儀、クリスマスイヴ礼拝、クリスマス礼拝、と一週間の間に行なわれました。
 この時の辛さは、物理的な忙しさよりも、ふさわしくない者が事に当たらなければならないところにありました。本当なら、どれをとっても大切な事に、誰もが納得する十分な準備をしたかったのです。しかしそんな余裕はなく、そこに居る者ができる限りを捧げなければならない。そういう時があるものです。
 わたしたちには理解できない速さで物事が動く時、そこには神様のご計画が働いているのです。わたしたちは何もできないのではなく、神様のお創りになる大きな流れの中の、必要な一人です。そこを信じ切れるかどうかで、起こったことに対して感じることが全然違ってきます。試練から逃げることばかりを考えてつぶやき続けるか、試練を受けて立ち、その場でできることに取り組むか。
ローマの信徒への手紙8章28節。『神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。』この手紙は、パウロが第3次伝道旅行を終えてエルサレムに帰ろうとした時に、船が出ずコリントに足止めされた時に書かれたものです。先を予見していたような言葉です。わたしたちも間違いなく「ご計画に従って召された者」です。信じて歩みましょう。